京成電鉄創立百周年記念企画(2) 「両ゴトー」と渡り合った男

 京成電鉄創立百周年記念企画(1) 幻の京成第3代社長・河野通

の続きです。

 前回のあらすじを繰り返しますと、1945年10月に第2代社長・後藤国彦が急逝した京成電鉄では、重役会で監査役の河野通を社長に昇格することがいったん決まりました。が、河野の人物に運輸省から苦情が入り、元逓信官僚で京成取締役の大和田悌二を中心に、河野下ろしの工作が始まります、というところでした。
 今回は、本件の基本史料である大和田日記を読み進める前に、そもそも監査役から社長になろうとした河野とはどのような人物か、という話をしようと思います。そのためにはまず、急逝した第2代社長・後藤国彦の話をしなければなりません。

 後藤国彦については、ウィキペディアに「後藤圀彦」として項目がありますが、結構間違いが多いので注意が必要です。京成の社史を資料に書いたようですが、後藤国彦が五島慶太と並べて「両強盗」と呼ばれたとは社史になく、「両ゴトー」の間違いと思います。「両ゴトー」は報知新聞経済部編『現代経済人』からの孫引きらしいですが(国会図書館に所蔵があるらしいが閲覧不能なので小生は見たことがありません)、小生は他に「電鉄界の二人ゴトウ」という表現を、例の野依秀市が編集していた雑誌『実業之世界』の昭和14年2月号で見つけました。
 なお、後藤の名前の漢字が「圀」になっていますが、小生の管見の範囲では、戦前の新聞や雑誌、役所に提出した書類や会社登記簿の謄本、さらに大和田の日記に至るまで、みな「後藤國彦」でした。社史には何か根拠があるのでしょうが、かといって同時代の史料が揃って「國」なのも無視できません。ここでは新字体で「後藤国彦」としておきます。

 さて、後藤国彦は、戦前に電鉄への投資を進めていた川崎金融財閥の代理人として電鉄業界に入り、池上電鉄(現・東急池上線)と京成電鉄の専務を務めます。厳密に時系列を書くと、1925年に京成の取締役、26年に池上の専務、27年京成専務となっています。
 ところが、川崎財閥の方針転換により、川崎は池上の持株を五島慶太に譲渡、後藤は池上専務の地位を追われてしまいます。これは1933年の7月頃のことで、背景には川崎と後藤の方針対立、自分の経営する目蒲電鉄と並行する池上電鉄を吸収しようという五島慶太の目論見がありました。
 とまあ、このような五島慶太の「強盗」的エピソード第1号である池上電鉄乗っ取り事件のやられ役として、現在はもっぱら歴史に名を残している観のある後藤国彦ですが、同時代的には「電鉄界の両ゴトー」と並び称されていたのであります。上でリンクしたウィキペディアの「池上電鉄」の項目でも、「東急の社史にまで、「池上電気鉄道時代は沿線の宅地開発事業を行わず、事業といえば洗足池にボートを浮かべる程度であった」という趣旨のことを書かれている」なんて東急寄りの記述がありますが、実は後藤の経営時代の池上は、目蒲とバス兼業で争っており、五反田駅ビルに白木屋百貨店の分店を迎えて、ターミナルデパートとしては渋谷の東横百貨店より先を越していたりしたのですが。
 余談ですが、電鉄系百貨店の雄として名高い阪急・東急・西武は、その歴史上白木屋百貨店との浅からぬ関係があり、また白木屋は池上の他京浜電鉄(現・京浜急行)と組んで品川などにも進出しています。白木屋と当時のその経営者・山田忍三も再評価の必要性があると思うのですが、山田も現在のところでは、井上章一『パンツが見える。羞恥心の現代史』によって、日本近代史上最大のガセビア「白木屋ズロース伝説」の捏造者としてしか名をとどめていなさそうなのは遺憾です。

 話が逸れまくりまして済みません。やっとここで河野通の登場です。
 河野通は、五島慶太の経営する目蒲電鉄の前身となった田園都市会社、つまり高級住宅地の代名詞である田園調布を作った会社の、支配人だったのです。

 田園都市会社時代の河野の動向については、猪瀬直樹『土地の神話』が、河野の書生だった人物のインタビューも収録していて、詳しく述べています。河野は、渋沢栄一の息子と同級生だった縁で渋沢家に学資を援助して貰い、帝大を出て内務省に入りますが、渋沢家の要請によって官を辞して渋沢家の事業に携わっていました。
 ところがここで関東大震災が起こり、これは郊外への移住を促進したので、田園都市会社や目蒲電鉄にとってはむしろ好機となったのですが、震災復興に際して復興局疑獄事件というのが発生します。詳しくは猪瀬直樹の本を読んでいただければいいのですが、復興局への土地転売に際し、裏金作りの片棒を担いだりした河野は逮捕されてしまいます。結局河野はトカゲのしっぽ切りに遭って田園都市会社を解雇されてしまいますが、それは世話になった渋沢家に累が及ばないように自分が全てかぶったのだといいます。ところがそれは結果的に、五島慶太の東急グループ建設の踏み台にされてしまうのでした。

 かくて、五島慶太の前にその地位を追われた後藤国彦と河野通が、どこでどう出会ったのかはよく分かりません。河野も大分県出身なので、大和田同様同郷の縁であったのかも知れません。とにかく、河野は1929年に成田鉄道の専務となり、1937年には京成の監査役にも就任しています。
 成田鉄道とは現在の千葉交通で、当時は成田付近の路面電車と成田から八日市場に至る路線などの鉄道、および千葉県北東部のバス路線を経営しており、京成が株式の過半数を所有、社長は京成社長の後藤が兼務していました。戦時中に鉄軌道を廃止してバス会社になっています。

 ところで、成田鉄道はただの交通関係の京成子会社ではありませんでした。実は、後藤が京成社長になった頃、京成の筆頭株主は成田鉄道だったのです。つまり株式の持ち合いをしていたのです。
 先に、後藤が池上電鉄を追われた話を書きましたが、オーナーの川崎財閥が株を手放してしまえば、雇われ経営者の後藤はその地位を失ってしまうわけです。そこで池上を追われた後藤は、京成の地位は守るべく、自ら京成の株を買い集めます。結局川崎と話をつけて株を引き取ったようですが、さほど資本家でもない後藤はいろいろ借金して株を集め、その相当部分を成田鉄道に移したようです。後藤が京成社長になったのは1936年12月ですが、1937年の株主を見ると1位が成田鉄道で約8万株、後藤個人が3位で約4万株を持っています。ちなみに当時の京成の総株数は81万株(公称資本金4050万円)です。
 かくて、株式持ち合いによる、後藤の京成経営権把握の要となった成田鉄道ですが、河野通は1942年、成田鉄道の社長に昇格します。筆頭株主の社長を任されるとは、河野は後藤に信頼されていたのかな? と思われますが、実は河野の社長就任と同時に成田鉄道には会長職が設けられ、後藤はしっかり会長に就任しています。おまけに代表取締役はやはり後藤で、いまいち信頼されていなかったのでしょうか。
 1930年代後半、京成も沿線の千住や谷津で土地事業をやるのですが、だったら田園都市会社で支配人を務め、田園調布建設の表も裏も(なにせ疑獄で捕まったくらいです)知っている河野を登用しても良さそうです。でも河野は京成では監査役にしかなれず、成田でバスと路面電車と軽便鉄道を経営していたわけで、考えてみれば不思議な話です。京成が戦前に、田園調布的な住宅地を沿線に作っていれば、今こんなに京成は軽んじられなかった・・・? かは分かりませんが、敢えて後藤がそのような人事をしたのは、興味深いことです。

 こんな状態で京成と成田鉄道は敗戦を迎え、そして後藤が亡くなります。となると、京成の筆頭株主は一体どうなったのでしょう? 後藤の死で成田鉄道のトップになった河野が、転がり込んできた京成筆頭株主の地位を背景に、京成社長の椅子を狙った・・・というシナリオはどうでしょうか。
 大和田の日記には、河野がどのような理由で京成社長の椅子を要求したのか、「後藤社長の遺思を継ぐと河野氏は称す」というだけで具体的記述はないのですが、以下は小生の推測ではありますが、やはり筆頭株主の法人のトップになったということは大きいのではないでしょうか。
 ちなみに、やや時代が下って1950年版の『株式社債年鑑』によると(敗戦直後の資料が見つかりませんので)、京成の筆頭株主は、71,644株を有する河野通と記載されています。・・・成田鉄道の株を手に入れたのでしょうか、数的にも近いし。

 『土地の神話』には、河野が五島慶太の自伝を読みながら「こんなのは嘘だ」と洩らした、というエピソードが記載されています。五島の踏み台にされた河野は、後藤を踏み台に、五島と並ぶ大手私鉄のトップに上り詰めようとしたのです。河野が「陰険、圭角多」いのも宜なるかなという気もします。
 しかし結局河野の社長就任は、運輸省筋からの巻き返しで阻止されてしまいます。その様子は次回の記事に。

※この記事の続きは以下の通り。
 京成電鉄創立百周年記念企画(3) 「当分」は長かった
 京成電鉄創立百周年記念企画(4) さまよえる京成
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by bokukoui | 2009-07-01 23:59 | 鉄道(歴史方面)