日本の「計画停電」の歴史を振り返る~真の「無計画停電」とは

 昨日より行われている計画停電に関連して一筆。

 本日病院に行ったところ(何故通院しているかは近日中に書きます)、売店に並んでいた新聞各紙のうち、朝日・神奈川・日経・毎日・読売の各紙は皆1面の大部分を原発問題に割いていたものが、ひとり産経のみ首都圏の停電問題に宛てていました。しかもでかい見出して「無計画停電」とか書いてまして(ネットでは「運行休止に「無計画停電だ!」怒りの女子高生 JR千葉駅 通勤客ら高速バスに行列」とか)、この表現はいかがなものかと首を傾げました。
 で、時事的なことについて敏速に論じるのは小生の得手とするところではありませんが、最近電力の歴史について研究しておりまして、また東大の史料編纂所の所長を務められた保立道久先生が、今時の震災後ご自分のブログで「9世紀の地震史料」と題して地震の歴史について解説しておられるのにいささか感銘を受け、そこで今回の計画停電に関連して、計画停電の歴史についてちょっと書いておこうと思います。最近諸事情によりパソコンでものをろくすっぽ書けなかったので、リハビリということで。
 なお、資料は手元にある『関東の電気事業と東京電力 電気事業の創始から東京電力50年への軌跡』および『関西地方電気事業百年史』です。どちらも、もし前回の記事のように本棚が地震で倒れて頭の上に落ちてきた場合、生命に関わりそうなボリュームの本です。

 さて、小生がこんな記事を書こうと思ったのは、今回計画停電に関して「戦後初」(例えば「「東電は備え甘すぎる」…鉄道大混雑」)とか「戦後混乱期以後初」(例えば「東日本大震災:東電、「輪番停電」実施へ 戦後混乱期以来」)とか「東京電力発足以来初」(例えば「東京電力の計画停電が実施される地域と時間帯リスト」冒頭)などという表現(これら自体相互に矛盾しているともいえる)が各メディアで使われ、それが無批判に伝播している模様に見て取れ、それにちょっと違和感を覚えたからです。計画停電ってもっと後までやっていなかったっけ?
 1951年5月1日、戦時下の電力国家管理によって従来の電力会社を強制出資して設立された日本発送電および各地域の配電会社とが解体され、現在の9電力会社(沖縄復帰後は10電力)が成立しました。東京電力とか東北電力とか関西電力が誕生したのはこの日です。ところが設立早々、電力会社は深刻な電力不足に見舞われます。当時は朝鮮特需で電力需要が伸びる一方、主力だった水力発電が渇水で発電できず、火力用石炭の入手もままならず、需給調整を行わざるを得ませんでした。

 その模様を、『関東の電気事業と東京電力』から拾ってみましょう。
・・・1951年度には、夏に向かうにつれ需給が逼迫するようになった。需要面では、6月以降全需要家に対して1割の節電と昼間負荷の深夜移行を要請し、7月以降は週1日の休電日を実施する一方、供給面でも発電設備補修の繰り延べ、猪苗代系発電所の全出力運転、国鉄・進駐軍火力への委託発電などといった措置を講じた。・・・
 ・・・公益事業委員会は、1951年9月6日に本州全域における電熱器・製塩・ボイラ・広告灯類の使用禁止、電灯・業務用電力の昼間使用禁止小口・大口電力の週1回の休電日実施、500kw以上の大口需要家の使用電力制限・・・などを主な内容とする電力使用制限を告示した。この告示制限は、51年11月と翌52年2月に一部が緩和されたものの、3月後半まで続けられた。・・・
 ・・・53年に入ると1月には異常渇水が生じ、1月9日から本州全域で通商産業省告示による使用制限が発動され、さらに週2日の休電日や輪番緊急停電なども実施された。この告示制限は約2ヵ月間続き、3月2日に解除された。
 1951年度と52年度に危機的局面を迎えた電力需給の逼迫は、53~55年度には改善のきざしを見せた。53年度の場合は供給力がしだいに増加したこともあって、冬季に大口需要家の休日振替やピークカットなどの自主制限、および緊急時対策として一部の負荷遮断を行う程度で事態を乗り切ることが出来た。54年度には・・・年間最大電力が発生する冬季の点灯時間帯に大口需要家に負荷抑制を依頼する程度の制限にとどまった。また、55年度には8月後半と翌年3月半ばにごく短期間の負荷制限が要請されたものの、その内容は、大口工場に対する午後の負荷抑制、9時から12時までの15%負荷抑制、緊急時における一般・大口電力の緊急制限といった軽度の制限にすぎなかった。
(pp.726-727)
 長々と引用しましたが、引用文太字にしている(引用者強調)のが計画停電に類すると思われる使用制限です。今回の計画停電では「輪番停電」という言葉がしばしば登場しましたが、それ以外にも「休電日」を設けたり、緊急時に電気を止めたりといった方法も用いられた(寧ろその方が多かった)のでした。「緊急時における一般・大口電力の緊急制限」というのは、なんだか「馬から落ちて落馬した」みたいな表現ですが、冬の夕方のような需要のピーク時に、地域を決めて短時間送電停止をしたもので、今回の計画停電に一番近いものかもしれません。

 ちなみに、関東より深刻な関西の電力制限事情の中で、停電に至ったと見られるものを簡単にまとめてみますと(『関西地方電気事業百年史』p.616)、

・1951年度
5月~9月:大口に対し休電日振替、一般に対し昼間時間遮断(週3日)
9月~3月:大口に対し休電日(週2日)、一般に対し昼間時間遮断(週3日)
 ※9月~3月は自主制限ではなく電気需給調整規則第14条による告示制限

・1952年度
6月~12月:ストにより一般に対し昼間時間遮断
8月~1月:大口に対し休電日振替
 ※8月~1月は告示制限

・1953年度
10月~3月:大口に対し休電日振替、一般に対し昼間時間遮断(週1日)

・1954年度
2月:大口に対し休電日振替


 というわけで以上をまとめますと、

 ・計画停電は戦後初でも東京電力初でもなく、高度成長期初期までやっていた。

 ということになります。「戦後混乱期」という言葉は定義がよく分からず、ウィキペディアに項目がありますが何だか曖昧で練れていないですね。まあどっちにせよ、独立回復後も計画停電やっていたことは確かです。
 で、東電の関係者も「会社始まって以来」とかテレビで言っていたのを見た記憶がありますが、そうではありません。せいぜい半世紀ちょっと前のことで、まだ当時の記憶を持っておられる方も大勢おられるはずなのですが・・・然し東電の現役にはいないんでしょうね。計画停電のノウハウが継承されなかったのが、もしかすると「無計画停電」などと叩かれた一因なのでしょうか。
 今次の計画停電は停電そのものより、いつどこが停電するのか分かりにくい、ということで大きな不評を買っているもののようです。もっとも、「停電しません、大丈夫です」といっておいて停電されるより、「停電する予定です」だったのが「大丈夫でした」の方が何万倍もマシではあります。何せ急なことですから、最初のドタバタはある程度やむを得ず、最悪のドタバタであるシステムダウンして全滅、が避けられていることは評価すべきと思います。
 然しこの問題は多少の経験で改善されると思われます。寧ろ怖いのは今後で、需要家が「なあんだ計画停電といっても大したことないじゃん」と気が緩んだところで、システムの回復が追いついていないと・・・というのが最悪の想定でしょう。節電節電。

 また、個人的にちょっと気になったのが、今回の停電については当初メディアでは主に「輪番停電」と称していましたが、途中から「計画停電」に変わりました。菅総理が会見で「計画停電」といったあたりからではないかと思いますが、それを反映して、いかにも急ごしらえでウィキペディアに「輪番停電」の項目が設けられ、あとから「計画停電」に変えようという話になっています
 ざっと上掲2冊の書物の、戦後の電力逼迫状況の項を読んだ印象では、電力の逼迫に対し需要側を減らすことで対応すること全般を「電力使用制限」簡単には「電力制限」と呼び、その手段として軽いものとしては「節電のお願い」広告にはじまり、大口の工場の使用量抑制、更に強硬策として停電に至る休電日(「休電日振替」とは、工場の休日を日曜日に揃えず分散させて需要を均衡化することのよう)を設けたり、昼間の電灯への供給を止めたり、更に緊急策として輪番停電したり、という段階のようです。
 図式化するとこんな感じでしょうか。

  ◎電力使用制限
     ◇節電:不要不急なネオンなどの停止
     ◇使用量抑制:供給量を減らすが止めはしない
     ◇計画停電:電気を止める
       ・休電日
       ・時間制限
       ・輪番停電


 ま、小生も使用制限について勉強したことはないので、これが正しいというつもりは全くありませんが、ウィキペディア編集の方のご参考程度にはなるでしょう。

 さて、久しぶりに長文を書いて疲れたので、以下は前に読んだ文献からのうろ覚えのお話を。

 戦後復興期よりも更に前に、大規模な電力使用制限が行われた時期といえば、まず戦時中が挙げられます。
 「新体制」のかけ声と日中戦争の泥沼化の中で、1938年国家総動員法と共に第1次電力国家管理が決定されます。それにより1939年、大規模な発電を業務の中心とする日本発送電が設立されましたが、配電事業は従来の電力会社が行いました。日本発送電は従来の電力会社の大規模火力を強制出資させ、大規模水力を管理下に置きました(この辺ややこしいんですが詳細は面倒なので省略)。ところがその冬は大渇水、でも軍需生産で電力需要はうなぎ登り、石炭も軍需と取り合いで足りず、初手から電力供給制限となってしまいます。「豊富低廉」な電力を売りにしたはずの国管のこのざまに非難の声が上がりますが、それに対して当局はどうしたかというと――第2次電力国管で配電も地域ごとの特殊会社に統合し、民間・公営の電気事業者を消滅させるという更なる統制強化に出たのでした。

 とまあ、朝鮮戦争や日中戦争・太平洋戦争という戦時を背景に電力逼迫→供給制限で計画停電、というパターンが日本には存在しました。そしてこのパターンはもう1回ありました。それは第1次世界大戦の頃です。

 第1次大戦時は日本は戦場にならず、連合国への輸出をきっかけに大戦バブルという経済状況にありました。そしてこの大戦中、工場動力として電力が蒸気力を上回ることになります。
 ところが大戦バブルで電力需要が急に増えても、おいそれと発電所は増設できません。まして当時の日本は、重電機器を自給できず、しかし戦争中だからドイツから輸入は出来ないし英米は自国で手一杯。というわけで、大戦末から直後にかけて、重大な電力危機が生じました。それは特に、当時の日本製造業の中心で、水力発電の発達が遅れていた関西で深刻でした。関東は明治末から山梨や北関東・福島からの送電線があったのですが、関西はせいぜい琵琶湖くらいでした。
 当時関西の有力電力会社といえば、大阪で火力発電中心に電灯・電力とも供給している大阪電灯と、琵琶湖から流れ出す水で発電を行い、大阪電灯などに卸売りをするほか、大口の供給もやっていた宇治川電気が大きなところでした。この両者は協調関係にあり(のち対立に転じますが)、大阪電灯の電線を経由して、宇治電は大阪市内の工場に電気を送っていました。ところが電気が足りない。ではどうしたのでしょうか? 文献はこう述べています。
京阪地方の動力用電力は頻々と停電した。停電したのではない。今だから書いてもよいだろうが、宇治電で停電させたのである。前に一言した様に、宇治電は大阪電灯の架空線を借りて大阪市内に工場動力の供給をしていたが、戦後の工場動力の需要激増のため宇治電では電力が足りなくなった。だから送れない。そこで事故の如くに見せかけて毎日違った所を停電して歩く。架空線を貸している大阪電灯も驚いて其の度に宇治電の技術部にネジ込むが、終いには真相が判って宇治電、大阪電灯狎れ合いで停電ゴッコをする様なことになった。――当時の技術者の話だから与太ではない。大阪電灯でも大正八年の十一月頃には、夜間電力の送電を七十日に亘って停止した程だ。
三宅晴輝『電力コンツェルン読本』春秋社(1937)p.374
 引用に際しては新字体・新仮名遣いに改め、強調は引用者によります。ちなみにこの話は、確か宇治電の社長の回顧録にも載っていたと思います。その日の電力需要を見て、適当に開閉所のスイッチを切ってたんだと。・・・これは確かに、「無計画停電」と呼ぶに値しそうですね。

 さて一体、こんな昔話が何に役に立つのかとお叱りを受けそうですが、頭に血が上っているような時こそ冷静に経緯を振り返ってみる意義はありそうですし、そうすれば無闇と慌てなくても済みそうです。
 そして、気休めのこじつけと百も承知でまとめれば、第1次大戦頃にせよ朝鮮特需の頃にせよ、電気が多少止まったって経済は成長していました。まして日中戦争の頃のように戦争しているわけでもなく(自衛隊は戦時に準じた動員状況ですが)、多少の停電の恐れでびくつくことはない、ということで。
 ちなみに第1次大戦の電力不足は1920年代の旺盛な水力開発に繋がり、1950年代の電力不足は電源開発の創設→佐久間ダム建設、関西電力によるクロ四建設に繋がりました。ピンチの中に将来へのバネがある。東電関係者の奮起を期待します。・・・ただ、木川田一隆太田垣士郎だったら、自ら福島第一に駆けつけて作業員を叱咤激励しただろうなと思うと、もうちょっと何とかしてほしいとは思いますが。

※一応続きに当たる記事はこちら→電気代と市場経済~計画停電の歴史・続篇
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by bokukoui | 2011-03-15 23:00 | 歴史雑談 | Trackback(1) | Comments(3)

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Tracked from 障害報告@webry at 2011-03-16 10:06
タイトル : ここは酷い無計画節電ですね
京王は土日ダイヤという、なかなかの頓知の効いたことをする 調布駅の駅前はまさに休日のような人出であった とりあえず数本見送って8両の各停にした。これはちょっと疑問な措置ではあるが 全部10連とするには出庫の都合もあって無理なのだろう やはり横浜線と小田急があれなので相模原線方向からのほうが大混雑である 一応、土日ダイヤでも朝は本数が多いから調布~つつじヶ丘は普通に流れていた しかし仙川あたりからホームの客の数が増えてくる そして千歳烏山は前をいく優等列車がさらってくれたので混...... more
Commented by 大名死亡 at 2011-03-16 23:17 x
 電鉄研究者ということは電燈事業研究者なんだから何か書いてないかな、とのぞきに来たら期待通りのものが。
 やっぱそうですよね、東京電力史上初なんてわけがないだろうと思ってました。
Commented by bokukoui at 2011-03-17 23:45
ご期待に叶いましたら光栄です。何より電鉄史研究≒電灯事業研究ということを判って戴けることが喜ばしくてなりません。鉄オタでも忘れがちな視点でして。
ちなみに戦前の電気事業法は、第1条の「電気事業」の定義で、

1:電気を一般需要家に供給する事業(自家発は含まない)
2:電気で鉄道や軌道を運転する事業

としており、電力会社と電鉄会社は法制上一緒にされていました。
Commented by みぃにゃん at 2011-03-21 15:39 x
少し前、揚水発電所と、ダムの事を、Blog用に調査中は、戦中戦後の電力不足の事は幾らでも、検索されましたが、
東京電力さんの計画停電があってからは、その関係が多量に検索されて、こちらの記事は、貴重。
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