高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』を読んで余計なことばかり考える

 今月は何度かナヲコ先生の作品の展開について記事を書きましたが、最新のナヲコ先生のサイト情報に拠りますと、挿絵のお仕事の本が出たそうです。

f0030574_0151839.jpg早見裕司 作/ナヲコ 画

 表紙とか題名だけ見るとライトノベルそのものという感じですが、理論社といえばフォア文庫の一角を担っているくらいで、そこが出すからには「児童書」なのだそうです。ナヲコ先生も児童書の挿絵とは、実にお仕事の幅が広がって喜ばしきことかなと思うのですが、しかしどうして児童書に描くことになったのか、それは興味深くもあります。
 ところで、文章の方を書いている人の名前はさっぱり見覚えがなかったのですが、検索してみたところライトノベルというかジュヴナイルというか、そっちで多くの実績のある方のようでした。してみると、狭義の「児童書」を出していたところも、昨今の時勢に応じてライトノベル的な方向へ寄って行っているということなのでしょうか。
 今月発売の百合アンソロジー『つぼみ』に載る予定だったナヲコ先生の作品は3ヶ月延期のやむなきに至った模様ですが、このような形でナヲコ先生の新作が見られるのでしたら、それはそれで有難いことです。もっとも3ヶ月といえば、今月19日発売の『月刊COMICリュウ』でも3ヶ月続けて「なずなのねいろ」はお休みだったりするわけで、そろそろこちらの再開の方も気になって来ます。
 ので、実はここまでは枕であって、以下に津軽三味線を奏でる少女・なずなを主人公(伊賀君が主人公だったっけ? あれ?)にした「なずなのねいろ」の、連載再開までの暇潰し的話題を以下に。


 小生は大体に於いて極めて偏った知識の持ち主ですが、芸能・芸術方面は特に疎く、その中でも更に音楽についてはろくすっぽ知識がありません。それは小生が稀に見る音痴であるということも大きく影響しておろうかと思います。現在在籍している大学院の研究室が、飲み会こそ好きでもカラオケに行くことがあまりない、稀に行っても軍歌を流しては背景画像の兵器の鑑定ばかりしている(さすがにその部屋から女子学生は姿を消しましたが・・・)、そんな所だったのは勿怪の幸いというべきでした。
 というわけで、小生は三味線のこともちっとも知識がなかったのですが、「なずなのねいろ」連載開始後暫くして、古書店の(確か)安売りの棚で以下の本を見つけ、これはなにがしか津軽三味線についての知識を与えてくれるのではないかと思って買い込んだのでした。

高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』(中公文庫)

 三味線や民謡にまるで教養のない小生でしたので、高橋竹山という名前も全く知りませんでした。
 高橋竹山(1910~98)は青森県の東津軽郡に生まれ、幼児に麻疹で半ば失明(後完全に失明)、三味線を習って、門付け芸人として東北や北海道を回って生計を立てていたそうです。戦後になって津軽民謡の名人・成田雲竹の伴奏者となって竹山の名を貰い、次第に三味線奏者としての評価を得、ついにはその名は全国に、更には世界に知られるにいたったのでした。まあ詳しくはリンク先のウィキペディアでも読んで下さい。
 本書は1975年に出された高橋竹山の自伝です(正確には竹山が語った言葉を佐藤貞樹という人が書き留めた聞き書き)。これを元に映画化もされたんだとか。小生が買ったのは1991年の文庫版です。
 で、この本は大変に面白い本なのです。それはもう。面白さに魅せられた人は既に大勢おられまして、ネット上でも力のこもった感想を幾つも拾うことが出来ます。目に付いたものを幾つか以下に挙げてみましょう。

松岡正剛の千夜千冊 第八百八十四夜
マーレルソサエティの読書
BOOKS昭和堂「それ、読みたい!」 追記:サイト消滅につき web archve へリンク
誰か昭和を想わざる「風雪ながれ旅」 追記:サイト消滅につき web archve へリンク

 一番下は本書の感想というより演歌を巡るエピソードですが、本書の影響を知る上では大変ありがたい情報です。
 三味線奏者としての竹山については、それを語る資格も能力も教養も欠如している小生としては、芸についての本書の記述を云々することは出来ません。竹山も「耳がわるい人はまちがっても、それがいい音だと思っている」(p.177)と言ってるし。にもかかわらず小生が本書を頗る面白いと思ったのは、その史料としての価値なのです。本書は、なかなかその生活を後世に伝えることのない、盲目の門付け芸人の生活を一端なりとも教えてくれる点で、まことに珍しいものと思います。しかも竹山の観察は鋭く、記憶も値段などの細部に及んでおり、この人本当に目が見えなかったのか? と思うほどです。
 以下、もうちょっと具体的に見ていきましょう。



 竹山の自伝は、大正時代の津軽の農村生活を伝える点でも貴重で、当時はまだ米で代金に支払いに充てることが多かったとか、大家に働きに行く娘は無給だったとか、そのような話も色々あります。
 門付けをして歩く芸人にとって、戦前の巡査は天敵のような存在だったようです。門付けをしてる後ろをつきまとわれたり、鑑札持っているかと尋問されたり。弱いものいじめをする巡査には竹山も怒りを隠さず、「お前みたいなものは、いまオレを苦しめてればなが生きしねえよ、とほんとに思った。いまだったら、三味線の撥でナズキ(額)こわれるだけぶったたくけど」(p.71)、「巡査だからって、えばるもんでねえよ。自分の家に体の不自由なものがいたら、お前、なんとしたものだ。人の苦しみもいい加減に覚えてかかるもんだえ。肝やけた(腹が立った)」(p.72)などと述べています。
 もっとも巡査が威張っていたのは盲人に対してだけではなく、村人に対しても暴力を振るったりしていたのです。しかし一方碌でもない巡査には、若者組が団結して夜間襲撃し、炭俵をかぶせて文字通り袋だたきにして、時には川へ放り込んだりもしたようで。逆に子供の頃の竹山のいたずらがきっかけでかえって仲良くなった巡査もいて、彼は後年門付けに回ってきた竹山を駐在所に泊め、ご飯を食べさせてくれたのだとか。

 確か谷合侑『盲人の歴史』(明石書店)だったか、古本屋で見かけてちょこっと立ち読みしただけだったのですが、記憶に残っているのは、江戸時代には盲人は独自の盲人社会を作っていた、その中で厳しいことは厳しかったが、少しは自立的に盲人が生きていくことが可能になっていた、ところが明治維新以後の国民国家形成の中でそういった独自の社会は解体され、盲人の自立の道は再度閉ざされる方向に向かった、という説明でした。その観点から言えば、近代国家の秩序体系を守るべき巡査が、国民国家の国民の枠を外れた(端的に言えば、盲人は兵役に就けない)盲人を邪険に扱うのもまた道理であります。そして、その盲人である竹山が「泥棒とはいつも友だちだった。おらたちのように生活に困って歩いているものには親切にしてくれた」(p.42)と述懐するのもまた道理でしょう。
 一方で親切な巡査もいたことは事実で、体制の問題点をその中にいる個人がある程度は救済することが不可能ではない、ということを教えてくれますが(後年竹山が入学した盲唖学校の先生もそこに入るでしょう)、しかしその限界をもきちんと見据えておくべきでしょう。平たく言えば、個人の善行を以てしても体制の弁護にはならない、ということです。

 農村の支払い手段が米だとか、身分的周縁な話をしていると、何だか江戸時代のことみたいですが、そして竹山が江戸時代以来の芸のあり方の後継者だったことは事実でしょうが、一方で竹山が生きた時代はまぎれもなく近代です。そして竹山自身もその時代に対応する才能が結構あったのではないか、そんなエピソードもあります。このエピソードは大変興味深いと小生は思いましたので、少々長くなりますが以下に引用します。
 小さい頃から機械いじくるの好きで、古い時計でもなんでもこわしてみて組み立てたりして遊んだ。昔の発動機だの、炭でおこすガスエンジンだのなら、いまでも自信ある。故障みつける腕もってる。
 そういうのは機械やってる人のそばで、じーっと見ていてひとりで覚えたものだ。いまでも車に乗っていてどの位エンジンをかけているかわかるし、運転の上手下手もわかる。村の精米所の機械も直したことがあった。たいがい音をきけば音でわかった。
 門づけして歩いていた時、故障で動かない精米の機械直してやったことがあった。やはり唄うたって歩いていた人と二人で津軽のほうさいったときだ。そば屋で休んでいたら、その唄うたう人の親戚の人が店さ入ってきた。そのあたりの村の精米所やってる人だそうで、二人の話をきていれば「発動機の故障で三日ばかり休んでいる、弘前の機械直す人に頼んでるんだが、まだ直しに来てくれないので困っている」というようなことだ。
 そこでおら口はさんだ。きけば六馬力の機械だというから、それだらおらみてやるか、っていったらその男、体よじらせてハハハハ笑った。
「なにこの、うすまなぐ(薄眼)の白玉、この。おれでも直せないのお前みたいの、なしに解がるんだ」と思ったんだべ。それでも連れの唄うたいがおらのこと知ってるもんだから「これ、器用な男だから、まず見せるだけ見せてみなが」といってくれたし、おらも「三日も機械屋来ねば商売も困るべ、ま、見るだけ見てみらね」って、とにかくいった。
 電気いれて動かしてみたら、やはりうまくないところがある。音のおかしいところをさぐっていくと、やはりバネが合ってない。部品がちょっとずれているんだ、それを直したらいきなりバババババって動いたもな。いや、そこのオヤジおったまげてしまって騒動せ。百姓のなもわからねえオドだもの、仕方ねえもんだ。眼見えでいたってなも、機械のことわからねんだ。おら眼わるいのに、簡単に直したもんだから、神様だけんに思ったんでねか。こんどはおれ家にずっといでけろ、三味線ひいて歩くよりおれ家に毎日いでけろ、月三十円給料かけるから毎日いでけろって。
 おら機械の名前だのはわからないが、音きいてみてうまくかからないとどこがおかしいかということはわかるんだ。むかしは、田舎では機械直せる人は神様みたいなもんだったんだ。それ位機械のこと知らなかった時代だ。
(p.94-96)
 ここを読んで、「ビバ農村電化! やっぱ農村電化の基本は精米器と揚水ポンプだよねえ」などと感動していた人間は、この自伝を読んだ数多くの人の中で、小生のみであろうと思います。しかも青森県は県営電力を設立し(昭和初期頃はインフラ事業公営化の波もあり、県営電力による廉価な電力で県の工業化を図った例があった。富山とか高知とか)、その扱いを巡って電力国有化の時にひと揉めしたという曰く付きの土地でして。東北の深刻な農村不況脱却のため、電化はその一手段と目されたはずです(青森のことは調べてないけど)。この話の正確な年代は残念ながら解りかねますが、農山漁村経済更正運動の時代と大きく隔たってはおりますまい。
 しかも、農村電化が未だ緒に就いたばかりというべきか、電気機械の知識は普及せず、簡単な故障も直せぬ精米所の経営者、三日経っても修理にやってこないサポート体制。そんな中、盲目の門付けが独学で機械を直してしまう(でも当時の30円は今なら10万円くらいか?)。ある意味、昭和初期の「近代化」の一面を描き出したエピソードではありますまいか。

 ここでもっともらしく屁理屈を捏ねれば、近代化の中で滅び行く門付け芸をしていた竹山は、その限りでは前近代の最後の人でありますが、しかし一方、津軽三味線(という言葉自体当時はなかったらしい)を初めてレコードに収めるという近代的手法によって広く普及させ、現代の津軽三味線を築き上げたという近代的三味線人(という言い方が適切なのかは小生にも判然としませんが)の第一人者でもあったわけです。つまり、竹山には伝統を引き継いだ面や普遍的な「芸術家」の面もあったことはもちろんでしょうが、優れて近代的な一面も有していた、だから戦後になって若者に受ける要素もあったんじゃないかと。
 ま、だから機械に強いかどうかは別問題かもしれませんが(苦笑)。誰だったか忘れましたが、著名な音楽家(に後になった人)が徴兵されて第1次大戦だかの戦場に行った際、砲弾の飛翔音で敵味方、弾種や射距離・方角が分かったという話をどこかで読んだ覚えがありますが、これはそれと同系統の話だとは言えそうです。

 もはやここから先まで読んでくれようという有難い読者様がどれほどいるのか解りませんが、本書に収められた竹山の興味深いエピソードはまだまだあり、特に一読痛烈な印象を残すものとしては、インチキ商売のことも是非触れておきたいところです。
 で、これもちょっと長くなりますがここまで来たら引用しちゃいましょう。
 それから目薬売ってすこしもうけた。薬屋で毒にも薬にもならない、まあ薬のもとになるただの水を売ってるんだ。その水にいろいろ薬をまぜて調合するようになってるんだな。
 大道香具師や的屋の人はそれにハッカ入れたり腫れ物につける薬をまぜて怪しげなものをつくって売ってるんだ。それをよく宿でつくっているのをしょっちゅう見ていて知ってるもんだから、よしッ、てんでおらも、やったわけだ。
 まず小さい瓶を買ってきて、印刷屋で袋にいい加減な名前刷ってもらって、あとは宿で作業だ。薬水にハッカを入れてよくまぜ、瓶にいれて袋につめる、これで眼薬一丁あがりだ。三円もかければずいぶんできるんだ。もとが安いんだから。
 大道で三味線ひいてればなにやるんだべと思ってと思って人が集まってくるべ。そこで、
「私ァほかの用で来たわけでない。芸人でもなければ商売人でもない」
 とはじめる。そしたら文句は前の晩から自分で考えておくんだ。ほかの人のやってるのをいろいろ聞いてるもんだから、わけはない。
「この眼薬は東京の浅草の田町十七番地、ヒビジン会社という会社があって、そこでつくった眼薬だ。永年の蛇の研究の結果、蛇の体の中にある成分が眼の病に効くことがわかった。これはその会社がこしらえた新薬で、私は小さい時から目が全く見えなかったが、これをつけてこれこの通り、一人で歩けるようにまでに治った」
「私ァ、ただで来たんでない。眼の見えない気の毒一方だった私が、この薬で治った。それがありがたくて、それを知らせるに来た。頼まれて来たわけでない」
 とやるわけ。せば本当だと思って、みな買うべ。よく売れた。三銭位のものが二十銭で売るにいい。売れて売れて、だいぶもうかった。
 が、この商売も的屋のものにこばまれ(妬まれ)、うんと叱られたあげく、酒買わせられて謝まらせられた。大道香具師の縄張りがあって、誰だかんだ勝手にやられないようになってるんだ、この道は。それでせっかくもうけたと思ったが、結局はこれも損したかナ。
(p.64-66)
 本当の視覚障害者がやるんだから大したもんです。ニセ薬はこの手の商売の王道なのか、竹山の自伝にはもう一つ、味噌を煎って挽いた粉にこれまたハッカを混ぜて神経痛の薬として売らせる話が出てきます。

 他にも興味深いところは色々あるのですが、もういい加減長いのでこの辺で。
 しかし、ここまで書いておいて何ですが、そもそも三味線奏者・高橋竹山の自伝を、歴史史料としてまず受け取ってしまうという小生の感受性それ自体が、何か歪んでいるもののような気がしてきて、我ながら聊か楽しからぬ気分になります。
 前にもこのブログのどこかで書いたりしたことがあったかも知れませんが、小生は「感動」という感情が、どうにも苦手です。何か、こういったものを見た/聞いた/読んだ時は「感動」することが当然である、という、その局面が苦手で苦手でなりません。そのことをはっきり意識したのは、小学校の道徳教育の時に、副読本を読んで「このような見え見えの感情の誘導に引っかかって『感動』するというのは知的に怠惰なのではないか」と考えて以来、です。小生がもっとも苦手とするのは、臆面もない感動を周囲にひけらかし、それが当然周囲に伝わるべきものと考えているような、そんなシチュエーションです。ありがちな映画のテレビCMで、試写に来たお姉さんがカメラに向かって「感動しました! いい映画です!」とか言っているのを見ると、殺意すら覚えます。
 感動ということの存在を否定するわけではありません。ですが、それが自分にとって大事であればあるほど、かけがえのないものであればあるほど、他者との共有は難しくなるものではないかと思います。それでは、他ではない自分自身に深く突き刺さったものなのですから。一方「面白い」とか「興味深い」「そこからいろいろと考えが広がる」といった方向であれば、話は違うでしょう。
 つまり「ママンが死んだ次の日に彼女と海に行ったために何故非難されるのか」というわけですが、話が逸れていくしここらで止めておきます。ですが、アパの一件を思い返すにつけ、史料を読み取ることに楽しさを感じるというのは、実は「世間一般」の「善良なる市民」の感性と較べて、案外「変質者」に近いものなのではないか、という疑問がよぎることは、たまにあります。そこを架橋する方法を考えねばならないのでしょうが・・・

 閑話休題。
 上で竹山がニセ薬を売るのに、「ヒビジン製薬」という会社の名前をでっち上げています(眼薬だけでなく、神経痛の薬の時も同じ会社の名前でやっています)。で、この「ヒビジン」という謎の語感がやけに印象に残ったのですが、ネットで検索をかけてみてもそれこそこの竹山の話しか引っかかってこないので、どういう由来か解りません。ご存じの方がおられましたら是非ご一報下さい。
 で、小生先日、調べ物をしていて谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎責任編集『ドキュメント日本人9 虚人列伝』(学芸書林1969)をめくっていたところ、そこに載っていた有田ドラッグ経営者・有田音松の伝記に目が止まりました。有田音松が何者かは、歴史系有名サイト『兵器生活』「妙薬 百発百中!」が詳しく面白いのでどうぞ(この記事のネタ本も同じ『虚人列伝』ですが、実際のビラの画像もあって楽しめます)。要するに誇大広告でボッタクリ薬を売り、詐欺的フランチャイズで支店長から保証金を巻き上げていた・・・という、案外今でも似たようなことがありそうな、そんな奴です。
 その有田が計画倒産させたインチキ会社に、「メジシン商会」ってのがあったんですが、もしかすると「メジシン」が津軽弁で訛るうちに「ヒビジン」になった・・・ってことはあるのかな?

 この『虚人列伝』に出てくる人々の話も面白いのでご紹介したいのですが、もはや三味線を弾く少女の出てくるほのぼのマンガから、風俗壊乱寸前の展示で客寄せしたインチキ薬屋の話にまで流れ流れてひとり旅、竹山先生も吃驚状態になってしまったので、その話はまた今度。

※追記:『虚人列伝』登場の、有田ドラッグ批判の急先鋒にして当人も充分怪しい野依秀市の話はこちら→「アメリカ本土をシャクティ・パット~野依秀市雑彙」
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by bokukoui | 2009-02-21 21:41 | 書物