「守る」に関しとりとめなく(「外国人参政権・夫婦別姓反対デモ」続き)

 前回の記事「外国人参政権・夫婦別姓反対デモに出くわす その他沈鬱な近況」で一緒に書こうかと思ったものの、あまりに長くなりそうだし時間もないし面倒だし、と見送った内容を補足しておきます。補足というより余談という方が正しそうですが。



 前回のおさらいをまずちょっとしておくと、「日本の誇りを守れ」とシュプレヒコールを上げていたデモ隊のビラを見たところ、外国人参政権と夫婦別姓について、中韓への敵意とともに反対論を述べていたもので、そこで日本の家族制度を顧みてみても、結局何が「誇り」で「守る」だかよく分からないし、中韓への批判を叫ぶのは外国人参政権についてはともかく、夫婦別姓については意味が分からない、というくらいのつもりです。
 で、今回は、保守というからには何かを「守る」はずだけど、それはどういうことなんだろう、ということについて、心に浮かんだことを思いつくまま、まさしく雑彙のように並べてみます。

 繰り返すと小生が今回のデモ隊のビラを見てどうかなあ、と思うのは、「誇りを守れ」とシュプレヒコールを上げていたものの、ビラの内容が「もう新聞テレビは外国勢力の手の中」「中国朝鮮では女性は結婚してもその家の家族として認められず、只子供を産む機械のような存在」「出自が韓国と噂される小沢一郎」なんて感じで、何を守るか不明確な割に、攻撃性にあふれていることです。前回日本の家族制度の歴史を少々述べたのは、この場合何を守るかの定義づけ自体そもそも困難で、そこをすっ飛ばして「守る」といわれてもねえ、ということです。だから、守るというより他者への攻撃性ばかりが目立ちます。
 しかし、例えば当ブログで本年扱いました、秦郁彦先生と西尾幹二氏の対談における西尾氏に代表される「保守」的発想の問題点を顧みますと、何を具体的に守るか、ひいては何が正しさの基準なのかを曖昧にしたままでも、他の意見を持つ人々への非難攻撃を浴びせることで、仲間内の団結と戦意は高まるもののようです。むしろ「日本」とか「誇り」というスローガンは、曖昧さ故になんとなく連帯する上で結構有効なもののようです。だからこそ、今回の老若男女を集めたデモのシュプレヒコールにもなったのでしょう。

 というわけで小生は、「誇りを守る」などという表現に出くわすと引いてしまう傾向があったのですが、しかし最近ひとつ、この言葉を素直に受け止められる局面がありました。
 それは、当ブログの過去の記事でも取り上げましたが、笹田昌宏『あの電車を救え! 親友・岸 由一郎とともに』を読んだ時のことです。ここで「誇り」という言葉を小生が受け止めることができたのは、何をどう守るかが、個別具体的なものを媒介にはっきり理解できるからです。曖昧なものを共有しているという幻想の連帯が攻撃性によって維持されるのに対し、個別具体的なものを起点とする連帯はそれが好きという情熱によって維持されます。ネガティヴな攻撃性が矛先を探して飛び交っている社会よりは、何かを愛する情熱が社会の各所に見いだされる方が、結構な世の中と思います。
 ただ、愛する情熱の場合とて留保条件は一個あって、「これを愛さないやつは非国民だ」になったら結局攻撃性による集団維持になってしまいます。そういう事例もないではないですので。それが発展すると、個別具体的な事柄を守るよりも、より抽象的な概念による空中戦になってしまい、往々不毛な結果を招きます。

 で、ここで小生が更に飛躍して思い浮かべるのは、過去幾度もこの問題を扱ったイベントの紹介などを当ブログでも行いましたが(例えば同人誌関係のとか、保坂展人氏の演説とか)、「児童ポルノ」法と表現規制の関係です。これは道徳的見地から、直接的な人権侵害と関係のない表現まで取り締まるように改訂する動きが絶えず存在し、それに対し表現規制よりもまず実在の児童の人権保護こそが問題ではないのか、という批判が加えられてきました。個別具体的なものを「守る」はずの法律だったのに、それがいつの間にやら道徳取り締まりにすり替わってしまってしまうわけです。
 これが「守る」ことの難しさで、個別的具体的な人や物や事を守るはずが、時として「守る」ことそのものに酔いしれるのか、暴走して他者への攻撃がメインになってしまう、その一例ではないかと思いついたのでした。

 さて、「児童ポルノ」法の暴走を推し進めている集団の一つに、キリスト教系の婦人団体である矯風会の存在があることは、かなり広く知れ渡っています。「児童ポルノ法 矯風会」で検索でもしていただければいいのですが、一つリンクしておけば、漫画家にして表現規制反対運動者として当ブログでもしばしば紹介しているカマヤン先生のブログ記事「『VAWW-NETジャパン」と「日本キリスト教婦人矯風会』と『ECPAT/ストップ子ども買春の会』」あたりでしょうか。また、反対運動の手法を巡ってカマヤン氏を批判している作家の鳥山仁氏もやはり「規制推進派のバックに極左系のフェミニストとキリスト教系のキチガイ団体がいる」というわけで、事実認識そのものは共通しています。
 で、この矯風会の歴史について書いてある本を、しばらく前に神保町を通りかかった際にたまたま発見して購入しました。竹村民郎『廃娼運動 廓の女性はどう解放されたか(中公新書)という本で、竹村先生は阪神モダニズム研究などで前から著作を読んでおりましたから、興味を持って手に取った次第。
 この本は、救世軍と矯風会が明治~昭和戦前の日本で、いかように廃娼運動を展開してきたかという経緯を述べています。いろいろと興味深い本ですが、今はこの記事の趣旨に沿った範囲で手短にまとめると、そもそもの救世軍の廃娼運動では、娼妓をやめたがっていた女性を助けるため救世軍の兵士が吉原に出向き、妓夫たちに袋だたきにされながらも体を張って助け出すなど、まさに個別具体的な人権救済を敢然と行っていた団体が、やがて成果を上げて認知されて行くも、戦時体制下では国民精神総動員運動の一翼を担う結果になってしまう、というところで終わっています。ここの、具体的救済から思想統制の片棒担ぎに転化してしまう、その変曲点が実はあまり記述されていないのが残念なのですが、このような「守る」活動の難しさを示す歴史的一例ではあろうと思います。
 
 この辺で終わりにしておけば、まとまらないなりに一応話にはなっているとは思いますが、そこでよせばいいと思いつつ蛇足。
 所謂「ネット右翼」に、「オタク」(アニメ・漫画・ゲームなどのコンテンツの消費者)との兼業者が多いとは一般に認められていようかと思います。で、彼らの愛聴するようなアニソンの類とかを、作業用BGMにしてよつべやニコ動などから適当に聞いている時にふと思ったりしたのですが、この手の歌の歌詞に「守る」って結構多いなあとか思ったりしたのでした。まさに今適当に流していたそれの一節を耳コピで拾えば「過去を抱き生まれ変わる / 愛を知り新しく歩き出した / 守るべきものを知り / 強くなれた」とかね。
 これって愛を知って守ることを知ったのだから、個別具体的であって攻撃性に転化する恐れはないはず・・・とはオタクな人々の多くについて言えなさそうなところが残念で、やはり二次元の限界というか、それに耽溺してやっていける超人は大した数いないのであろうと、「ほんだモデル」の崩壊を示唆しておきます。少なくとも、濡れせんべいをかじる鉄道マニアの方が、確実に具体的に何を守っているかは知ってるでしょうね。
 なんかそこら辺に、このような政治運動とオタクとの親和性の手がかりがあるのかも知れませんが、これ以上の分析は面倒なので、ここでおしまい。
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by bokukoui | 2009-10-20 23:51 | 思い付き