半世紀前の国鉄官舎(宿舎)の間取図~『秋田鉄道管理局史』より

 連休とはあまり関係なく、所用に追われたりして更新が滞っておりますが、天候が今ひとつの今年の連休、皆様如何お過ごしでしょうか。
 さて、小生は元々地図を見るのが好きで、それと関係あるのかどうか、間取図を見るのも結構好きです。同様の趣味の方は結構おられるようですし、また資料としても間取図から歴史的・社会的・地理的な諸状況を読み取るということは結構有効な手法だろうと思います。で、当ブログでは以前にも「戦前の夢のマイホーム? 平尾善保『最新 住宅読本』(1938)を見る」と題しまして、昔の住宅解説本を紹介しましたが、それに類似した企画をば。
 今日のお題は、先日所用で図書館から借りだした『秋田鉄道管理局史』(1961)に収められていた、半世紀前の国鉄の官舎(厳密には国鉄は「官」でないということか、管理局史では「宿舎」となっています)の間取図です。時代柄、戦前に建てられたとおぼしき木造平屋の家があれば、当時最新鋭の公団住宅のような鉄筋コンクリートのアパート形式のもあり、まさに日本の建築が大きく移り変わる時代だったのだなあと思わされます。団地は最近注目されることが多く、「団地マニア」な方々が相当調べまくっておられるようで、もしかすると国鉄の団地仕様宿舎についても何か先行研究があるのかも知れません。そういうところで紹介されていたネタだったらあれですが、まあお気軽に眺めて楽しんでみましょう。




 『秋田鉄道管理局史』では、1961年当時の国鉄の宿舎について、「従来の宿舎は99%まで木造平屋建であつたが、衛生的見地からも、美観の点からも、又保守上の観点からも、これらが漸次コンクリートブロック造、あるいは鉄筋コンクリート造等の、永久構造に変わりつつあることは当然といわねばならない」(p.375)とあり、当時、秋田局だったら木材も貨物として多かったんじゃないかと思いますが、やはり時代は変わるところだったんですね。そして、建物の配置については、「中間駅等の小集団は別として、大集団の宿舎群においては、少くとも1棟10戸前後の整然と配列された2階建の集団アパートにかわりつつある。ごく最近では、この2階建のアパートが、四階建と変わりつつあることも注目しなければならない」(同上)とあり、変化は急激に進んでいたようです。

 それでは間取図を見てみましょう。『秋田鉄道管理局史』には、建物の写真と間取図が共に収められているので、それぞれ掲載します。なお、毎度のことですが、スキャナがお亡くなりになっているのでデジカメで撮っておりますため、多少お見苦しいところはご容赦下さい。
 まずは、おそらくは戦前建築と思われる、木造平屋建の面々です。
f0030574_21182610.jpg
「1号型」宿舎の間取図

f0030574_21204919.jpg
「1号型」宿舎の外見

f0030574_21231546.jpg
「2号型」宿舎の間取図

f0030574_212524100.jpg
「2号型」宿舎の外見

f0030574_2128582.jpg
「3号型」宿舎の間取図

f0030574_21295919.jpg
「3号型」宿舎の外見

f0030574_21365264.jpg
「1号型」「2号型」「3号型」の比較

 どれも昔の木造家屋ですね。台所や浴室の煙突、便所の臭気抜きなどが如何にも時代がかっています。
 そしてこの3種類が、添付の表によれば鉄道職員の身分と密接に関連しているようです。部屋が二つで浴室がないのは雇員・傭員で、部屋が3つに増えて浴室が付くと判任官、4つに増えると高等官の下(奏任官)になるわけですね。大雑把に現在の感覚に直せば、雇員傭員はパートなどに近く、判任官が2種、高等官が1種公務員・・・というのはあまりに大雑把ですが、まあそんなところかと。身分の差が歴然と住む家にも現れているわけですが、考えようによってはそう天と地ほどは隔絶した身分差でもない(国鉄一家的?)とも考えられるかも知れません。また、3号型の中途半端な3畳間は、もしかしたら時代柄女中部屋なのかも知れません? 中廊下ではっきり区分されているのもそんな感じがします。

 さて、『秋田鉄道管理局史』の次のページにも、同じような木造平屋建て官舎の写真と間取図が載っています。引き続き挙げてみましょう。
f0030574_21531130.jpg
「丙号一級」宿舎の間取図

f0030574_21545019.jpg
「丙号一級」宿舎の外見

f0030574_21592546.jpg
「丙号二級」宿舎の間取図

f0030574_2211980.jpg
「丙号二級」宿舎の外見

f0030574_225358.jpg
「乙号二級」宿舎の間取図

f0030574_227664.jpg
「乙号二級」宿舎の外見

 以上三種の「丙号」「乙号」については、どのような規格なのか残念ながら『秋田鉄道管理局史』には記述がないのですが、先の「1号型」~「3号型」に大体対応する規格でしょうか。「1号型」以下の間取図がきっちり1,000ミリ単位だったのと比べると、こちらの「乙号」「丙号」は端数があり、尺貫法の影響を伺わせます。また、「1号型」と「丙号一級」、「2号型」と「丙号二級」、「3号型」と「乙号二級」とを比べると、前者の方が少しづつ広くなっています。また「3号型」と「乙号二級」を比べると中廊下型の前者の方が、“近代的”な間取りのように思えます。以上を踏まえて想像すると、「1号型」~「3号型」が「乙号」「丙号」より新しい規格のように思われます。詳しい方のご教示をお待ちしたいところですが、案外『日本国有鉄道百年史』に載ってたりするかも。

 それでは戦後、日本国有鉄道となってからの、アパート式のを見てみましょう。
f0030574_22373183.jpg
「昭和25年度の宿舎アパート」の間取図

f0030574_22401199.jpg
「昭和25年度の宿舎アパート」の外見

f0030574_22475085.jpg
「昭和30年度の宿舎アパート」の間取図

f0030574_22482913.jpg
「昭和30年度の宿舎アパート」の外見

f0030574_2256344.jpg
「昭和31年度より現在まで」の宿舎の間取図

f0030574_22585649.jpg
「昭和31年度より現在まで」の宿舎の外見

f0030574_235850.jpg
「昭和32年度より現在の宿舎」の間取図

f0030574_2365894.jpg
「昭和32年度より現在の宿舎」の外見

 以上が日本国有鉄道になってからの宿舎です。10年にも足らぬ間にいろいろ変化しています。「リビング」の概念が登場しているのも戦後ですし、また浴場がアパートでも付いています。昭和25年でしたら、アパートの中でも鉄筋で浴場付きだったら、結構上等の部類だったのではないでしょうか。昭和32年になると2階建てで「食卓」が台所に附属した、2階建てで2LDK?な間取りも登場しています。
 もっとも平屋の一軒家も存続しているようで、外見はモルタルでも塗っているのか結構「近代的」になっており、間取りもコンパクトにまとまっています。これが戦前のどの等級に対応するのかはよく分かりませんが・・・「2号型」だとすると少し狭くなっているようでもあります。その辺もまた戦後の状況を反映したものなのでしょう。
 本文では「生活の近代化は、この宿舎の平面的な様相をを大巾に変えつつある。おおむね限られた面積を機能的、経済的に利用しようとする姿が見られる。/一例を台所と居間の関係にとると、従来別個に分離された姿が多かつたが、これが居間と台所を同じ室内とするリビングキッチンの形式となつてきている。又、便所、浴場等も限定された面積を有効に利用している。この傾向は、最近のアパート化によりますます多くなるであろうし、又そのように努力もしているわけである」(p.375)と述べ、やはり職員の居住環境を改善するといっても、単純に広くするのではなく、「有効な利用」を心がけているもののようです。

 さて、小生は実はさほど住宅の歴史に詳しいわけではないので、以上の間取図からいきなり何かを読み取れるわけでもないですが、戦前の典型的なサラリーマンの居住空間がどうであったか、給料や職階による差がどのようなものであったかについて、多少の示唆は与えてくれそうです。何せ鉄道省→国鉄というのは、いわば超大企業というわけですから。
 また戦後については、公団住宅におそらくは先駆けて、独自にこんなアパートを作っていたわけで、職員がものすごく多い上に自分で大概の建築物は設計できてしまう、国鉄という組織ならではの特徴が伺えそうです。小耳に挟んだ話ですが、やはり巨大事業体で技術者も多い電電公社なんかも、公団とは別に独自の団地をこしらえていたそうで、その辺事業者ごとの比較なんかも面白そうですね。確か今話題の東電なんかも、やはり公団に比肩するような社宅をこしらえていたんでしたっけ。これら巨大事業者の官舎・社宅は、公団住宅や民間の住宅開発に、なにがしか系譜上関係があるのでしょうか、詳しい方に是非ご教示いただきたいところです。
 これも以前に聞いた話ですが、例えば国鉄は蛍光灯なんかも民間よりずっと早く採用し、そのため電器業界に「国鉄向け蛍光灯」なんて規格もあったのだそうです。そうやっていわば社会の先端を行っていたのが国鉄だったのですが、日本全体が発展してくると、民需用の蛍光灯が普及し、独自規格の国鉄がかえって不経済で遅れたものになってしまった、確かそんな話があったそうです。聞いた話なので確かめてませんが、ただ国鉄や軍→自衛隊のような巨大官庁セクターは、最初は社会を引っ張る専心集団であったのが、民間が発展するとある日後進部門になってしまう、ということがままあるようです。これは自衛隊の車両部門に在籍しておられた、「無名」さんが以前述懐しておられたところですが、住宅に関してもそんなところがあるのかも知れません。

 さて、本記事は当初「半世紀前の国鉄官舎・駅舎の間取図~『秋田鉄道管理局史』より」と題して、引き続き新庄と大曲の駅舎の平面図も紹介する予定でしたが、既に充分記事が長くなっておりますので、少し表題を改めて宿舎関係に絞り、駅舎はまた機会を改めてご紹介することとします。ご諒解下さい。

※追記:新庄と大曲の駅舎の図面を紹介した記事はこちら
[PR]

by bokukoui | 2011-05-07 23:35 | 鉄道(歴史方面) | Trackback(1) | Comments(6)

トラックバックURL : http://bokukoui.exblog.jp/tb/15933202
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Tracked from 障害報告@webry at 2011-05-08 03:01
タイトル : ここは酷い新駅の設置促進ですね
asahi.com:鉄道整備 採算に壁/合併の先に-マイタウン埼玉 http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001105070003 新駅の話はこれか http://www.city.saitama.jp/www/contents/1049099592015/html/common/other/46b32ae4065.pdf JR武蔵野線  南浦和駅 - 東浦和駅間 JR川越線   大宮駅  - 日進駅間 JR川越線...... more
Commented by enma at 2011-05-08 16:41 x
25n年間の鉄道病院生活のうち、5年を横浜でこの図の1号宿舎で暮らしました。トイレや物置の位置が違うことと、物置が湯殿になっていました。戦後焼け跡に5年もてばいいというコンセプトで建てた2軒長屋に昭和35年から住みましたが、夜は天井から星空が見え、台風のときは5歳だった長女を乗せた畳が浮き上がるなど、いろんなことがありました。札幌では鉄筋コンクリートの4階でスチーム暖房でしたので、横浜へ行ったときは火鉢だけで、長女が横浜って寒いところだねえ、と言った位風通しのいい家でした。札幌へ帰ってからはアパートがあたり、冬も暖かく過ごしました。
Commented by bokukoui at 2011-05-09 22:17
どうも、こちらの方面でもコメントありがとうございます。
鉄道に縁のある方とは・・・今後とも是非色々ご教示下さい。

戦後になると、後付けで風呂をつけるようになるのですね。それにしても、星空の見える長屋とは・・・5年持てばいいはずが、一度建てられるとそう簡単に建て替えられなかったんですね。
同じ鉄道関係でも、二軒長屋と鉄筋コンクリートが同時代に併存するところがまさに戦後ですが、高度成長期には住宅対策が後手後手に回って問題となっていた印象があります。
Commented by YK at 2011-05-10 22:43 x
はじめまして、3タイプの団地を引っ越しつつ育ったものです。最初のものはアメリカ占領期直後くらいに立てられたと言うボロいもので、あまりに似ているので懐かしさでいっぱいです。貴重な資料をありがとうございます。
Commented by pointscale at 2011-05-11 05:49 x
叔父が南浦和でコンクリート2階建て造りの官舎に入っていた70年代前半に何度か訪れたことがあり、懐かしいです。それにしても、この時代の「局史」というのは、資料性がすごいですね。私も高崎局のものは読みましたが、管理局にまつわる全般について「科学しよう」という意思がみなぎっていて、後世の検討に耐えます。最近の「物語」になってしまっている社史には、その態度が失われてしまっているようにも思えます。
Commented by bokukoui at 2011-05-11 22:19
>YK 様
コメントありがとうございます。
占領期直後といえばまさにこの当たりのアパートですね。楽しんでいただけましたら幸いです。その後の時代に合わせ、改造などされて使われていたのでしょうか。
Commented by bokukoui at 2011-05-11 22:20
>pointscale 様
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
70年代前半でしたらまだまだこの辺のアパートも現役ばりばりといった時代ですね。

この時代の局史はいくつか目を通しましたが、確かに網羅性は高いと思われます。ただ、構成が如何にもお役所的というか、部門別縦割りの章立てなので、個々の章は詳しくても、ある時代の局の全体像というのは読み取りにくいという問題点もあります。
実はこれ、地方史にも類似の傾向があるように思われまして、昔の何とか市町村史は、役場の部署毎に縦割りのような類似した構成を取っていることが多いのです。その辺、歴史叙述のやり方自体に歴史があって、興味深く思うのです。
最近のは、物語や宣伝パンフになってしまっているのも無くはないですが、細部の羅列以上のものを目指しているものもあります。最近手に入れた京阪の百年史はなかなか意欲的な構成で、近日中に紹介記事を挙げたく思っております。
名前
URL
削除用パスワード