オタクとクリスチャンとミリタリーと

 今頃ようやく年賀状を投函したくらいへたれている今日この頃ですが、冬季講習が終わったと思ったら直前講習だったり、一つ原稿を出したら直ちに次の締切だったり、そんなこんなでへたれた状況は変わらず、何事もはかばかしくは進まず、部屋片付けの夢も夢のまま過ぎつつあり、新年早々意気揚がらぬこと夥しいものがあります。
 しかし、愚痴ばかり書き連ねるのも何なので、今回は当ブログにとって大変有り難いことがありましたので、その恩寵をより多くの方にも受け取っていただきたく、以下にご紹介させていただきます。

 昨年、当ブログでナヲコ先生の『なずなのねいろ』2巻が発売されたことを機会に、「ナヲコ『なずなのねいろ』各巻のウェブ上感想リスト」と題して、同書のウェブ上での感想をリスト化して紹介しました。その中で、『なずなのねいろ』に限らずナヲコ作品の感想としてもっとも小生が感銘を受けたものとして、「鳩の切り売り・量り売り」というブログの記事を取り上げました。該記事でも書きましたが、小生がこのマンガの感想ブログを特に興味深く読んでいるのは、この執筆者の方がクリスチャンであることをしばしば記事中で言及されており、反キリスト教的偏見を垣間見せる人が決して少なくない印象を受ける(回りくどくて済みません)所謂「オタク」界隈で、このような方の書かれる感想に出会えたことを貴重な経験と感じたからです。
 誤解を招かないように書いておきますが、「鳩の切り売り・量り売り」さんの個々の感想にキリスト教的な影響が直ちに見て取れるわけではありません。それでは下手をすればただのプロパガンダです。そうではなくて、あれだけの質量のマンガの感想を記せるだけの「オタク」的な素養(紹介されているマンガの傾向からすれば、そのように規定しても問題はなかろうと思います)を持っている方が、同時に信仰について真摯に考えておられるクリスチャンの方だった、ということに小生は大変関心を惹かれたのです。

 さて、「鳩の切り売り・量り売り」さんにはトラックバック受信機能がないので(コメント欄もメールアドレスもありませんが)、小生としては当ブログでご紹介申し上げた以上のことはしていなかったのですが、「鳩の切り売り・量り売り」さんの方で、当ブログ経由のアクセスがあることに気づかれ、昨年の大晦日付で以下のような記事を執筆されていました。

 ・オタクとクリスチャン
 ・美少女とミリタリー/クリスマス粉砕デモ

 表題の通り、オタクとクリスチャンの関係について、更にそこから敷衍しての、あびゅうきょ作品を枕にしての美少女とミリタリーの関係について、さらに、先日の革命的非モテ同盟主催「クリスマス粉砕デモ」の記事をお読み下さったようで、クリスチャンから見たクリスマス観にまで及んでいます。大変読み応えのある記事で、当ブログを読んで下さるような趣味嗜好の方の多くにとっては得るところのきっとあるものと思いますので、是非リンク先をクリックしてみて下さい。

 このような大変充実した記事を、当ブログでの紹介記事に応えてご執筆いただいたことは、何より先ず嬉しく有り難く光栄なことで、心から「鳩の切り売り・量り売り」さんに感謝申し上げます。
 そして小生としては、それに相応しいだけの真摯な紹介記事を書いていたか、思い返して忸怩たるものなしとしません。引用されているキリスト教を敵視するオタク像の箇所など、かなり適当な姿勢で書いていることが明らかですから(秀吉の禁教令はどなたもお分かりと思いますが、「北山南河は邪宗の都」というのは、これまたオタク――に限らないかも知れませんが――に敵視されることの多い、創価学会の事実上の会歌「威風堂々の歌」の一節です。しかも3番)。

 さて、当ブログのかかる適当な紹介記事に「協賛」して、これほどの記事を書かれたからには、ただまた紹介するだけでは礼に悖るものと思います。といって、すっかりへたれている小生の現今の状況では、残念ながらあまり大したことは書けそうにありません。大きな話は労働収容所組合猊下(ブログツイッター)にお任せして、ひとまず逐条的に二三の思いつきを記してみようと思います。



 以下は断片的思いつきなので、お暇な方のみどうぞ。





 まず、小生が何故「キリスト教徒であってオタク的素養にも深いというところ」に着目したかを、もうちょっと丁寧に書いておく必要があります。まずそれは、概して(統計的に示すことは出来ませんが)オタクはキリスト教を敵視する傾向があるからです。その直接の理由は、所謂「児童ポルノ法」の制定やその強化に、キリスト教系の団体が強く関わっていることにあるでしょう。その代表である「矯風会」の関与について説明したブログ記事を例として一つ挙げておきます
 さて、このようにキリスト教系の団体が、マンガやアニメを排撃する場合、その論拠は「道徳的」なものに置かれます。日本に於いてキリスト教徒の人口比は、うろ覚えですが確か1%にも満たなかったと思いますので、聖書の教義の偶像崇拝禁止を以て日本で「偶像崇拝に当たるからマンガやアニメはけしからん」という主張を掲げたところで、99%以上の人に対しては説得力を持ちません。そこで矯風会のような団体は、「道徳的」な主張を掲げることで99%の中の一部と結びつき、そしておそらくは、それによって自らの社会的プレゼンスを増大させようとしているのでしょう。ですがそうなると、それは宗教団体というより圧力団体としての活動が眼目となり、信仰との関係は薄れてしまうのではないでしょうか。もちろん、世の多くの宗教「団体」とその構成員にとっては、それは悩むことではなく望ましいことである場合が多いのだろうとは思われますが。

 で、そのような場合に、個々の信者で、エロマンガと信仰との双方に交渉を持つ方はどのように考えておられるのか、その次第では、両者の対立が不可避にして決定的なものではなく、共存(それは何事も白黒つけねば気の済まない人々にとっては「先送り」かも知れませんが、政治的にはもっとも妥当な解決手法である場合は多々ありうると思います)の方法を探ることが出来るのではないか、という問題意識を持っていたわけです。
 ですが、オタクとクリスチャンの記事を拝読する限りに於いては、なかなかそううまいことは見つからないようです。
 もちろん答えの出ないことは悪いことではなく、早急な答えに縋るよりも問い続けることの方が大事で、少なくとも「鳩の切り売り・量り売り」さんのマンガ評論を読んで小生がなにがしか思うところがあったのは、その問い続ける精神の裏付けがあってのことなのだろうと思います。しかしそれはどうも、信仰「に」よって得られるものではなく、それがあることによって信仰「へ」近づけるものなのかも知れません。
 となれば、やはりキリスト教とオタクの関係は、なかなか融和的な方向に向かうのは難しそうにも思われてしまいます。

 「戦いの神を本気で召喚しようとするのは、やめた方がいい」というトピックについて。
 小生が「鳩の切り売り・量り売り」さんのご議論をどこまで受け止められているのか自信はないけれど、「戦いの神を本気で召喚する」危険というものが存在しそうだ、というのは何となく認識できそうな気がします。ただ「戦い」が、氏族間でも国家間でも何でもいいですが、集団による戦い(そうでなければ戦争とは呼ばれない)であってそこに戦いの神を召喚するのであれば、それは個人ではなく集団によって召喚されるべきものなんだろうと思います。かつての日本では「靖国」という集団で神を召喚する公式なシステムが存在してわけで。そして日本人が戦後、そのようなシステムの基で戦いの神を呼ぶことはなかったわけです。
 しかし、とそこで小生は思うのですが、今、「軍神(ここでは「戦いにおいて働く霊的な存在」くらいの意味)を美少女に描いてそれに恋する試み」のように見えることを行っている「オタク」の多くというのは、むしろ新たなる「戦いの神」召喚の魔術を練り上げているというよりも、極めて気まぐれ且つ軽い乗りで「戦いの神」と戯れているのではないか、むしろそう思うのです。その根拠は今までにも書きましたが、美少女化して恋する対象にしてしまう試み、手短に言って「萌え」化というのは、「萌え」化する対象に不愛思い入れがあるというよりも、「萌え」をなんにでもぶっかけてジャンクフード化してしまう試みだからです。対象の持ち味を引き出すというものではないのです。

 集団としての公式な「軍神」召喚の作法に逆らい、ただ一人軍神を黒魔術で呼び寄せようと芯から決意している人は、もうそれはそれで自らが剣で滅んだとて受け容れるべきことのようにも思われます。それが集団としての公式な白魔術へと成り代わろうというものであるならば、危険な存在として警戒すべきであるかも知れません。しかしそれだけの覚悟もなく、気まぐれに「軍神」と戯れることは、端から見ればただ馬鹿馬鹿しいことに過ぎないと思います。
 ただ、左様な試みだからといって、看過して良いものなのかどうかは、時と場合によるとしかいいようがありません。「世界征服の基礎はまず練馬から」というのなら、「世界平和の基礎はまずなのは厨根絶から」というのも、同じくらいの正当性はあるかもしれません。それにしても『戦場のヴァルキュリア2』のテレビCMときた日には、ありゃなんだ・・・話が逸れてきたので一旦止めます。
 
 このトピックについては先ず何よりあびゅうきょ作品を読むところから始めたいと思います。あびゅうきょの名前に聞き覚えがあったのですが、それは永山薫・昼間たかし両氏の『マンガ論争勃発』シリーズの表紙を描いた人、としか小生は認識していませんでした(そろそろ第3弾が出版でしょうか)。それ以上の認識を深めるだけの意義がありそうです。
 
 「受難日に生木の十字架を引きずってクリスマス粉砕デモ」というのは、実際のところファンダメンタリスティックなキリスト教徒が行うことがあるのでしょうか? アメリカのバイブルベルトあたりではあったりしたのでしょうか。禁酒法制定時に、過激な禁酒団体が酒場を破壊して廻った話がありますが、クリスマスバーゲンのデパートに火をつけてまわる、みたいな抗議行動とかは、資本主義的クリスマスの普及に対抗する形で出てもおかしくなさそうに思われます。もちろんそれはキリスト教国のことでしょうが。
 もし小生がその日にデモをするなら、皮を剥がしていない丸太を引きずって教会の前を練り歩き、「ローマ時代に教会のトレードマークのような十字架は処刑に使われていない」というデモでもしようかと一瞬思いましたが、それは嫌がらせというより狂気の沙汰であります。

 最後にまとめにもならないまとめとすれば、そもそもクリスマスは当時の祭りをキリスト教が布教する過程で取り込んだものといい、また日本の教会は初詣ならぬ「元日礼拝」というのを行って雑煮を振る舞ったりするそうで、ところで初詣というのは明治後半以降に鉄道会社が正月のお客を集めるために始めたものだったりして(この話題は前にも書きましたが、平山昇さんの諸論説をご参照下さい)、何が言いたいかというと、何か他のものを排除してゼロから自分のやりたいことを押しつけていく営みではなくて、既存のものをベースにその上に何かを積み重ねていった方が、キリスト教でも資本主義でも結果的に安定した蓄積を後世に伝えていけるんじゃないかと、一見矛盾しているようなものでも合一させていくような姿勢を持つことは出来るし、それが世界を面白くして後世に貢献する道なのではないかと思います。
 ・・・何となく頭にルドルフ2世が浮かんでいたようです。


 何も結論が出ていない尻切れトンボの駄文ということは書いた当人がよく分かっているつもりですが、途中までは考えてもなかなかうまくまとまりません。そもそもまとまるようなものでもない、といってしまえばそれまでですが、記事の前半を書いて一週間経っても、考えはまとまるどころか拡散と分裂を深めていくばかりです。残念ながら小生は、神の祝福を受けるには心があまりに散文的なようです。
 ですので、神の営みについて考えることは一旦あきらめて、また思いつく日まで棚上げにし、それでも棚に上げるだけの思索の種ができたことを喜ばしく思い、そして昨年末に一度は「そんな中、ぼくはこのブログをどうしたものか、リアルタイム更新を基本にどちらかに向けて発展させて行くべきなのかと考えてきたが、いまは自分の負担を軽くすることが先決だと思って、先ごろ「マンガの感想」以外の文章をばっさり削除した。その上で、これから先自分の日記に「マンガの感想」は増えないんじゃないかと思ったりしている。つまりこのブログは休止状態になる可能性が高いということだ。残念と言えば残念かもしれない。」と書かれてキリスト教関連の記事などを削除された「鳩の切り売り・量り売り」さんが、小生の紹介記事をきっかけにかかる記事をまた執筆する機会となったことを栄えあることと感謝し、氏のまたのご健筆を振るう機会があらんことを、氏の信じておられる神様にお祈り申し上げます。

 それにしても、礼を尽くそうとしたら却って失礼になる辺りが「非モテ」なのだろうなあと自省することしきりなのでした。すみません。
 「「すばらしい」作品に自分のことばをきちんと並べることのできる幸福」というのは確かにあります。しかし、「きちんと」並べることの困難さの前に、小生はいつも挫折してしまうのであり、そのような言葉を並べることの出来る人というのは、小生からすれば預言者のようにも思われるのです。
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by bokukoui | 2010-01-13 23:36 | 思い付き | Trackback | Comments(2)

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Commented by 無名 at 2010-01-17 12:50 x
職場のK君もカトリックですね。
Commented by bokukoui at 2010-01-22 23:57
是非、このお題について氏に問い合わせてみて下さい。ご関心のない方でもなさそうですので。
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