横浜市が「新しい歴史教科書をつくる会」系の中学校教科書を採択

 八月になると歴史に関する話題がマスメディアに登場しますが、その経緯は佐藤卓己『八月十五日の神話』でもご参照下さい。
 以下に述べますのは、時事的ではありますがそのようなメディアイベントとは異なった、歴史に関する話題です。



 しかし、まず訃報を。
並木頼寿氏死去 東大大学院教授
並木 頼寿氏(なみき・よりひさ=東大大学院教授、中国近代史)4日午前6時31分、胃がんのため東京都江東区の病院で死去、61歳。新潟県出身。葬儀・告別式は12日午前9時半から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は妻真知子(まちこ)さん。
 小生は、もはや随分昔の教養学部時代、基礎演習の教官としてお世話になりました。温厚な先生でした。今はなくなった同窓会館を借り切って戦史研究会でゲーム会をやる際、並木先生に顧問になって戴いて判子をもらったこともありました。
 謹んでご冥福をお祈りします。

 さて、表題の件について。
 先日辞任した中田市長は、とんでもないものを置きみやげにしていきました。
 大して話題になっていないということ自体が驚きではありますが、正直なところ「新しい歴史教科書をつくる会」は、内部分裂を起こして二派に分かれたりしたもので、注目する気が減退していたことは否めませんでした。ところがその分裂した派のうち、藤岡信勝氏率いる扶桑社と喧嘩別れした方の教科書が、横浜市で採択されたというのです。
 とりあえず地元紙の報道にリンク。
つくる会教科書を採択/横浜市の8区
 横浜市教育委員会の定例会が4日開かれ、「新しい歴史教科書をつくる会」が主導する自由社の歴史教科書が、市内18区のうち8区で採択された。来年4月から2年間、計71校の中学1年生が歴史の授業で使用する。

 つくる会の教科書を使用するのは、港南、旭、金沢、港北、緑、青葉、都筑、瀬谷区の中学校。教科書採択は同日の教育委員会で、教育長を含む教育委員6人の投票で決められた。

 つくる会が主導する2冊の教科書は「自虐的な歴史観を払拭(ふっしょく)する」ことを主眼に、神話や天皇にかかわる古代史と近現代史に多くのページを割いている。太平洋戦争を「大東亜戦争(太平洋戦争)」と記述し、日本軍を解放軍として迎えたインドネシアの人々を大きく取り上げるなど、従来の教科書と記述内容で一線を画す部分が多い。

 そのため、国内外で「戦争を美化し、歴史をわい曲している」と批判の声が出ている。
 この決定に大きな役割を果たした教育委員会の今田忠彦委員長は、中田市長に任じられた人物で、この決定も中田市長の影響下にあるもののようです。
 なお、一方の当事者でもある産経新聞の報道はこちら。

 「分かりやすく共感」横浜市教委採択の自由社版教科書で委員長

 喧嘩別れの経緯を反映してか、この教科書への批判や採択への反発も載せており、穏当な報道になっていることはある意味皮肉です。
 ブログなどで本件を取り扱っているものを幾つかご紹介。

・薔薇、または陽だまりの猫 反対派のブログ。報道のまとめが充実していますが、それ以上に興味深い情報が載せられています。
CMLから

この問題はリアクションが大きく、情報源を守るため核心部分はぼかします。
 
横浜市教育委員会の今田忠彦委員長が事前の内輪の議論で
「新しい歴史教科書をつくる会」自由社版教科書の採択方針を伝えた際に、
真っ先に名前が挙がったのが青葉区です。
理由は生徒の学力が高いということです。
学力が高いから自由社…さっぱりわかりませんね。
 
鶴見区は学力が低く在日コリアンも多いから避ける、といった
「配慮」があったそうです(中区は中華街があるから?)。

きょうの段階で書けるのはこのへんまでです。
 この今田委員長の発言は、青葉区民として端倪すべからざる重要な点なので、後で検討します。
 この「薔薇、または陽だまりの猫」さんのリンクは充実しているので、そこから孫引きさせていただきますと、
・子ども・教育・くらしを守る横浜教職員の会「横浜教科書採択 傍聴記その1」
・新しい歴史教科書をつくる会WATCH があります。「不正事件」とまで言うのは不穏当かも知れませんが、従来の教科書と「自由社」版としか較べないというのは、出来レースの印象を否めません。
 他には、
・村野瀬玲奈の秘書課広報室・パワー・トゥ・ザ・ピープル!!「横浜市教委に傍聴に行きました」
 などが一般的な反対派かと。同様のは数多く目に付くので後は割愛。
 また、
・あんとに庵◆備忘録「横浜では日本史の教科書が保守系になったらしい」
・文系ネットワーク屋のぼやき「もはや公立校教育のリスク要因 は多少傾向の変わった反対意見で、前者は偏狭なナショナリズム批判の立場に立ち、後者はこれによって中学受験志向が高まってしまうという懸念を示しています。
 一方賛成派として目に付いたのは、
・凪論・たむたむの自民党VS民主党・アジアの真実 といったところでしょうか。日教組や民主党、共産党を批判するのは所謂右派的な見解の代表的なものといえそうです。しかしもっとも興味を惹くのは、三つ目の末尾で、実のところこの教科書採択は、「つくる会」内輪もめの余波で、右派というか保守というか、そちらの側からも歓迎されていないようです。
 実際、「薔薇、または陽だまりの猫」さんのリンク先に、「つくる会」の分離した側からの批判意見がありますが、これは「『つくる会』と絶縁した産経新聞を支持しますゎ」というブログの一連の長いキャンペーンの一部のようで、そのキャンペーンを紹介している人の例がこちら。
・甘噛み^^ 天才バカ板! これらは、喧嘩別れした自由社の教科書を批判するあまり、それを「自虐史観」の教科書と同類、偽装左翼などと難じているのはいくら何でも暴論に過ぎます。「味方でないなら敵」というのこそ、かつて新左翼が支持を失った元凶となった発想と思いますが。ただ、ここで挙げられているレイアウトや文字の大きさ、誤植などの問題は確かに結構ひどいですね。
 とまれ、左側からは従前の如く批判され、右寄りの方からも砲火を浴びせられては、先行き大変そうです。この状勢を反映してか、ネット上の意見をざっと見ても、喜んでいる「ネトウヨ」的なところは意外なほど少なく、本件を報じた韓国の報道を嘲笑するという「嫌韓厨」の迂遠な反応がむしろ目立ったくらいでした。

 さて、小生の教科書問題に関する愚見は以前に書きましたし、歴史の語りについては当ブログが西尾先生に絡まれた一件でもご参照下さい。
 ここまで挙げた、ある意味見慣れた左右の意見とは別に、小生は青葉区民として、今田教育長が発したという「青葉区は学力が高いから自由社」という趣旨らしい、青葉区へのこだわりが気になっております。ので、以下にそのことについてちょっと考えたことを書いておきたいと思います。「文系ネットワーク屋のぼやき」さんの意見に比較的近いかも。

 で、青葉区とはどういうところかと考えますと、問題の中田宏前市長の、衆議院議員時代の地盤です(現在の神奈川8区は青葉区と緑区が一つの選挙区になっていますが、中田氏当選当時は青葉区と川崎市宮前区でした)。そもそもの中田氏の出身地ですし。やはり、中田氏の「地元」だけに、採択させるように力が入ったのではないかと思われます。
 ところで、何故中田氏が市長になれたかを考えますに、前市長の故・高秀秀信が、90年代に不況の中でもみなとみらいを中心とするインフラ整備に力を入れ、それが為に青葉区や都筑区のような横浜市北部の「横浜都民」の不評を買ったことが大きいと思われます。実際に中田市長が行った政策が、そのような市長支持層の期待に応えるものだったかというと、結局みなとみらい開発は進められて、あまりその意に添ったものだったとも思われません。そういえば現在、そのみなとみらい地区を中心に開港150周年イベントを大々的にやっていますが、有料展示に来る人が当初予想の何分の一だとかいう話です。これは不況の影響もありますから一概に中田市長の施策とはいえませんが、当選の背景からすればそもそもこのようなイベントをすること自体どうなのか、とも思えます。しかも中田市長の横浜の歴史に対する理解度は、近代史の資料館として定評ある横浜開港資料館のネーミングライツを売り飛ばそうとした程度です。「象の鼻パーク」の保存展示は小生としても大いに評価しますが。

 さて一方、青葉区住民が教育の思想的状況に対し保守的な傾向と親和性が強いかというと、特にそう考える理由は思い当たりません。民主党の日教組出身の参議院議員・なたにや正義氏の小学校教員時代の話は当ブログで前に書きましたが、そのような教員の活動に特段の批判とかもなかったと記憶しております。
 ですが、これは青葉区が教育に無関心という意味ではありません。というか、日本でも指折りと言っても過言ではない、"教育熱心"な地域でしょう。比較的高所得(と思っている)給与所得者が多く、子供への教育投資に熱心な地域なのです。まあ、「教育ママ」の増殖しやすい条件をもっともよく備えた地域、というわけですが。この地域の小学校の取り組みについては、東浩紀・北田暁大『東京から考える』(NHKブックス)に出てくるので、暇な人は読んで下さい(あずまんがこの地域で小学生だった)。

 で、このような給与所得者層主体の地域では、「改革派」の経済政策的側面は比較的受容されやすかろうと思います。実際中田氏も当選してきたし。しかし、中田氏のような松下政経塾系というか、そういった「改革派」が時として見せる、教育に於ける教科書問題のような思想的側面については概して無関心で、教育についてはもっと切実に、実利的側面を重視している傾向が強いと考えられます。早い話が受験で使えるか、ということですね。
 この点については、青葉区の住民は公立中学校に、そもそもあまり多くを期待していない感もあります。小生が教育委員会のサイトでちょこっと調べたところ、青葉区の公立小を卒業する児童は年約3000人なのに、青葉区の公立中学校に入学する生徒は約2000人でした。ほぼ1/3が減っているのですが、その主因はやはり中学受験したからでしょう。この減少率は他のどの区より高いです(市全体では約2割抜けています)。
 青葉区にそのような傾向が生じたのは、元々「横浜のチベット」なんて田舎だったために学校が少なかったところに人口が急速に増え、結局他地域に流出する傾向が強くなった歴史的経緯もあろうかと思います。その辺、横浜の他地域とは違うかも。

 周知のように中田市長は先日突如辞職し、国政への野心を見せております。横浜での治績に自信を持っておられるのでしょう。しかし、以上縷説しましたように、経済的財政的側面で中田市長を支持していた市民が、教育行政でも志を同じくしている訳ではありません。むしろ住民ニーズとはかけ離れたところに、教育委員を入れ換えるという無駄なエネルギーまで費やして、受験には適さないであろう教科書を採用させている感があります。
 今田教育長は、青葉区は学力が高いから自由社の教科書がよい、と趣旨が必ずしも明白でない発言をしていた由ですが、これはどちらかといえば学力の高い層を流出させる結果になってしまいそうです。その傾向は既に現れているというのに。結局何のために一番熱心に教科書が読まれるのかという、肝心の需要が把握されていないということだろうと思います。
 このような、地に足の付いたニーズを看過するような「教育改革」は、左右問わず(最近は右の方が景気いいようですが)好ましい結果をもたらさないでしょう。そして、このような浮いてしまう中田氏は、いつかどこかで足をすくわれるようなことになるかも知れません。というか、そうなって欲しいです。

 最後に蛇足ですが、歴史教育で歴史に興味を持ってもらうには、実物を見るのが一つの工夫としていいのではないでしょうか。そういう意味でも、小生は「象の鼻パーク」のような試みは意義が大きいと思います。国の誇りだなんだとご託宣を並べるより、みんなで転車台でも回してみた方が印象に残るのではないかと。
 また、近代の新聞のようなものであれば(これは開港資料館が豊富に収蔵しており、冊子状になっていて閲覧も容易)、中学生くらいでもある程度読めるんじゃないでしょうか。そのようにして、まず歴史が地続きの存在であることを認識することが、まず基礎になることと思います。空中戦は程々に。

 長い割にまとまらんですね。いつものことですが。
 本当に蛇足ですが、確か小生の記憶では、「つくる会」の鼻息が荒く反対運動も激しかった2000年頃、歴史学者等が連名で出した「つくる会」への反対声明に、亡くなった並木先生もお名前を連ねていたかと思います。これは今、検索しても名簿が見つからないのですが、確かそのような記憶があります。
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by bokukoui | 2009-08-07 23:59 | 時事漫言