近鉄創業百周年記念雑文 近鉄が日本最大の私鉄になれたのは?

 今年は関西の大手私鉄で「百周年」になる会社が多い年で、阪急が今年3月に開業百周年、京阪も4月に創業百周年を迎えています。また、近鉄は開業は1914年ですが、同社は昔から会社の歴史を開業からではなく会社設立から数える習慣があり、近鉄の前身の大阪電気軌道(大軌)が創立されたのは1910年9月16日のことでした。ですので近鉄としては、やはり今年が百周年になるようです。同社は開業までに生駒トンネルを掘っていたら崩落事故が起こるわ資金が足りなくなるわ、開業に漕ぎ着けるまででも大変だったからでしょうか(阪急や京阪も楽だったわけじゃないですが)。
 で、当ブログでは昨年「京成電鉄創立百周年記念企画」なんてのを4回続きで書きましたが、今年は関西私鉄で一つ、と思いつつも阪急と京阪では機を逸してしまいました。両者の開業頃に諸事に追われてたということもありますが、手頃にまとまった話題が手元になかったからでもあります。近鉄についてもそれほど格好の話柄があるわけでもないですが、折角なので思いつきを一つ。
 ・・・と、先月の16日に書こうと前々から思っていたものの、心身とも低調のどん底で書くことあたわず、そこで去る15日に書こうと思ったのですが――近鉄路線網の中核となった大軌は、設立当初は「奈良軌道」という社名で、1910年10月15日に「大阪電気軌道」と改称しました――これまた三峯徹画伯タモリ倶楽部出演という時事ネタで機会を逸しました。のでちょいと時期外れですが、近鉄史上としては「旧河南鉄道(現・道明寺線・南大阪線の一部・長野線)のガンツ式蒸気動車導入102周年」ということで、本日書くことにします。



 さて、路線長日本最大の私鉄である近鉄は、数多くの鉄道会社が合同したことでできあがっています。最近は養老線・伊賀線・北勢線のように地方のローカル線を切り離したり、古くは戦時中統合していた南海鉄道を再分離した例もありますが、基本的には合併を重ねてきたことで近鉄は形成されました。
 で、その近鉄をかつて構成していた会社の主なものを挙げますと、以下のようになります。近鉄(の前身の会社)への合併時点の路線延長で長い順に並べたつもりですが、厳密に営業キロを計算してはいません。まあ大体です。

◎大阪電気軌道(近鉄成立時は関西急行鉄道、奈良線、大阪線桜井以西、橿原線など)
 ・その子会社の参宮急行電鉄(大阪線桜井以東、山田線、名古屋線の一部など)
 ・その子会社の関西急行電鉄(名古屋線の一部)

◎伊勢電気鉄道(名古屋線の大部分、旧養老線、旧伊勢線など)

◎大阪鉄道(南大阪線、長野線、道明寺線)
 ・その子会社の南和電鉄(御所線)

◎三重電気鉄道(湯の山線、八王子線、内部線、志摩線、旧北勢線)

◎奈良電気鉄道(京都線)


 この他にも吉野鉄道とか信貴生駒電鉄とかいろいろありますが、主なのはまあこんなところです。
 この中で三重電気鉄道は、戦時中の交通統制により、三重県のローカル私鉄・バス会社を政策的に大合同して出来た三重交通から、戦後鉄道部門のみ分離してできたものです。分離は近鉄との合併を前提としていたようですから、ちょっと特殊な経緯の会社です。
 で、その特殊な三重電以外の主要近鉄前身四社の歴史には妙な共通点があって、それは「経営破綻した前科がある」というものです。

 各社ごとに具体的な経緯を見ていきましょう。
 まずは近鉄の本流である大軌の場合、生駒トンネル建設などに費用がかかりすぎ、一方当時はまだ沿線も奈良自体も田舎だったため収入もそれほどでなく、借金まみれになってにっちもさっちも行かなくなります。万策尽きた大軌の支配人が、最後の手段として生駒聖天に賽銭を借りに行くというのは、近鉄の歴史を描いた木本正次『東への鉄路』の冒頭に描かれた有名なエピソードですが、そんな次第で1914年秋には社長の岩下清周も辞任を余儀なくされます。翌年には再建案が債権者の承諾を得て、折からの大戦バブルもあって経営は持ち直します。

 伊勢電気鉄道は、もともと津~四日市を結ぶローカル非電化私鉄(当時は「伊勢鉄道」)でしたが、四日市出身の実業家・熊沢一衛が社長に就任して積極経営に転じ、北は桑名、南は伊勢神宮まで線路を延ばす一方、養老線を他社から買収したり、のち三重電になる軽便鉄道に経営参加したりと三重県の交通制覇を目指します。最終的には名古屋進出を予定して準備も進めていました。
 しかし大軌の子会社の参急にはりあって伊勢神宮への延伸を優先し、名古屋への延伸を後回しにした結果、大都市との連絡がないため輸送実績はふるわず、大恐慌もあって伊勢電の経営は1932年破綻し、1936年大軌・参急グループに合併されます。この時、社債を踏み倒された保険会社が実力行使に出、養老線を強制管理下に置いて、毎日駅まで切符の売り上げを回収に来たとか。

 大阪鉄道も伊勢電と同様のパターンです。
 この会社はもともと河陽鉄道として1898年に柏原~古市間を開業(同年中に富田林まで延伸)しますが、関西線(当時は私鉄)の支線というローカル線もいいところで、経営は初手からどうしようもなく、差し押さえを受けたまま運行するという悲惨な状況だったようです。ので1899年に河南鉄道に改組しますが、これは日本の鉄道史上初の経営破綻→再建、という新記録だったそうです。具体的には旧河陽鉄道の株式を100%減資して償却に当て、負債を河南鉄道の株式に振り替えるという方法でした。
 これでいったんは落ち着いた河南鉄道でしたが、1917年富田林の事業家・越井醇三が経営者となって、やはり大阪に直結しなくては発展はないと、電化して大阪の阿部野橋に進出する一方、奈良県方面にも延伸を計画し、吉野鉄道への乗り入れを計画します。1929年に阿部野橋~久米寺(現・橿原神宮前)が開業し、吉野まで運転を開始しますが、これに費用がかかりすぎて1930年経営破綻します。大鉄は収入を全部利息の支払いに充てても足りなかったといいます。
 大鉄の経営破綻には放漫な投資は否めず、日本最初の全長20メートル級電車(今の電車は大体が全長20メートル程度です)を作って車輌の大型化に大きな足跡を印した功績もありましたが、調子に乗ったのかその当時としてはでっかいこの電車を、橿原延長時に60両も製造しました。ちなみにその翌年、大阪と伊勢神宮を結んだ参宮急行は、ほぼ同じ大きさの電車を57両作りました。距離が倍以上ある伊勢向けの電車より多いんですね。当時の経済雑誌にも「吉野の桜が名所といっても桜が咲くのは一週間。そのためにこんなに電車を作って、1年のあとの期間はどうするんだ」と批判されてました。
 余談ついでに書いておくと、1940年は「皇紀2600年」イベントで橿原への参拝者が激増、参急は57両作った大型電車の同型車を更に26両増備しました。しかし大阪鉄道は、1両たりとも増備しませんでした(笑)。これを以て、過剰ぶりを察するべし。

 最後に奈良電について。
 奈良電は紆余曲折を経て1928年に京都~西大寺間を結んだ鉄道でしたが、京都市内に高架橋を建設したり淀川に巨大な橋を架けたり、なんだかんだで費用が嵩んだところに大恐慌で経営は困難に陥り、社債利子が払えなくなります。奈良電は当初、京都市内は京阪に乗り入れる構想だったこともあり、京阪との縁が深く、1930年には京阪に合併してくれ(さもなくば借金の利子を立て替えてくれ)と泣きついています。もっとも当時は京阪自体も経営が危機的だったので、これは却下されました。
 こうなれば大阪に直接進出して、と怪しい工作を駆使して免許を獲得したりしていますが、これで無理矢理大阪進出線を作ったらまさしく大鉄の二の舞になるところでした(おそらく平行線の免許をちらつかせて京阪や大軌の支援を引き出すつもりだったのでしょう)。結局1933年に再建案がまとまり、1940年頃には再建が終了しました。
 ところが戦後、平行する国鉄奈良線がディーゼルカー投入したり、沿線でバスが発展すると再び経営は傾き、近鉄と京阪とが傘下に収めようと(当時の奈良電は、京都側で京阪と線路が繋がり、相互直通運転をしていました)それぞれ株の買収合戦を繰り広げ、150円程度だった株価が700円を突破した挙げ句、関電会長の太田垣士郎の斡旋で近鉄が買収します。奈良電は京都に独自ターミナルはあるのに奈良は近鉄のターミナルに乗り入れていることからすれば、妥当ではあります。

 以上をまとめると、近鉄の路線の結構な部分は、「思い切って投資→利子が払えず経営破綻→債権者に頭を下げて再建」というパターンを経ていることが分かります。また、特に伊勢電や大鉄の場合、長大な路線を建設したものの元が取れず、大軌・参急に救済合併されてる(大鉄はいったん再建してから吸収されてますが、再建者の佐竹三吾は大軌の経営者・種田虎雄と深いつながりがあり、その意を受けた再建者といわれます)わけで、経営破綻と近鉄参入には関係があるわけです。奈良電も経営基盤が強ければ辿った経緯は異なったでしょう。
 さて、極めて単純にいえば、近鉄のように巨大な鉄道路線網を築く上での最大の問題は、建設資金が調達できるかどうかです。で、近鉄の場合はそれをどうしたかというと・・・「あとさき考えずに借りて踏み倒した」!? てのが巨大路線網を築いた秘密なのでしょうか(笑)

 もうちょっと真面目に考えれば、電鉄業のような巨大な資本を最初に必要とする事業について、適切な資金調達の重要性を物語っている話ともいえなくもないですが、実際鉄道で最初の投下資本を回収できずに、債務をある程度減免して、このような再建の過程を辿っている例は結構あります。
 あ、考えてみれば、国鉄分割民営化って、日本史上最大の破綻→再建といえなくも・・・?

 関西五大私鉄で考えると、
・近鉄:如上の通り破綻と再建と合併を重ねて大私鉄に
・南海:南海本線は儲かった上、建設時期が古くて帳簿上建設費が安価。高野線の方はお約束の破綻→再建をやらかしてから(資本の重荷を下ろしてから)合併
・阪神:よく儲かった上、最初の路線から拡張をしなかったので、建設費に悩むことがあまりなかった
・阪急:当初の費用は三井物産に支払いを待ってもらい、神戸線は船成金から資金を借り、神戸市相手にゴネ倒して費用のかかる地下鉄より安価な高架線で済ますなど、あの手この手を駆使
・京阪:巨額の資本を投下して新京阪線を作り、見合った利益が上がらず経営が傾く。事業を売却し配当を停止するなどやっとの思いで立て直すも、その新京阪線を戦争のどさくさで阪急にまきあげられる(涙)

 こう並べると、阪急の偉大さは実は、資金調達の巧みさや、自己の投資を行わずに路線を拡張したところにあった(最近の村上ファンド関連で遂に阪神を傘下に収めたのも、ねえ)のではないかという気もしてきます。実際、資金調達の巧拙という点で、小林一三と越井醇三を比較した論文がありまして、確か『鉄道史学』の昔の号に小川功先生が書かれていたのですが・・・あれ、CiNiiで出てきませんね。
 考えてみれば小林一三は三井銀行の銀行員出身なので、資金調達について十分な経験と知識を有していたのは当たり前といえば当たり前です。しかし、小林のアイデア商法について讃える言説は多くても、資金調達が巧みで、また固定資本が重くなりすぎないようにあの手この手で工夫した(神戸市と十年喧嘩しても地下鉄で市内乗り入れをしなかった)という点はあんまり、前掲小川論文くらいしかはっきり指摘したのはないように思います(あったとしても大阪商人的節約精神になってしまう感が)。
 その辺が注目されにくいのは、恐らく小林の『逸翁自叙伝』なんかで、三井銀行時代が如何につまらなかったか延々と書いてあるのに、後世の人が影響されたんじゃないかと小生は考えております。小林は文学者の才もありそうな人物ですので、その自叙伝は他の財界人の回想録に比しても、文学的修飾が多い可能性はありますね。

 話が例によってとっちらかっておりますが、ま、いろんな視点で見ていけば新たな面白さが見つかるかも、ということで。
 ところで、近鉄も京阪も百年史を編纂中なのですが、また原稿も大体出来たらしいという話も聞いたことがあるのですが、検索しても情報がないところを見ると、まだ出てないようで・・・いつになるんでしょうか。京阪については「年度末に出たらラッキー」という噂も耳にしましたが・・・。

※追記:近鉄の百年史はぎりぎり年度末に発行されました。紹介記事はこちら
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by bokukoui | 2010-10-17 23:59 | 鉄道(歴史方面) | Trackback | Comments(2)

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Commented by syakekan at 2010-10-23 04:28 x
どさくさにまぎれて原武史をでぃすらないw

どうでもいい話ですが、軍事史の原剛先生のほうがちゃんとした鉄道知識持ってそうと兄弟子と話してたりしました。
Commented by bokukoui at 2010-10-25 18:16
ご無沙汰しております>大総統閣下
来月の学会大会にはお越しでしょうか。

本稿は原武史をわざわざ批判する訳じゃないですよ(まあ典型例ではありますが)。実は先日、原×堤清二対談講座なるものをつい見に行ってしまいまして、原批判記事ならそっちでやろうかと。

原は原でも原剛先生の方が確かにお分かりでしょうね。鉄道と国防は縁も深いので。
そういえば『鉄道と日本軍』というちくま新書が出ておりまして、これの書評も書こうと思っているのですが、やはり思うに任せず。
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