京成バス「松戸車庫」バス停の「松戸営業所」への改称 及び余談

 いろいろブログのネタは溜まっているのですが、このところ午前中は身動きできない不調の有様で、なかなか思うに任せません。それでも論文も区切りがついたし、月も改まったので、新たな気分でやっていこうと思います。
 というわけで、月の初めに小ネタですが更新を。鉄道系の当ブログとしては珍しいバスネタです。
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「松戸車庫」行きのバス バス停の行き先表示は既に「松戸営業所」
松戸駅前バス停にて(2011.10.29.撮影)
(この写真はクリックすると拡大表示します)





 先日所用で千葉方面に出掛け、その時ちょっと見物したいスポットが市川方面にあり(この件は別記事を予定)、そこから次の場所へ行くのにバスに乗りました。京成バスの市川線といって、市川~松戸間を結んでいるものです。運行本数が非常に多く、5分おきくらいに走っていて、このあたりの利用は結構多いようです。ちなみに走っている道路も相当区間が千葉県の県道1号線で、これも市川松戸線というようです。県道のトップナンバーが県庁所在地を通っていないというのがちょっと面白く感じられましたが、道路業界では一般的なことなのか、詳しい方のご教示を乞う次第です。
 そんなわけで、市川付近からバスに乗って松戸駅まで行ったのですが、バス自体はその先の「松戸車庫」まで行くようでした。時刻表を見ると、この系統には駅で折り返すものと車庫まで行くものと両方あるようでした。ところがバス停や車内の掲示に、「11月1日からバス停の『松戸車庫』は『松戸営業所』に改称します」という趣旨の掲示がされており、今日から多分、バスの行き先表示も変わったのだろうと思います。
 上に挙げた写真は下車時に撮影したものですが、バス停の系統案内は早手回しに「松戸営業所」に変えられている一方、バスの行き先表示は「松戸車庫」のままという、移行期ならではの様相を呈していました。ちょっと検索してみると、Wikipedia に「京成バス松戸営業所」の項目があり、バス会社の施設としては以前から(いつからかは分かりませんが)名称は「松戸営業所」だったようです。ちなみに現在の閲覧時点ではまだ Wikipedia は、「最寄停留所は・・・の「松戸車庫」である」のままですね。

 それだけなのも芸がないのでちょっと豆知識を付け加えておくことにします。
 Wikipedia によれば、松戸営業所は1935年に開設されているそうで、京成のバス事業が結構歴史あるものであることを伺わせます。京成のバス事業が始まったのは、まだ社名が京成電気軌道だった1930年5月のことで、この時千葉県内のバス会社3社を買収して京成乗合自動車を設立しました。佐藤信之『房総の乗合自動車』崙書房によると、直営としなかったのは、当時の千葉県が未だ市街化が進んでいなかったためだそうです。今は電鉄のバス部門は分社化がごく当たり前(それもバス会社自体が幾つにも分割される例が多く、京成も同様のようです)ですが、戦前はむしろ直営が普通でした。ちなみに当時は百貨店も直営が普通で、別会社としたのは呉服店系百貨店と組んだ京浜や、経営再建中の切り札として百貨店進出を図ったけど金がないから外部出資を図った京阪・大阪鉄道のような、一部に限られました。
 話を戻して、しかし京成のバス事業は順調に発展、1934年3月京成乗合は京成本体に吸収されました。1937年7月には東京市内の墨田乗合自動車を買収し、さらには東京市内の代表的バス会社だった東京乗合自動車の買収も一時は計画されたといいます。こうして京成のバス事業は発展し、会社全体の利益の1割を稼ぐ部門に成長します(これだけ買収してもまだ1割、とも言えますが)。このバス事業を進めたのは、以前当ブログでもその没後のゴタゴタを取り上げた第2代京成社長・後藤国彦でした。後藤は当時の経済雑誌の座談会で、自動車事業の重要性をけっこう強調していますし、五島慶太に乗っ取られた池上電鉄でもバス事業を積極的に行っていました。決して池上は「事業といえば洗足池にボートを浮かべる程度であった」のではありません。

 ところがそんなバス事業に暗雲が立ちこめます。1937年7月、日中戦争が勃発し、たちまちガソリンの消費は強く統制されます。そんなわけで1938年頃の京成では、いかにも千葉らしい話ですが、天然ガスでバスを走らせる研究をしていたそうです。木炭車は有名ですが天然ガスというのも考えられていたんですね。もっとも研究していたということは当時の営業報告書に見えるのですが、その後のことはよく分かりません。
 なお、ガソリン統制の関係から、当時零細事業者が乱立して社会問題となっていたタクシー業界も統制されることになりますが、その際京成も帝都自動車という会社を作ってその一角を狙いました。そして日東自動車という会社を傘下に収めようとするのですが、経営者の川鍋秋蔵が抵抗して遂に独立を守り、その間後藤といろいろと揉めたようです。その一端は後藤没後の話のネタ本である元逓信次官で日本曹達社長・京成重役の大和田悌二の日記に見えていますが、それを詳しく紹介するのは大変ですし小生も自動車事業にはあまり詳しくないので、またの機会とさせていただきます。
 ただこれも川鍋のバックに五島慶太がいたらしく、後藤国彦は池上以降何度も五島慶太に煮え湯を飲まされたことになります。ついでにもう一つ後藤・五島ネタを挙げれば、後藤国彦は鉄道車輌製造にも進出して大阪の梅鉢鉄工所を傘下に収め、帝国車輌と改称しました。しかしこれは後藤没後京成の手を離れ、有為変転を経て、五島の設立した東急車輌に吸収されてしまいました。もっともこの東急車輌もこの度、JR東日本の傘下に入ることとなったそうですが・・・。

 ふと見かけたバスのことから話が例によってとっちらかりましたが、とりあえずこの辺で。
 電気事業の歴史の様々なトピックや、鉄道関係の話題、紹介したい様々な書物、城郭見学記、それに鍋焼うどんはじめ飲食関係など、下手をすれば昨年から寝かせている書きたい話はいくらでもあり、幾らかなりとも実現していくようにしていきたいと思いますので、何卒ご愛顧の程お願いします。
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by bokukoui | 2011-11-01 23:09 | 出来事 | Trackback(1) | Comments(0)

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Tracked from 障害報告@webry at 2011-11-14 01:15
タイトル : ここは酷いスペーストタン板ですね
ガンダムsage、コロニーの中でスラムって設定は ZとかZZでもあったような気がするんだがな なんかトタン板とドラム缶の住居ってどういうことよw 宇宙世紀にもなってからスペースコロニーの中に そんな20世紀な資材が潤沢に持ち込まれているってw そもそも資源の需給が本来はタイトであるはずだし 内殻と外殻の間に違法居住者が住み着くって言うのは もしそのスラム街で火災や爆発なんかはあったら 内殻の住人にも被害があるってことでもあるので そんだとスラムの住人もちゃんと管理したほう...... more
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