文豪でない人の大陸横断鉄道~郡菊之助『旅と交通』(欧州篇)

 前回の記事の続き、郡菊之助『旅と交通』から、引き続きヨーロッパの旅程をご紹介します。
 本来こんな長い記事を書くほどのネタでもないので、今回は出来るだけ短く簡潔に。



 アメリカ滞在を終えた郡教授、今度は欧州パリに滞在するというので1932年6月に、ニューヨークからドイツの豪華客船ブレーメン号で大西洋を渡ります。「船内には独逸船らしい規律正しさがあるが、しかし(註:日本郵船の)浅間丸のような官僚くさ味のないのがうれしい」(p.178)そうで、日本郵船は官僚的だったんでしょうか。そうかも。
 5日あまりでフランスのシェルブールに着き、「国有線」でパリに行き(フランス全土の鉄道国有化は1938年)、翌年6月まで一年間滞在します。ですが、その間ヨーロッパ中を巡っていて、パリには正味4ヶ月しかいなかったようです。

 それではどんな旅行をしていたのか、もうちょっと具体的に追っかけてみると。

 まず1932年7月には早くもロンドンに渡って同地に滞在、9月からアイルランドへの旅に出ます。その行路は、ロンドン→(LMS鉄道)→マンチェスター→(バス)→リヴァプール→(船)→ダブリン→(鉄道)→ロッスレール→(船)→フィッシュガード→(GW鉄道でカーディフ・ブリストル途中下車)→ロンドンと、反時計回りに3日で一周しています。他にスコットランドも回っている模様。
 9月末にはパリに帰り、10月下旬にはパリ→ヴェルダン→ストラスブール→ライン川流域→オランダ→ベルギー→パリと一周しています。更に11月下旬から翌月上旬にかけては、パリ→ボルドー→バスク地方→マドリッド→バレンシア→バルセロナ→マルセイユ→ニース・モンテカルロ→ジェノバ→トリノ→グルノーブル→リヨン→パリと旅しています。
 年明け2月からは、パリ→バーゼル→チューリヒ→ルツェルン(ベルンその他見物)→(サン・ゴタルト峠)→ミラノ→ヴェネツィア→ボローニャ→フィレンツェ→ピサ→ローマ→ナポリ(ポンペイ見物)→アンコナ→(船)→ポーラ→トリエステ→ウィーン(ブダペスト見物)→インスブルック→ミュンヘン→フリードリヒスハーフェン(ドルニエ・ツェッペリン見学)→バーゼル→フライブルク→ウルム→ニュールンベルク→ベルリンと、一月あまりかけてベルリンに移動し、ここでふた月ほど滞在しています。

 上に列挙した行程を頭の中で地図上に起こすのは、地理マニアか旅行好きでないと難しそうですが、本書にはただの一枚の地図もありません。果たして当時の読者は分かっていたのか、そもそも読者層はどの辺だったのか。

 5月にはハンブルクまで鉄道で、そこから飛行機でコペンハーゲンへと北欧の旅に出かけたようですが、このベルリンからハンブルクへの鉄道旅行が注目すべきものなので、少々引用しておきましょう。
 ベルリン、ハムブルク間百八十哩を、二時間足らずで突走るガソリン急行列車(「飛ぶハンブルグ人」と呼ばれる)が、同じ月(引用註:1933年5月)から新たに実施せられた。一日一回の往復である。一、二等のみの車輌が二箇連結せられている。私はその実施後三日目にこれに乗った。ベルリンのレールター駅が、その始発点である。朝まだ早い駅にはこの新交通機関を見んとして多くの人が群がっていた。私は二等車の窓際に座席を占めて、行き過ぎる美しい森をながめながらその快速ぶりを賞味した。
「全く速いですね」
そう行って、私の向いに腰かけている独逸婦人は私を顧みた。
(p.285)
 以前にこのブログで、戦前の世界の高速列車の話を書いたこともありましたが、ここで郡教授が乗っている「飛ぶハンブルグ人」こそ、戦前世界最速を誇ったフリーゲンダー・ハンブルガーに他なりません。これに「実施後三日目」に乗ったというのは、日本人としてはかなり(開業日に招待者とかいなければ一番?)早い方だろうと思います。運行開始日は5月15日らしいので、郡が乗ったのは17日なのでしょう。注目の的だったことが伺えますが、車輌は2両(連接車)1編成しか当時はなく運行も1往復だけ、座席は77席しかなかったそうなので、よく切符が取れたものだと思います。
 もっとも郡教授、「ガソリン急行列車」と書いてますが、フリーゲンダー・ハンブルガー第1編成はマイバッハ12気筒410馬力のディーゼルエンジンを2基積んでおり、それで発電機を回してモーターで走っていました。その後増備された編成もディーゼルです(電気式だけでなくトルクコンバータ式のもありました)。
 このフリーゲンダー・ハンブルガーの話の出典は、この記事を書くきっかけになった『文豪たちの大陸横断鉄道』の著者・小島英俊氏の前著『流線形列車の時代―世界鉄道外史―』に拠りました。

 アメリカで郡教授は飛行機(フォード・トライモーター)に乗っていましたが、欧州でも上に挙げたコペンハーゲンの他、ルフトハンザの8人乗りでベルリンからライプツィヒに飛んだり、ハンブルクで遊覧飛行したり(写真があるが小さくて機種不詳)、ロンドンでも遊覧飛行しています。
 ロンドンでの飛行については、本書前半の「交通物語」内に「イムピリアール・エアウェイ」という一章があって、写真も載っています。郡はその飛行機を「三十八人乗りの大型旅客機」「三モーターつきの複葉機」と書いています(p.99)。でも写真を見ると、4発のハンドレページH.P.42という結構有名な飛行機です。写真と違うのかと思ったのですが、インペリアル・エアウェイについてファンが作ったページを見ると、38人も乗れる飛行機はこれしかなさそうです。アメリカのトライモーター(その名の通り3発)などとごっちゃになったのでしょうか。フリーゲンダー・ハンブルガーを「ガソリン」といったり、郡教授はエンジンに疎かったのかも。
 H.P.42は、確か故佐貫亦男が「単葉双発機を2機積み重ねて、上の胴体を取り除いたような機体」とどこかで書いていたかと思いますが、その通りお世辞にもスマートとは呼べなさそうな飛行機です。性能もそれほど高性能、というわけでもなさそうですし(最高速度時速200キロ、巡航速度は160キロ位でフリーゲンダー・ハンブルガーと大して変わらない)。しかしまた、「古き良き時代」といいますか、独特な味わいのある機体で、印象に残ります。平時の運航時には乗客の死傷者を出さなかったそうで、その点ますます「古き良き」安心感がありますね。

 まとめてみれば、戦前の役所系の「外遊」とはなかなか贅沢だったなあ、という印象を受けます。海外に行くことが難しかった時代ならではではありますが、豊かになったはずの現在の方が、ある種ケチになったという面はあるのかも知れません。時代柄それは当然の変化ではありますが、最近はそのケチぶりが度を過ぎていることも間々あるように思われます。
 それはともかく、郡の外遊は満州事変直後からヒトラーの政権獲得、日本の国際聯盟脱退まで、世界が次第にきな臭くなり始めた、しかしまだ一応は平和のムードが広がっていた、そんな時代です。歴史史料としてはむしろ、そういった国際情勢の中で日本人がどう世界を見たか、というところにありそうです。満州事変の段階ではさほどでもなかったアメリカの対日世論が第一次上海事変で急速に硬化した、ということが体感的に語られているのは、説得力があります。一方で大恐慌の傷は尚深刻で、郡が「下宿求む」と新聞広告を出したら、百通も応募が来たんだとか。
 もっとも経済問題では、外遊中に金輸出再禁止があったもので円相場が下落し、それは結構大変だったようです。郡は鯛歩という俳号を持ち、旅行記でも随所に句を詠んでいますが、「赤毛布赤字となりて帰りけり」なんてのも。第1次大戦後のマルク下落期にドイツ留学していた大内兵衛は、豪遊生活だったと自叙伝にありましたが、時期が悪かったですね。
 また、郡がベルリンに着いたのは1933年3月なので、ヒトラーが政権を獲得したまさにその直後ですね。本書では概してヒトラーに好意的であるのは時代柄ですが、親独感を表明しつつも、国際聯盟のリットン報告書投票で独逸が賛成票を投じたことに、三国干渉の故事など引きつつ文句を付けていたりします(この当時のドイツはむしろ国民政府寄りでしたし)。こういった所に着目するのが、一般論としては本書の有意義な読み方でしょう。今回は小生の興味に任せ、そういう読みはしませんでしたが(苦笑)、しかし乗り物マニア的にもプルマンカーだの海上鉄道だのフリーゲンダー・ハンブルガーだのH.P.42だの、ツボはそれなりに抑えた印象があります。著書からすれば、郡にとって交通論は統計ほど専門では無かった印象もありますが、好きだったことは間違いなさそうな気がします。

 そんなわけで、まとまりませんが、文豪でなくてもいろいろ旅行記はあるし、読みようもあるのではないか、というところで、おしまいにします。 
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by bokukoui | 2009-03-03 19:00 | 鉄道(歴史方面)