鉄道とエロの微妙なお話~京浜急行電鉄社内報『けいひん』より

 前回の記事に書きましたとおり、お陰様で当ブログの記事も1000件に到達しました。
 で、折角なら1000件達成後の記事は何か特別なもの、とも思うのですが、今だ本調子とは言いかねる(という状態が半年以上続いている気もしますが)ので、あまり重厚長大なものは書けそうにありません。そこで、当ブログのアクセス解析による来訪者の方の検索ワードの傾向に基づき、表題のごときお題を掲げてみました。つまり当ブログは、書いている当人は鉄道関係の話題中心のつもりが、来訪してくる方はエロ漫画関係のワードの検索によるものが多いようで・・・ま、「(エロ)マンガと鉄道」という企画も当ブログでやってましたし、そのネタもあるのですが、とまれ、エロと鉄道に関する微妙なネタを最近見つけましたので、備忘として一筆。



 有り体に言ってシモネタ(艶ネタ?)なので、気になさらない方のみどうぞ。女性の閲覧は推奨できません。


 しばらく前に小生、京浜急行電鉄の社内報『けいひん』の、昭和40年代のものを一山読んでいました。これは、生野団六という、戦前の京浜電鉄(現在の京急の日ノ出町以北を作った会社)の社長・湘南電鉄(京急の日ノ出町以南を以下同様)の専務(湘南は社長不在なので専務がトップ)を務めた人物について調べる用事があり、ところが生野の没年が分からず、その情報を求めてでした。普通それくらいの人物なら、新聞社のリファレンスに没年くらい載っているものですが、なぜか載っておらず、社史などにも情報がなかったので、京急に問い合わせをしたら「社史などを調べましたが分かりません」という返事でした。社史はこっちも調べたって・・・というわけで、いろいろ当たって神奈川県立川崎図書館に所蔵されている京急の社内報を調べに行ったわけでした。
 神奈川県立川崎図書館は、社史の所蔵では全国的にも高い水準で、「ビジネス支援」や「科学技術情報の提供」を売りにしています。小生も名前は前から知っていたのですが、幸い所属する大学の経済学部が社史の類を豊富に持っているので、今までお世話になる機会がありませんでした。今回訪ねてみて、なるほどこれはたいしたもんだ、と史料の揃い具合には感心しました。
 しかし平日の午後に行ったところ、図書館利用者は「ビジネス」や「科学技術」に関係なさそうな人が大半で、受験勉強している学生や、語学の教科書を広げて居眠りしてるおっさんやらばかりなのは公立図書館にありがちなことですが、さらに(こういう言い方は悪いが)小汚い爺さんがスポーツ新聞を閲覧していて、おまけに飲食は御法度の筈の図書館で飲み物を飲んでいます。それもお茶やジュースならともかく、ワンカップ焼酎・・・。川崎は産業の空洞化で荒んでいるのでしょうか。

 それはさておき、読んでいたのが京浜急行の発行していた『けいひん』でした。
 で、『けいひん』は社内報ですから、新入社員の紹介だとか社員の新婚さんの紹介だとかがあるわけで、社員の家族も読むことが想定されているわけです。そして現業部門の大きい会社なので、高卒の新入社員が多い・・・どころか昭和40年代初頭では中卒もかなり多く(どうも当時の京急は、青森などから中卒の集団就職をもっぱら受け入れていた模様)、バス車掌になりたての16才の女子社員が、車庫でバスに轢かれて亡くなったという痛ましい記事もありました。
 鉄道趣味者的には、かの名物副社長・日野原保氏が、「両開きのドアと片開きのドアでは乗降できる人数にさほどの差はない。であるからラッシュ時の乗降時間短縮にはドアの数を増やす方が良く、幅広の片開きドアの方が両開きより機器が簡単で済む」などと熱弁を振るっている記事があり、京急ファンならニヤリとすること請け合いです。京急マニア以外の方向けに説明しますと、戦後の京急には技術者出身の日野原保氏という名物重役がおりまして、日野原氏はアメリカの技術に学び、日本で初めてCTC(列車集中制御装置)を導入し、ダイヤの改良に活躍したほか、車輌にも片開きドアで充分、前照灯も一つで足りるなど強いこだわりを発揮、「日野原イズム」なんて言われたりしました。このため京急は1980年代まで片開きドアの車輌しかなく、日野原氏が引退して初めて他社同様に両開きドアを導入しました。もっとも今年、旧1000形が引退したので、今では「日野原イズム」を伝える電車は800形だけになってしまいましたが。
 そしてまた、当ブログでも以前その手記を紹介した京急の技術者・丸山信昭氏が、京急・都営・京成の保安装置である「1号自停」の解説をしている記事なども興味深いものです。丸山氏も「丸山イズム」なんて言われたとご自分で書いてましたが、斯様にこだわりの技術者が中心となり、同社の特徴ある運行体制を築いていったのでしょう。もっとも1号自停も最近 C-ATS に更新されたそうですが。

 前置きが長くなりました。
 本題の記事は、正確な年代や号数は失念しましたが、『けいひん』の昭和40年代のさる号に、海外視察をしてきた社員による座談会が掲載されていました。なるほど、いかにも社内報らしい記事ですね。昭和40年代ですと、海外旅行が自由化されたとはいえ、まだまだ簡単じゃなかった時代ですし、海外経験を社内で共有する意義もあるでしょう。
 では、彼らは海外で何を見てきたのだろう? と小生は、本来の調査とは外れるものの、興味を起こして斜め読みしてみました。そこにはこんなことが語られていました。以下の内容は、コピー取ってませんのでうろ覚えですが、そんなに間違ってはいない自信があります。



「ハンブルクで飾り窓の街を見に行った。シロクロいろんな人種の女の子がいて面白かった」

「(ハンブルクで)現地のエージェントにストリップに連れて行って貰った。黒人のストリップはちょっと気持ち悪かった」




 ・・・・・・。お前ら会社の金で何見に行ってんのじゃー!! 百万歩譲って、見に行ったのは許すとしても、それを社内報の座談会で堂々と話すか? 中卒高卒の若者や、結婚したばかりの奥さんが読む社内報で!! しかし40年も前ならそんなものだったのかなあ。
 と、まあそんなところが今なら一般的な反応でしょうか。しかし、すれっからしの京急ファンである小生は、ある意味この海外視察に感心しました。こう思ったのです。

「流石、黄金町の高架下を売春街にしていた電鉄会社の人は、見るところが違う」

 我ながら、この発想もどうかと思いますが。
 鉄道史の知識をひけらかせば、近鉄(の前身の大阪電気軌道)は歓楽街であった今里新地の開発に力を注いだといいますし、その昔は芸者をPRに利用するなんてのは、「清く正しく美しく」な阪急(の前身の箕面有馬軌道)もやっていたことでした。京急の前身の京浜電鉄は、大正時代まで沿線の川崎などで電力供給事業をやっていましたが、その昔の電灯の大口顧客といえば遊郭だったそうで。
 京浜電鉄の電灯事業も川崎遊郭を上得意にしていましたが、この電灯事業は紆余曲折を経て大正年間に名古屋・九州系の会社の東京電力(今の東京電力とは違う会社です)に譲渡されました。戦前関東の電力事業は東京電灯という会社が占めていましたが、東京電力(戦前)は東京電灯に激しい競争を大正末から昭和初期に挑みます。で、東京電灯は対抗して東京電力(戦前)の上得意だった川崎遊郭に、格安で電灯契約を結ぶことに成功しますが、これに怒った東京電力は直ちに吉原遊郭へ格安料金を注進、「吉原の組合長も高飛びした娼妓を取り戻す時のやうな凄い形相で、東電(註:東京電灯)本社へ捻ぢ込んだ」のだとか。あ、引用元は駒村雄三郎『電力界の功罪史』交通経済社出版部(1934)の249頁です。この本は「電力講談」と揶揄されるくらいで、読み物としては滅法面白いですが、信憑性は多少留保した方がいいかもしれません。
 更に話が逸れますが、明治時代は電力メーターが高かったので、小口の電灯の料金(当時電化製品なんて電灯しかないので)は電灯一つ幾ら、の定額制でした。定額料金には、深夜12時までの「半夜灯」と、朝まで点いている「常夜灯」が通例ありましたが、東京電灯には午前2時まで点いている「二時灯」なるものがありました。この中途半端な料金体系は何なのでしょうか? 2時まで何をやっているのでしょうか? そう、これは事実上の「吉原向け電灯料金」だったのです。これだけの付き合いがあったからこそ、吉原よりも安い料金で川崎遊郭に電灯を供給したことに、吉原の組合長がキレたんですね。

 話を戻します。
 京急の黄金町~日ノ出町の高架下界隈は、戦後の売春防止法施行以後も、関東屈指の風俗街としてその名を馳せていましたが、2005年以降警察による「浄化作戦」でそれらの風俗店は一掃され、現在はなくなっています。街の浄化には成功しました。しかしその結果、人も来なくなってしまったのです。その経緯について、以下のサイトの記事がまとまっていますので、是非ご一読下さい。

・ヨコハマ経済新聞
 以下、何箇所か引用してみます。
 地域住民たちの努力によって街の浄化には成功したものの、課題は山積している。健全性を取り戻した代償として、街から人がいなくなってしまったのだ。風俗業で成り立っていた場所柄だけに、人の往来が途絶えたことで痛手を受けた近隣の商店なども少なくはない。まさにゴーストタウンと言っていい状況だが、横浜の中心部に程近いエリアにこうした一角が存在するのは異様ですらある。売春行為を再発させることなく、この地に人を呼び寄せるための街づくりが緊急の課題なわけだが、その歩みは遅々として進んでいないのが実情。
 今年(引用註:2006年)1月29日、この街に剣道場「秀武館 敬心道場」が誕生した。(中略)こうした教育の場が黄金町にできるなど、かつてのこの街のありようからすると考えられないことだが、二度と風俗エリアにはさせないという地域住民の気構えを示すものだと言えるだろう。続いて3月15には、地域の防犯拠点として「ステップワン」がオープンした。だが、黄金町を健全な街にしようという地域の取り組みはわかるものの、どのような特徴を持つ街にしようとしているのか? ただ健全というだけでは人は集まらないし、活性化は図られない。そんな街づくりのヒントになりそうなのが、6月30日に文化芸術振興拠点として前出の「ステップワン」と同じ建物の中にオープンした「BankART桜荘」の存在だ。
(中略)
 「BankART桜荘」は横浜市文化芸術都市創造事業本部と中区役所による、店舗転用のモデル事業として「BankART1929」が運営するものだ。この建物の2階は、アーティストが滞在して創作活動を行う「アーティスト・イン・レジデンス」の場として活用されており(中略)
BankART1929の渡邉曜さんは「『桜荘』のテーマは、『建物の地域への開放』と『協働』。ここにアーティストが入居することによって、地域の人たちにアーティストの日常を知ってもらいたい。人と人との関係を大切にし、地域の人達と対話し協力して街を明るくして行きたい」と語る。
 街を「浄化」したら人が来なくなってしまい、そこで「アート」で「まちづくり」しようとする・・・そういえば、渋谷も似たような展開を辿った街といえるかも知れません。当ブログで追いかけている渋谷駅頭の東急デハ5001号の件でも、「若者とアーティストの交流」などと号して「渋谷芸術祭」なるイベントが開かれていたことを報じました。率直な印象では、渋谷のそれは効果を上げているように思われず、そもそも渋谷駅頭のそれはマック赤坂の踊りほども面白くはなかったのですが、黄金町がそれよりも効果的であれば幸いなことだと思います。ただ概して、お役所主導型の「アート」というものには、あまり多くを期待できない気がしております。
 無論、風俗街の方が良かったと単純に言うつもりも毛頭ありませんし、ではどうすればいいのかという具体的な案を小生が持ち合わせているわけではありません。ただ、その土地が今まで積み重ねてきたものをあんまりあっさり抹殺するのではない方が、何かを持ってきて植え付けるにしても、まだしも「接ぎ木」がうまくいくのではないかと、漠然と思います。

 思うに、「安全・安心」というのは、「まちづくり」のための手段であっても、目的ではないはずです。町に人が来る積極的理由は、「危険が排除されているから」ではなくて、「何か魅力があるから」です。魅力に比して危険が大きすぎれば人が来ないでしょうから、そのために「安全・安心」は必要です。しかし、「安全・安心」ということそれ自体だけで、人をよそから呼べるとは考えにくいことです。
 「安全・安心」といえば、小生が通り魔事件に遭遇して以来着目していた秋葉原でも、それを銘打ったパレードパトロールが行われていることはこれまで報じていた通りです。そして来年1月に、秋葉原の歩行者天国復活が今度こそ決定したようですが、復活に際してはあまりに過剰に「安全・安心」を求める余り、街の魅力を減殺してしまわないよう、慎重に対処していただきたいと思います。それと同時に、来街者もまた、過剰に自分の願望を街に押しつけるのではなく街とつきあってほしい、というのもこれまで書いてきた通りです。

 お、当初は調べ物中に拾った小ネタを紹介するだけのつもりが、気づけば話は明治に及び、当ブログの主要トピックであるデハ5001や秋葉原にも触れることが結果的に出来ました。いささか上品とは言いかねる話題ではありましたが、当ブログ記事1000件突破記念としては、まずまずうまくいったのではないかと自賛して、本記事を終わらせていただきます。
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by bokukoui | 2010-12-22 23:57 | 鉄道(その他)