総括原価方式の誕生(2) 逓信官僚・平沢要の電気行政構想

 本記事は「日本の電気料金の歴史 総括原価方式の誕生(1) 」の続篇です。
 (1)では、日本の電気料金に総括原価方式がどのような経緯で導入されたかを概観し、それが区域独占と同時に、公益規制と事業者のインセンティヴを両立させる一環としての施策であったことを指摘しました。今回は、このような電気行政のシステムを構想したのが誰であったか、ということについて小生の見解を述べてみたいと思います。




◆逓信省主導の総括原価方式導入

 「総括原価方式の誕生(1) 」の記事でもちょっと触れましたが、現在のネット上の輿論を見る感じでは、原発や既存電力会社批判の文脈から総括原価方式が話の種にされ、原発を推進し電力会社が必ず儲けさせるシステムであるように受け取られているきらいがあります(統計的に示せというと難しいですが)。
 となると、なんだか電力会社が自分たちの利益のために総括原価方式を考え出したように思われてしまいそうですが、(1)で示したような経緯からすれば、1930年代にこのシステム(の原型)を電気料金の基準に導入したのは、主に電気事業の監督官庁であった逓信省によるものといえます。

 前回の記事で述べたように、総括原価方式導入の前提として、1931年に改正された電気事業法(以後改正電気事業法と略)で、それまで届出制だった電気料金が認可制に改められました。この認可制料金の導入に際しては、電気事業者からもその導入を訴える声がありました。
 一見、自由に料金を決めやすい届出制の方が事業者にとって有利に見えますが、これは以前の記事にも書いたように、1920年代後半から30年代前半に盛り上がった電灯料値下げ運動への対応策という面がありました。不当な利益をむさぼっているのではないか? と需要家に詰め寄られた際に、当局の公認した料金だから、と料金の正当性に根拠が得られるからです。

 既に(1)で述べたように、認可制となった料金を決める基準として、総括原価方式が導入されたわけですが、それが公式に決定されたのは、逓信省による原案を電気委員会が承認する、というプロセスを経てのことでした。
 ではこのプロセスに、電気事業者が総括原価方式を導入するよう何か運動をした、という話は、小生の管見の範囲では(とは漏れが多そうですが・・・)見いだせません。また逆に、電気事業者が総括原価方式導入に反対したという話も見つけておりません。(1)で使った、電気行政の諮問機関である電気委員会の議事録を検討すると、電力連盟(戦前の五大電力による自主統制のためのカルテル組織)から電気委員会に意見書を提出していることが分かりますが、その内容は総括原価方式を前提とした上での、資産評価や償却、利潤率などの技術的問題についての要望にとどまっているようです。(逓信省電気局編『電気委員会(第四回)議事録』1933年)
 同じく電気委員会の議事録を検討すると、逓信省当局の認識では、1933年当時の電気料金は不況下の激しい競争を経た結果既に下がりきっており、区域独占を原則とすることでこれ以上の過剰な競争や投資を避けることで、この料金を維持させることを考えていたと読み取れます。(逓信省電気局編『電気委員会(第三回)議事録』1933年)
 基本的には現状を容認し、料金認可基準は総括原価方式を導入しつつも、電灯料値下げ運動の余燼冷めやらぬ世論の一部が期待するような電気料金値下げを政策的に行う訳ではなく、現状を大きく変化させない、事業者の利害も考慮した制度が構想されていたといえます。であれば、事業者としても受け入れることを拒むものではないでしょう。(第三回と第四回の議事録参照)



◆区域独占と料金認可制(総括原価方式による)の構想者・平沢要

 さて、それでは逓信省の中で、このような区域独占と料金認可制(総括原価方式)の導入を構想し、実行に移した人物は誰なのでしょうか。
 小生が調べたところでは、それは逓信官僚の平沢要(1891~1957)です。
 平沢は1891年長野県に生まれ、1917年東京帝大を卒業して逓信省に入り、1920年以降電気局の業務に一貫して従事していました。1927年に電気局監理課長、1929年には同局業務課長と、電気局内部でキャリアを積んだ後、1933年大臣官房文書課長となっていったん電気行政から離れますが、官房は当時出世コースの一つとされていました。1934年には広島逓信局長となっていったん地方に出ますが、1936年中央に戻って電務局長となります。しかし電務局長とは、電気ではなく電信の担当であって、ここで彼が以前のキャリアからすれば当然の筈の電気局長になれなかったことが、重大な政策の転換を示唆しています。
 平沢はその後1937年5月逓信次官へ昇りましたが、1938年1月には早くも退官してしまいます。その後は中支那振興株式会社副総裁や、電力国家管理後に関東配電社長を務めましたが、戦後は公職追放にあったらしくあまり活躍はしなかったようです。

 平沢という官僚は、同時代に出された本の中で「電力行政のエキスパート」(吉田啓『電力管理案の側面史』交通経済社、1938年、95頁)と評され、電気事業法の1931年の改正の中心人物であったと認められています。実際、1920年から33年まで、長きに亘り電気行政を担当して、電気局の各課長も歴任するというキャリアも積んでいますし、先に挙げた電気委員会でも幹事として委員への説明に当たっています。
 ちなみに電気委員会の議事録を見直すと、面白いことが分かります。同委員会は逓信大臣を会長に、各省の次官に財界学界の有識者が委員となっています(逓信次官・逓信政務次官も委員です)。一方、幹事としては清水順治電気局長以下、逓信省電気局の高等官が幹事として、逓信省が諮問した原案の説明に当たっています。で、この説明を誰が主にしているか確かめると、第5回までの委員会では、清水局長と当時業務課長だった平沢の二人です。ところが第6回委員会になると、平沢は大臣官房に転出してしまったので、それ以降の逓信省の答弁はほぼ、清水電気局長が一人で行っています。
 考えてみれば、このようなお偉いさんを集めた諮問会議の場で、局長を差し置いて課長が説明するというのも妙な話です。清水電気局長は、電気事業法改正後に貯金局長から横滑りしてきたので、おそらく電気行政に充分慣れておらず、平沢が代わりに説明する必要があったのではないか、と小生は推測しています。

 平沢が改正電気事業法による体制を代表する存在であったことを伺わせる史料は他にもあります。第1次電力国家管理の立役者となった逓信官僚・大和田悌二は日記を残しており、当ブログでも以前、退官後京成の取締役となっていた大和田の日記を使って京成の第3代社長決定までのドタバタを紹介したことがありましたが、大和田は1936年逓信省の電気局長に就任しています。この時、平沢は電務局長になってしまい、長年のキャリアと実績を誇る電気局のトップにはなれなかったのです。一方の大和田は、長年海運監督に従事していて、電気行政にはあまり関係がありませんでした。
 何故、エキスパートでなく素人が電気局長になったのでしょうか。それは、(1)の最初の年表をもう一度見て戴けると推察されようと思うのですが、それは1936年頃には既に、1938年に国会を通過する電力国家管理への動きが始まっており、国家管理を進める勢力(いわゆる革新派)からすれば、平沢は革新によって排除される守旧派とみなされたのです。
 この1936年3月、つまり2.26事件後成立の広田弘毅内閣で逓相となった頼母木桂吉は、かねてから電力国営を持論としており、そのため富安謙治逓信次官から提案された平沢電気局長案を「革新政策をやるには余り物を知り過ぎると却って不都合な事がある」と却下したといいます(吉田、前掲書、224頁)。そして代わりに、革新派と見られた大和田を電気局長とし、革新政策=電力国家管理を進めさせようとするのですが、その人事異動の際の1936年3月18日付日記に、大和田はこう書いています。
富安次官の大和田評価。大臣曰く、富安次官に大和田電気局長案を述べし所、大蔵省、議会、省内事務全般の統括者として、彼を措いて経理の適任者無しとて、電気には平沢を推せり、如何にすべきやとのこと。
余、次官の言は過分なり、現在の経理は特別会計後簡単なる故一身の安易は望めるも、余としては一身を捨てて国策に当るを本懐とす、唯内閣交代と同時に消滅する如き国策は御免蒙り度きも、根を残すものとせば取組み度し、平沢イズム打破が改新政策と考ゆる自分としては平沢の電気局長は逆行にて断然不可なりと述べ、
〔後略〕
 引用に際しては漢字を新字体に改め、原文の傍点を太字に修正しています。傍線はそのままで、色が赤の部分は引用者による強調です。
 で、この日記は、この年1月に経理局長になったばかりの大和田を、電力国家管理推進のためにわざわざ電気局長に転じさせようとする頼母木大臣と、電気局長に平沢を推す富安次官(同時に経理局長は重要ポストなので大和田をそのまま据えたいとしている。富安も経理局長から次官にのぼった)との議論を伝えています。その際、大和田は革新的な国策(改新政策)として電力国家管理にあたることを希望し、いわば従来路線の継続となる平沢の電気局長に強く反対しています。特に「平沢イズム」という言葉が興味深く、この時点の1931年改正電気事業法に基づく電気行政体制が平沢によるものだということは、関係者の間では周知の事実であったことが伺われます。

 さて、電務局長に飛ばされた平沢は、この後次官に返り咲き、電気局長の大和田はじめ革新派と、電力国家管理を巡って逓信省を二分する派閥抗争を展開し、敗れて平沢は去っていくのですが、国家管理の話は本題から外れるのでひとまず措き、ではこれだけ革新官僚に嫌われた、平沢要の電気行政観、「平沢イズム」とは、どのようなものだったのでしょうか。



◆平沢要の電気行政観 『電気事業経済講話』より

 平沢要という人は、あまり多くを後世に語り残していないようですし、自伝や伝記などもないようです。例えば同時代には、平沢の反対派であった革新派官僚、有名どころでは奥村喜和男などは、よく雑誌などに持論を発表していますし、大和田も同様でした。また大和田の配下で電力国家管理に働いた官僚のうち、藤井崇治には伝記、有田喜一には自伝があるのですが、平沢には何もないようですし、平沢に近いとされる人のも乏しいようです。
 余談ですが、国策研究会で革新派とつながりがあった、矢次一夫の『昭和動乱私史』にちょこっと平沢について、「暗い人だった」みたいな人物評とともに「帝銀事件の平沢貞通と親戚」ということが書かれていました。もっとも矢次は「帝銀事件」と書くべきところを「帝人事件」と書き間違えていたので、眉唾かと思いましたが、どうも平沢貞通と親戚であることは確かなようです。

 そんな平沢が残した、もっともまとまった本人の手になるものは、1927年4月に発行された著書『電気事業経済講話』上下巻(電気新報社発行、オーム社売捌)であろうかと思います。ちなみに小生、本書も古書で探しておりますが、いまだに見つかっておりません。上下巻で一万円以下なら買いたいと思っておりますので発見されました方は是非ご一報下さい。追記:その後、古書店で発見して入手しました。
 それはともかく、本書はタイトルの通り、電気事業の経済的な様々な要素について、日本の既往や世界の様々な実例・理論を紹介しているものです。本書の発行時期は電気事業法改正が緒に就いた頃といえますが、その時期に平沢がこのような書物をものしたということは、電気事業についてこういった知識の集積が求められていた、ということでしょう。そして時期からすれば、改正されるべき電気事業法についてどうするか、という当局者としての考えも、反映されていると見るべきでしょう。もっとも平沢は、この著作の中で声高に「電気事業や電気行政はこうあるべきである」という姿を主張することはしていません。その叙述の特徴については、以下で追々見ていきます。
 本書の構成を大雑把に示すと、以下の通りです。なお第一章~第三章が上巻で、第四章・第五章が下巻です。

 ・第一章  概念
   第一節 電気事業の意義
   第二節 電気事業の性質
   第三節 電気事業の種別
   第四節 電気の利用
   第五節 電気事業の発達

 ・第二章  組織
   第一節 供給組織
   第二節 水利権
   第三節 供電組織
   第四節 企業形態

 ・第三章  原価
   第一節 原価の決定
   第二節 事業財産の評価
   第三節 減価銷却
   第四節 営業費
   第五節 公正なる利得

 ・第四章  負荷
   第一節 負荷の観念
   第二節 負荷特性
   第三節 需要増加
   第四節 負荷総合

 ・第五章  料金
   第一節 電気の価値
   第二節 料金制限の基準
   第三節 原価と負荷との関係
   第四節 料金制
   第五節 料金の等差その他の供給条件
   第六節 料金の帰趨


 とまあ、まことに実学的といいますか、手引というか教科書的であって、電気事業の経済的側面の様々な要因が解説されている本で、著者の主張を示すというより、電気事業のこういった面について知りたいんだけど? という時に繙く本といえます。ですので要約して内容を紹介するというのがなかなか困難でもあります。
 そこを何とか、1931年改正電気事業法の特徴につながりそうな面について重点的に、内容を紹介していきたいと思います。なお引用にあたっては、漢字を新字体に修正しています。

◇平沢の電気事業論:営業区域独占について
 改正電気事業法の特徴の一つは、電気事業の営業区域の独占が原則として確立されたことにあります。この時点では、大工場が立地したので既存の電気事業者では充分電気を供給できないような場合、特定供給と称して別の電力会社が電気を供給できる重複供給の制度が残されましたが、基本的にはこの時確立された区域独占の原則は、近年まで維持されたといえます。
 何故この原則が打ち出されたかは、(1)に書いた通り、1920年代の激しい「電力戦」が過当競争に陥って結果的に過剰投資を招き、電力会社の経営を悪化させるなどの弊害を招いたことにあります。

 で、平沢はやはり、電気事業はそもそもの自然的独占の性格があり、「一地域一事業の原則を確守することが最も事業の経済的本質に適合する」(上巻131頁) と、上巻の「組織」の章で述べています。
 自由競争によってこそ価格は低下しサービスは良くなるのだ、という主張は当時でもなお一定ありましたが、平沢はこのような重複供給を認めることで料金低下やサービス向上を図らせるという政策について、「電気事業の自然的性質を無視し、一時を糊塗せむとする政策であつて、毒を以て毒を制するに過ぎない」(上巻153頁)と、明確に否定しています。

 それでは区域を独占している会社が勝手なことをしないようにするには、どうすればいいのでしょうか。またこの当時の状況では、重複供給制度が残されたように、十分な供給力を持たない会社がある一方、電力の消化先を探して「電力戦」に訴える卸売会社も存在しました。平沢は上の引用に続く箇所で、こう述べています。
 「供給権を濫用せむとする供給業者と消化策を講ずるを必要とする電力業者との利害は、合理的なる契約料金を指定することによって、社会資本を犠牲にせずして、相共に企業的存在を確立することが出来る」(上巻153頁)
 つまり、料金政策をうまく行うことで、競争による弊害を除きつつ、供給区域独占の問題も解決できるというわけです。
 それでは、このカナメの料金政策については平沢はどう考えているのか、次に見ていきましょう。
 
◇平沢の電気事業論:料金政策について
 説明の順番としてはややイレギュラーになりますが、改正電気事業法の大きな特徴は料金認可制にありますので、『電気事業経済講話』の最後を締めくくっている料金の章について先に見てみましょう。
 前節で述べたように、電気事業は自由競争よりも供給区域独占の方が望ましく、その弊害を料金政策で除けるとする平沢ですが、料金政策全般についてはこう述べています。
 「望ましい価格は、電気事業に就いては、自由競争によつても独占によつても生じない。茲にこそ、積極的な料金政策を要求する必要がある。電気事業の独占的経営が制度の上で保障されたときに、初めて料金政策が動かねばならぬ。その料金政策の基礎としてのみ生産費説が肯かれる」(下巻357頁)
 地域独占、そして料金認可制(監督官庁による料金政策)という政策の組み合わせがここで指摘されており、それは改正電気事業法によって実現します。そして、その料金政策の基礎として、「生産費説」すなわち電気料金が電力の生産費と適切な利潤から決定されるべきとの説(下巻355-356頁)を認めます。ここに、所謂総括原価方式による料金認可制度の源流を見いだすことが出来ると、小生は考えます。

 さて、ここで平沢が「料金政策の基礎としてのみ生産費説が肯かれる」と「のみ」としていることは留意すべきで、あくまでも基礎であり、単純に生産費=料金とするべきではないという点を、平沢は料金の章の最初の方で縷々述べています。そのあたりの理論を詳細に述べることは、あまりにも煩瑣ですので、省略させて戴くことをご諒解下さい。
 平沢が理想とする電気料金像とは、
「生産費の配賦を合理的にするやうな料金制よりも、電気設備の運営を合理的に導くやうな料金制に、反つて社会的な合目的がある。従つて、電気の料金制は、電気の利用の進歩すると共に、その様態の変遷するまゝに進化すべきものである。唯併し、その理想は、その事業に投下された資本に対する公正な利得を包含する生産原価によつて、各々この供給が、なるべく的確に調整さるゝことにあると云ひ得る」(下巻357頁)
 といいます。
 なかなか分かりにくい文章ですが、平沢の主張は、電気料金は原価(利潤も含む)に基づきつつも、需用者側の電気の利用を合理的に導くことで、電気施設を合理的に使うようにし、投下資本の効率を上げることで、結果的に料金も低く抑えられる、ということにあります。そのため『電気事業経済講話』は、「負荷」の章を設けて、如何に均等な負荷にすることで電気の利用を合理化するか、ということを検討しています。
 これは同時に、需用者の側にも賢い電気の利用を求めることになり、平沢は
「電気事業に於ては、事業者の方面に於て発電及送電を合理的にし、なるべく能率のよい生産が初期せられなければならぬが、需要者も亦電気の合理的な消費に参与するやうに致さねば、完全に事業の能率をよくして、料金を低廉にすることが出来ない」(下巻401頁)
 と注意しています。

 また先の引用部に、「電気の料金制は、電気の利用の進歩すると共に、その様態の変遷するまゝに進化すべきもの」という一節がありますが、平沢は料金制度などの設計に際しては、理論優先よりも、既存の経験で作られた制度を尊重すべきことを随所で指摘しています。これは、国家管理を推し進めた革新官僚の、国が作った制度に業界を従わせようとする態度とは対照的です。
 平沢は料金制度の歴史的変遷について、以下のように述べています。
「進化の過程に従つて、電気料金政策の態様は何うあるべきかと云ふことを考察すると、それには電気事業発達の状態に伴うて、自由放任政策と、暴利取締政策と、原価主義に立脚した綜合料金の監督政策を生じ得る」(下巻478頁)
 これは具体的にいえば、自由放任政策とは、電気の普及を図るため自由競争に任せた時代のもので、料金は需給関係から自由に決まっていた、電気が贅沢品だった昔を指します。暴利取締政策とは、電気事業が発展し供給区域がやや固定化した段階のもので、平沢は1931年改正前の電気事業法を「この時代の料金政策を規範化したもの」(下巻479頁)とします。
 そして電源の開発や供電設備の統一が進んだ時代には「公平なるべき料金が原価主義に立脚して指示されなければならぬ」(下巻480頁)と平沢は指摘しますが、これが1931年に改正されることになる電気事業法を念頭に置いての指摘であることは間違いないでしょう。
 以上、平沢の著書からは、区域独占を前提とした料金認可制度、料金政策の基本としての原価主義、という、1931年改正電気事業法の体制が既に構想されていたことが読み取れます。

 さて、ここから、この制度を運用する監督姿勢を平沢はどう構想しかつ実行していたのか、そもそも民間事業者の存在を平沢はどう考えていたのか、という話に続くのですが、字数が長すぎてこのブログの一つの記事の限界を超えそうなので、中途半端で済みませんがここで一旦切って次の記事に回します。

※追記:この記事の続きは以下。
 総括原価方式の誕生(3) 公益規制と私企業精神の両立
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by bokukoui | 2011-11-13 23:59 | 歴史雑談