それでも、オタク達は「自民党」を選んだ

 本記事は一応、一つ前の「『青空にとおく酒浸り』単行本化記念で『COMICリュウ』近号雑感」(例によって完成まで時間がかかってすみません)の続きではありますが、別段前の記事を読む必要はありません。
 また本記事の内容については、諸資料をより収集検討し、ネット上の情報を丹念に検索することによって、その内容を充実させることは可能と分かっておりますが、そんなことに時間も労力も割く気もないし余裕もないので、甚だ雑駁なものとなっております。しかし物言わぬは腹脹るると申しますし(いつもこのフレーズ使っているような)、最近身近で接した出来事に思うところもあり、頭の中にぼんやり廻っていることを書き留めておきます。
 なお、タイトルに深い意味はありませんが、突然天から降ってきた電波に逆らいようがなかっただけですので、あまり気にしないで下さい。



 以下は断片的思いつきなのでお暇な方のみどうぞ。引き返すなら今のうち。







 まず、話の発端から。
 徳間書店のマンガ雑誌『月刊COMICリュウ』2010年6月号(4月発売号)の読者投稿欄「RTA」に、現在問題になっている東京都の青少年健全育成条例改正問題を憂慮する投書が紹介されました。これは「青少年健全育成」のためと称して、マンガなどの中で18歳以下に見えるようなキャラクターの性的表現のみならず暴力的表現などを取り締まるという、「非実在青少年」規制というのが条例に盛り込まれたもので、ネットを含む反対運動などにより、都議会最大会派の民主党が慎重な態度を示し、継続審議として一旦先送りになりました。当ブログでも以前ちょっと触れましたし、ネット上に纏めサイトなどもあります。
 で、そのような条例制定を憂慮する声がマンガ雑誌に投書されることは至極当然であり、それが掲載されることもまた大いにあり得るべきことです。それはいいんです。問題はその投書に対し、「RTA」編集子が付けたコメントです。以下に引用します。
 非実在云々、ですね。確かにあれは勘弁してほしいものです。違法と適法の明確な線引きをしないままだと、個人の裁量だけで法の適用が可能になってしまいますから。つまり簡単に悪用できてしまう。これは「リュウ」だけの問題ではありません。稚拙な法制化をすすめようとしている都議会のレベルの低さも大問題です。
 と、まあここまでは大きな問題はありません(多少文章の繋がりに「ん?」なところは無くもないですが)。しかし、この続きの文章が、どうにもおかしいのです。
(承前)民主党の連中や河野太郎を始め、法律を作る立場にいる議員という輩は、法律を基礎から勉強し直すべき。と、法学部出身の私はそう思う。(強調は引用者による)
 さてこそ妙な文章です。東京都条例に関していえば明らかに、条例(法律ではない)改正を進めているのは自民党と公明党であって、最大会派の民主党は党内に種々の意見があるものの慎重な意見が多かったことから条例は継続審議になったのです。都議会の最大会派だから「~を始め」として取り上げたのでしょうか? でもそうすると「河野太郎」の意味が不明です。河野太郎氏はそもそも衆議院議員で、選挙区は神奈川県です。
 「法律」と書いているので、同じく表現規制に関わる「児童ポルノ」法と一緒に論じているのでしょうか?(法学部を出てこれをごっちゃにするのはどうかと思いますが) しかしこれまた、90年台に最初の立法がなされたのは自民党・公明党が与党だった時代であり、その後も見直しとして規制強化等が図られる際の主導者は与党の自公でした。昨年も単純所持禁止まで踏み込むかと思われた瀬戸際に、麻生首相が議会を解散して有耶無耶に終わったのは、記憶に新しいところと思います。一年経ってませんよ!
 大体、民主党と河野太郎という対比自体が、政党と個人で意味不明です。しかも、小生が多少これまで聞きかじってきた表現規制問題関連の情報の中で、自民党の中でも河野氏の名が取沙汰された記憶はありません。推進派として槍玉に挙がりそうな自民党の議員は、他にいくらでもいます。今ちょっと検索した限りでは、河野氏は規制賛成派に分類されているようですが、小生の知る限り、活発にこの問題で活動してはいない筈です。

 さてこうなりますと、確かに徳間書店は時々陰謀論系の「トンデモ」な本を出す実績のある出版社とはいえ(大手の場合どこの会社でもある程度は紛れ込みますが)、この編集子が「民主党=表現規制推進派」と誤認している、と判断せざるを得ません。おまけにそこに河野太郎氏を並べているのは、あまりに平板な表現ではありますが、所謂「ネット右翼(ヘタレ保守)」的な発想であろうと推測するより他にありません。
 しかし、このような誤認、或いは思い込みは、かなり広く遍在しているようです。今小生が記憶している一例として、カマヤン先生のブログ記事経由で知った津田大介氏のツイッターを挙げておきましょう。
ある民主党議員がこぼしたのが「我々が条例案を提出した訳ではないのに毎日子供から『民主党がこの条例案を推進して漫画やネットを規制しようとしてる』みたいなわけのわからない電話がかかってきて困っている」ということ。ネットの反対運動で難しいのはそういう間違った電凸野郎が出ることだよな…。
8:36 PM Mar 14th
 小生がmixi上で目にしたまことに典型的というか模式的な例では、表現規制と絡めて時事の話題に触れ、若年層も選挙に行こう、と書かれた方のところに「ニュースから来ました! 選挙に行って、民主と公明の候補者を落選させましょう!」とか書いていた徒輩がおりましたな。
 探せばいくらだってこのような例は出てくるでしょうが、面倒なのでそれは切り上げます。ただ小生が改めて強調しておきたいことは、ネット上のたわごとと思われていたこのような言説が、こともあろうにマンガ文化の一翼を担っている編集者から誌上で発せられた、ということに衝撃を受けざるを得なかった、ということです。

※追記:その『リュウ』編集部がこの問題に関し、『非実在青少年読本』を発行するそうです。寄稿者の顔触れは立派なものですし、「刊行にあたって」の文面からしても大丈夫だとは思いますが。

※更に追記:発売された『非実在青少年読本』を購読しました。感想はこちらのリンク先へどうぞ

※更に更に追記:この件について、『COMICリュウ』の大野編集長に直接質問してみました。その顛末はこちらのリンク先へどうぞ

 もちろん、繰り返しますが、政治的にはこれら表現規制に積極的なのは自民党と公明党であり、反対しているのは社民党と共産党で、民主党は党内に種々の意見があり、推進派もおりますが、反対派の意向を解する方が有力なようです。そのような状況は、例えば、マンガの表現規制問題について連年本を出されている永山薫・昼間たかし両氏のブログなど見ていれば分かることなのですが(例えば最新の記事)。
 もし、人生の資源の相当部分を「オタク」的なコンテンツ消費に捧げて悔いない、という人物が、表現規制断固阻止を最大の眼目として政治行動を行う場合、社民や共産の勢力拡大を図り、民主党の規制反対派を支援して同党を反対の方向へ固める、というのが合理的と考えられます。しかも幸いなことに、現在国会の与党は民主・社民であり、都議会でも民主が最大勢力を占めています。この見方からすれば、比較的反対運動のしやすい状況とも言えるかも知れません。
 しかし、概して(これを統計的に立証するのは不可能ではないにせよえらく面倒なことですが)ネット上でみかける「オタク」的なコンテンツに親和性の高い層の政治的傾向は、いわゆる「ネット右翼」(ヘタレ保守)的なものが相当に多く、さてこそ如上のような誤認を振り回す輩は絶えぬのでしょう。もちろん、「整備新幹線の全国的展開」を必須と考える鉄道マニアとか、「ダム建設推進」を唱えるインフラマニアとか、基地強化を至上とする軍事オタクとかなら、異なった政治行動を選択することは全く妥当ですが、コンテンツ消費に重点を置いた人ならばやはりそのような政治的志向は利益をもたらすものとは思われません。

 しかも、彼らが民主党(や社民党)を排斥する場合は、多くの場合政策的な批判ではなく、何やら「日本を破壊する」などというご大層な(しかし内実不明な)看板を掲げ、同時に外国人参政権反対や夫婦別姓反対、また中国・韓国に対する攻撃的姿勢を兼ねている場合もまた枚挙に暇なく、そして自民党支持を掲げても(さてこそ『リュウ』編集子の如く?)河野太郎氏などは「売国奴」のレッテルを貼られることがままあるようです。
 当ブログでは以前、秋葉原で統一協会のデモに出くわした際、少々この件から派生して思うことを長々述べまして、その記事で書いたことの繰り返しになりますが、韓国への敵愾心を別にすれば、如上の「日本を破壊する」という言説は統一協会の宣伝の言説と極めて似通った所があり、またそれは統一協会=勝共連合との関係がささやかれる保守政治家の言説、それは表現規制を推進する側の属することが多いのですが、それとも通じるところを持ってしまいます。
 これでは、政治的に合理的な行動になるとは思われません。

 もちろん、以上縷々小生が述べたようなことは、おそらくどこかで誰かがより分かりやすく指摘していることと思いますので、ただ指摘するのではなく、また「だから規制反対運動なんて成功するはずがない」なんて腐すのでもなく、そこから発展してもう少し思い付きを述べてみます。それ自体はただの思い付きに過ぎませんが、もし読者の方々の何らかの発想の糧になりましたら幸いです。

 で、小生がまず思うことは、表現と関わるような「オタク」的趣味とは、「コンテンツ産業」なんて言葉が最近はやり(?)のように、コンテンツを消費することに他なりません。コンテンツを消費するとは、言い換えればテクストを読み解くことです。そうなりますと、コンテンツ消費を好み、テクストを読むことに経験を積んでいる筈の人々の少なからぬ部分が、表現規制問題に関して如上の誤認をしてしまうのか、有り体に言ってしまえば「オタク」的コンテンツ消費者のテクスト読解能力は低い――というのが不適切なら、ものすごく単純な基準で割り切ってしまう、そのような傾向があるのかも知れないと思われます。

 ではどのように割り切ってしまっているのか、割り切られやすいのか、ということも考えてみます。そうすれば、前述のような矛盾した政治的言説が登場する理由も分かるかも知れません。実のところ小生は、あまりよいコンテンツの消費者ではありませんので、その考えは妥当性をやや欠くかも知れませんが。
 で、小生が思いつきますのは、当ブログで以前、「『守る』に関しとりとめなく(「外国人参政権・夫婦別姓反対デモ」続き)」という記事を書きましたが、この「守る」という矮小化された「保守」の概念が一つ、手がかりかも知れません。言うなれば、自分は悪くないのに、何らかのインベーダーによって自分(たち)の「正統な」権利が侵害されている、「あるべき」姿が損なわれている、自分の得るべきものが奪われているという発想が根底にあり、問題はそのインベーダーを排除すれば解決するという発想です。

 そのような発想に基づく、例えば排外主義的な活動なんてのは世界中いつでもどこでもありますが、ではそれがどうして、ある局面で「オタク」的コンテンツの消費者と(彼らの政治的合理性とは背馳しそうなのに)結びついたのかを、更に思いつくまま挙げてみます。
 小生が今思いつくのは、「オタク」的コンテンツのあり方自体が、インベーダーから「守る」或いは「取り戻す」が多く、何かを作り上げるものはあまり多くないから、ではないかということです。これは主に、なのは厨なぞ余所目に見て思いついたことですが(笑)。そういえば本論の発想の元になった『リュウ』の、「大塚教授の漫画講座」第四講(同誌2010年4月号)は「大城のぼると始まりのアニメと転校生」と題し、物語の基本形式に「行きて帰りし物語」というパターンがあり、「外側から内側にキャラクターがやってきてそして去っていく」ことで成り立つ、と指摘しています。これを内側の視点に限定して見ていれば、インベーダーを排除する構図のようにも思われますな。これはテキトーな思い付きですが。
 あと、「取り戻す」ということついていえば、「オタク」的コンテンツの舞台として「学校」が非常に多いのは、当初は読者の年齢層に合わせたに過ぎなかったにしても、現在その消費者の多くが「学校」を離れてもなおそれにこだわるのは、自らの「奪われた」(本来得られるはずが得られなかった)青春を取り戻したいという欲求なのかもしれません。これはハルヒ厨について友人諸氏と議論して至った結論ですが(笑)。そういえば大塚教授はいみじくも上掲の講義で、「内側」を学校に設定して、「転校生」というキャラクターが外側から境界線を越えて(これがポイント)やってくるというプロットを作るという課題を学生に課していました。

 しかしまた、作品の傾向と消費者の嗜好がお互いに影響し合ってドツボに嵌っていくということもままありますが、それにしたって、「守る」テーマの作品が、悉く単純に二元論や友敵論を鼓吹するものでもありませんし、「守る」ことを通じて新たな創造へと世界を広げていくような視野を与えうるような作品もいくらでもあるでしょう。となると、消費者の受け取り方というのも更に影響していそうです。つまり作品の解釈を、いわば、より単純な割り切り方をしてしまいがちで、そしてそのような割り切り方をしやすいような作品が好まれたりする、そんな傾向があるのではないかというわけです。
 そこで小生が思わずにいられないのは、「萌え」ってマジックワードですね。もはや最近は手垢がつきすぎて誰も顧みなくなっている感もありますが、このような言葉で仕切ってしまう、一頃はやった(これは今でも?)何でも「萌え」化してしまうものを消費するような(当ブログでは以前、「『萌え』はソースかケチャップか」と題して『おしおき娘大全集』を批判しました)、こういう手法があり、それが様々な角度からの読みを総合していって矛盾無く体系に纏めていくのではなく、自分にとって心地よい断片だけをかき集めて世界を構成することを正当化しているのではないか、ということです。
 小生は例えば「歴女」のブームのようなところに、このような問題を強く感じていますが、概して最近のアニメやマンガなんかでは、背景の歴史や神話などに無頓着にその断面をちょん切って使うような傾向があるのではないでしょうか。それはメイドブームをその初期の頃から、歴史的事実に基づいてツッコミを入れつつ観察していた者の率直な感想です。

 矢鱈と長くなってしまいました(いつものことですが)。その割に纏まっていませんが、もともと纏められるほど考えが練れているわけではありません。何かご意見をいただければ幸いです。
 一言蛇足を付け加えておけば、「萌え」の果たす役割がこのようなものだとすれば、かつて「二次元への愛」を説いた本田透氏のモデルは、多分挫折したんだろうなあ、ということです。二次元を愛することで幸せになれるのは選ばれし勇者のみで、多くはより面白くコンテンツを見る積極性を得られず(ただし、これを得るような教育システムが整備されていないことは事実)、奪われたものを取り戻しあるべき姿を守りたい、という程度に低回し、愛するのではなく、目を付けたものへの攻撃に走ることで満足を得てしまっているのでしょう。
 あまり楽しからぬ内容にしかなりませんでしたが、といって小生が「表現規制反対なんて無駄だから止めるべきだ」というわけではありませんし、『リュウ』を読むのを止めるわけでもありません。以前当ブログで報じたイベントでの、エロ漫画編集者の塩山芳明氏が阿宮美亜氏を評して「右翼にしては芸がある」と言ったように、政治や思想よりも芸を尊び、少しでも良いものに出会える可能性があるのなら、むしろそのプラスに賭けつづけたいと思います。そして、「良いものに出会える可能性を上げます」と善意の介入を行うことは、往々逆の結果をもたらすことがある、ということも、書き添えておきます。
 明快な対処法など思いつきもしませんが、それを理由に撤退するよりも、分からない故の可能性や混沌を面白がるくらいのつもりで、今後もやっていこうと思います。

※加筆予定続き何か書くかも
※追記:一応続きらしい記事。ちっとも纏まって無くて話逸れまくりですが。
「後輩が『鳩山首相を暗殺して歴史に名を残したい』と電話してきました」


※さらに追記(2016.7.13.):関連した内容を以下の記事に記しました。
「『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える」
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by bokukoui | 2010-05-11 23:59 | 思い付き