「建国記念の日」に思う 「条件付き愛情」的な「愛国心」

 今日は「建国記念の日」ですが、この日が実証史学的に根拠がないという話は重要とはいえどありふれておりますし、どだい小生は古代史のことがさっぱり分かりませんので、その辺はとりあえず措いておいて、前々から思っていたことを少々備忘録的にまとめておこうと思います。昨年、当ブログでこのような記事を書いたせいか、2ちゃんねるで当ブログの筆者が「在日」認定されるという椿事もありましたわけで、これも機会かと。
 当ブログでこの手の話題を扱ったものといいますと、上掲「外国人参政権・夫婦別姓反対デモ」以前にも、田母神俊雄氏の「論文」についてとか、その田母神論文について秦郁彦先生と西尾幹二氏が今は亡き『諸君!』誌上で行った対談についてだとかもご参照いただけると有り難く存じます。
 といっても別段目新しいことを書くつもりはないです。

 上に掲げた過去の記事では、他国や自分に同調しない者に対してむやみと攻撃的になることを「国を愛する」と呼ぶべきではないと主張し、西尾氏の議論が他者への攻撃性によって連帯した「内輪ぼめ」で成り立っていることを山本七平を引用しつつ指摘しました。それらを少しまとめてみようというのが本稿の趣旨です。
 そこで「条件付き愛情」という概念が、少し手がかりになるのではないかと、全くの思いつきですが頭に浮かんだ次第。
 ここで先に「条件付き愛情」のことをちょこっと説明しておきます。小生がこの言葉を知ったのは、ずいぶんと昔のこと、カマヤン先生が児童虐待について述べた文章の中でのことでした。今その出典がどこだったか思い出せないのですが、「条件付き愛情」で検索すれば、今のご時世有り難いことにいろいろ出てきます。とりあえず安直に Wikipedia の該当項目を引用しておきます。
条件付きの愛情
本来、親は子供に無条件で愛情を注ぐものであるが、親の愛情が無条件の愛ではなく、何らかの付帯義務を負わせる「条件付きの愛」であることが問題となる。これが継続的に行使される家庭では、子供は親の愛を受けるために、常に親の意向に従わなければならず、親との関係維持のために生きるようになり、この時点で親子関係は不健全であるといえる。主に幼少期からこうした手段が用いられ始め、子供の精神を支配する手段として愛情を制限する。

この手段は子供が成人する段階になっても継続され、引き続き成人した子供(Adult Children)の精神を支配する。実はこの状況は非常に多くの家庭に存在しており、子供は常に不健全な状況にさらされている。しかし、第三者からは一見してこのような家庭は何ら問題のない普通の家庭として認識される場合が非常に多く、「条件付きの愛」はしつけや教育と称される家庭の病理性の深さを象徴する現象であり、最も基本的な精神的虐待である。しかし現実に、無条件の愛を常に実行できるかというと、これは極めて難しく、健全な家庭を目指すには「条件付きの愛」を減らし、可能な限り無条件の愛を与える方法を親自身が訓練・勉強する必要があるだろう。
 あと、関連しそうな項目もリンク

 当ブログの過去の記事で批判した田母神氏は、確か国会で「日本はいい国だと言ったら辞めさせられる。悪い国だと言い続けるのがいいのか」と発言したかと思います。昨年『笑っていいとも』に出演した際にも同趣旨のことを発言しておりました。この発言に典型的に見られるものは、田母神氏を支持する方々、例の「外国人参政権反対」の人々にもその傾向を強く見いだすことが出来ますし、西尾氏もまた同様であります。彼らは「日本は『正しい国』『良い国』でなければならない」と思い、彼らの価値観に於いてそれに反するようなことを述べると、もれなく「非国民」「在日」認定が待っている、という次第であります。あれだ、昔の教科書に書いてあった「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国」って感じですね。
 ですが、小生思いますに、「日本が良い国で強い国だから愛する」というのは、日本に生まれ育った者の「愛国心」としては、全く覚悟が足りない、といわざるを得ないのであります。もしどこかの国に移民しようと思って諸国の事情を検討し、その結果として「アメリカは正義の国、神の国!」と星条旗に忠誠を誓うのであれば、それは構いません。しかし、自分が望むと望まないのとに関わらず、ある国に生まれ育ってしまった場合、そのように考えることは、合理的ではありません。

 親と同じで、生まれる国は自分では選べないわけです。その親子と国・住民との関係は、もちろん単純なアナロジーには出来ませんが、選び得ない宿命に対しどう対処するのか、という点では参考になり得るところもあると考えます。世の多くの愛は、愛する主体が選択的に選び取った対象へのものですが、生まれ育った国への「愛国心」は、選びようもない存在としてここにあるものへの対応ですから。
 で、ここの愛を混同しますと、あたかも親が子供に向かって「おまえはうちの子じゃない」と精神的虐待を加えるように、国に向かって「こんな“恥ずべき”過去がある国は“自分の”国じゃない」と言い出したりするわけで、さてこそ「歴史修正主義」に走ると同時に、何かしらそういった問題点が自国に存在するのは、自国に含まれない分子=他国や「非国民」「在日」の仕業だという陰謀論に走るのでしょう。
 親子関係などですと、それこそ虐待や家庭内暴力によって、表面的には責任を他者に押しつけて自己の思うがままの世界を構築するということが可能ですが、しかし国という大きな対象ですとそうはいきません。独裁者でもない限り個人の好き勝手になるものではありません。そこでどうするかというと、勝手に犯人捜しをして、そこを無闇と攻撃する、という行動形態になるのでしょう。

 しかしそれは愛と呼ぶにはあまりに偏頗と小生は考えます。小生思うに、「愛国心」とは、まず前提として自分の生まれ育った国について知り、どのような蓄積の上に自分が存在しているかを考え、その存在全てを、“恥ずべき”過去をも含んで受け容れた上で、はじめて構築されるものではないかと。こんな所があると愛する上で嫌だからなかったことにする、なんて我が儘を言っているようでは、愛国心の妙諦に至ることは出来ません。欠点を把握した上でこそ、愛となり得るのです。もちろんそこまで見通した上で、やはり愛する気にはなれない、という結論も存在はしうると思います。親子でもどうにも縁切るしかない例はままあるわけで。
 しかしながら、「愛する」というのであれば、問題も恥も欠点も含んだ上で先ず受け容れることなくしては、愛は、児童虐待的な無体な攻撃衝動にすり替わってしまうでしょう。

 親子の愛情のアナロジーを持ち出したついでに、もう一つ付け加えておくと、もちろん虐待やネグレクトは行けませんが、あんまり密着しすぎるのも親子関係として問題があります。親子といえど別人格ですから。
 で、こっちの問題点を「愛国心」に準えて考えますと、それはさっきの欠点隠しの逆で、何か日本に関する良いことがあった場合、「日本の誇りに思う」などと安易に言ってしまうことになるかと思います。言っている当人は「愛国心」のつもりなのかも知れませんが、例えば日本の研究者がノーベル賞を取ったり、スポーツ選手が金メダルを取ったにしたりしても(ああ、もうすぐ憂鬱な季節が始まる・・・)、偉大なのはその当人と当人を支えた人達であって、別段国籍や民族が同じだからと言って「自分の」誇りにしていい道理にはなりません。むしろそれは、他人の褌で相撲を取るというか、もっと言ってしまえば人様の功績を勝手に私物化していることになるのではないでしょうか。

 例えば小生の趣味的に思いつくことでいえば、日本の鉄道のダイヤが世界的に見ても極めて正確で、それも戦前からそうだったことを、「日本の誇り」と他国の人に向けて一般の日本人が言うことは正当性があるでしょうか。鉄道関係者が「これは昔からの日本の誇りです」と胸を張っているならば、どうぞその伝統を引き継いでがんばってください、というところですが、そうでもない人がイタリア人(例に他意はないです。最近イタリアの鉄道はあんまり遅れないらしいし)に向かって言うのは変じゃないかと。
 小生思うには、他国に対し関係者が誇りうるような何かが自国に存在する場合、第一にその受益者はその国民ですので、そういったものを構築した先人や、今その維持発展に努めている関係者への感謝の念を持つことは大変妥当でありそうすべきですが、それは「誇る」とは違うでしょう。ノーベル賞なり何なりのような偉人が登場することは、その国の豊かさになにがしか貢献したことになるでしょうから、そのことに対し感謝を捧げるにしても、「誇る」のではないと思います。
 誇っていいのは、それがどんなにささやかなことであっても、自分で成し遂げたことではないでしょうか。

 これを先ほどの「愛国心」の話に引き戻すと、まさにケネディの演説の台詞そのまんまになってしまって苦笑するしかないのですが、人様に責任転嫁して悪口を言ったり、人様の業績を我が物顔で語るよりも、自分がどんなささやかなことであっても、周りを豊かにするようなことが出来たのか、それが大事ということになります。ましてや、勝手に自分が愛するものだからといって欠点を抹殺し、異なる意見の持ち主に難癖をつけ、自分が直接関わったわけでもない美点に勝手に一体化するという、「愛国心」を唱えながらその実自分では何もしていないに等しいようでは、「愛国心は悪党の最後の隠れ蓑」ということになってしまいます。このことは広く世界に普遍的に見られる弊ではありますが。
 親子関係の安定も、畢竟は相互に依存でも抑圧でもない、個人としての尊重と肉親としての紐帯の平衡の上に成り立つでありましょう(もちろんこれは理想であって、そううまく誰もが行くわけじゃないにしても)が、「愛国心」もまた、国への冷静な眼差しと、生まれ育った国全てを受け容れつつも、安易にそれと自己を一体化しないこと、纏めればラーゲリ氏お得意の台詞「Study hard」ってことになるのでしょう。
 つまり、「愛国心」を語れるほどになるのは結構大変だよ、安易に言ったら笑われるよ、ってことです。書いている当人も日々修行中であります。

 あんまりまとまらんけど、とりあえずこんなところで。

※追記:関連した内容の記事→「『「在日企業」の産業経済史』の著者・韓載香さんのことばにつらつら思う」
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by bokukoui | 2010-02-11 23:59 | 思い付き