自省するひととき

 先日の「またも「外国人参政権・夫婦別姓反対デモ」的な何かに出くわす」の記事ですが、この日は日頃の鬱積を誤った方法で晴らそうとした結果、紹興酒を一人で一本(それ以外もいろいろ)飲んだ勢いで書いたため、あとで読み返して日本語としておかしいところや不適切な表現が多々見受けられましたので、多少修正しました。それでも問題点は残っておりますが、全面的に書き直す暇も価値もないのでやむを得ません。
 そのような記事の「日本語としておかしいところ」を端的に言えば、文章が「馬から落ちて落馬した」状態になっている、言い換えれば丁寧に説明しようとしすぎて冗長になりすぎ余計訳が分からない、ということですね。普段から陥りがちな弊ではありますが、アルコールが入ると覿面で、一文で同じ説明を二回繰り返したりしておりました。大変失礼致しました。

 ところで、何でまた妙に冗長になりがちなのかと自省しますと、昔から小生には、「自分の話す(書く)ことに他人が興味を持ってくれることなどない」というような被害妄想というか諦念というか、そのようなものがあるからなのだろうと思います。なので、時としてむやみやたらと丁寧な説明を、特に文章ではしてしまう(口頭であればその場の状況に合わせてある程度調整できますが)のだろうと思います。
 で、このような人間はそれなりに社会にいるだろうと思いますが、当然このような人はコミュニケーション能力に関してなにがしかの苦手意識や悩みなどを抱えることになるでしょう。小生は人に電話したりメールしたりするのが苦手、というか恐怖心のようなものを抱いています。企業の窓口とかの電話ですら。こういうのは普通に考えれば、余程のトンデモクレーマーでもない限り、かけてもらった方がむしろ嬉しい筈なんですが・・・
 一方そのような人は、自分の話していることに他人が関心を抱いてくれているように感じられると大変喜びます。そして往々、喜んで調子に乗って話しすぎ、やっぱり相手に引かれてしまったりするわけですが。

 いうまでもなくこのようなコミュニケーションが苦手な人は、「オタク」的傾向を帯びやすいものでして、そのような例は皆様も身近に経験しておられることと思います(え、自分がそうだって?)。で、先日の記事にひきつけて言えば、オタクな方々が時として排外的な考えに囚われることがあるのは、世界を話を聞いてくれる味方と聞いてくれる敵とに分けてしまうからなのかなあ、と思います。「138億年と48億年前から『友愛』してたんですかぁ!?」の台詞にしても、あれが鳩山首相はじめ民主党の議員に通じることを期待してというよりも、味方である示威行為参加者向けの台詞でしょう。デモの効果として、自派の結束を固めるということは無視できないことですから、いちがいにそのような言説を批判するわけではありませんが、政治的な公論というものではないことは確かです。
 以上余談。

 話を戻して、小生は幸いにして周囲の環境に恵まれ、人とこととを選べば話が通じないことはない、という感触をやがて得ることが出来、世間は総て敵なのだと被害妄想を敵愾心にまでこじらせることなく、今日に至ります。もっとも被害妄想を完全に払拭できたわけでもないところがなんですが。だから小生の書くものは未だになお時として冗長の弊をさらけ出すものと思います。
 もっとも、以上のような人間にとってはコミュニケーション自体の手間が普通の人よりもかかるので、それを負担と感じて面倒になり、コミュニケーションの絶対量を絞ってしまう傾向もまたあります。その表現形態は大きく二つあって、まずそもそもコミュニケーションの機会自体を減らしてしまうというのが一つ、もう一つは上の記述と矛盾するようですが、発言や記述を過剰にはしょってしまうというものです。後者はつまり、「分かってくれる人は分かってくれるだろうし説明しても分かってくれない人は分かってくれないだろうから、まあいいや」というはなはだ虫のよい発想ですね。
 かくて、冗長と説明不足が同居する次第に陥るのですが、言い訳にもなりませんけど、コミュニケーションが苦手だとか「非モテ」だとかの、一つのパターンではあろうかと思います。

 冗長さを自省する文章が冗長になっていたら世話はないのでここらで止めますが、最後に何でこんな文章を書いたかというと、先日書き上げた論文が本来絞ったテーマで短めのものを書く予定が、気がつけば大長編になっていて我ながらまずいと思い、案の定「全体として冗長」「各所に説明不足」と指導教官に指摘され、投稿先にあわせて圧縮するように、という前作とあまり進歩のない結果に陥ったもので、いささか自省した次第です。
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by bokukoui | 2009-11-17 23:59 | 思い付き