えばんふみ『ブルーフレンド』雑感 「百合」の空虚な「反動」的性格について

 年の瀬が近づいておりますが、小生はそんな世間とは無縁に心身ともに引き籠もっているここしばらくです。さすがに対策も講じていますが、なかなか寝床と縁が切れません。多くの課題を来年に積み残してしまいそうです。
 しかし今年読んだ本の感想は今年のうちに・・・はもはや絶望なので(苦笑)、せめて今年人からいただいた漫画の感想くらいは今年のうちの片付けておこうと思います。本の感想は「去年から」積んでいるものを遂に解消できませんでしたが、実のところ現在は、漫画すら読む気力のないていたらくで・・・

 というわけで取り上げるのは、えばんふみ『ブルーフレンド』全3巻です。以下の表紙画像をクリックすると、お試し読みもできる集英社のサイトにジャンプします。





 で、多分当ブログ初の少女マンガの登場ですが、これは先月池袋で犬食会を開こうとして犬が品切れだった、「鳩の切り売り・量り売り」のとびさんから、3巻まとめて頂戴したものです。その時点では結構元気でしたので、いただいてすぐ読み、お礼がてら感想のメールなど送ったりもしたのですが、まあ今月はご覧の有様です。
 話を戻して、この『ブルーフレンド』という作品は、『りぼん』に連載された少女マンガですが、いわゆる「百合」ものであるということが売りのようです。その辺は、『りぼん』主要読者層はいざ知らず、アキバ系文化を代表する「アキバblog」の本作紹介の論調を見れば(第1巻 / 第2巻 / 第3巻)明らかですし、小生がネット上の評価を確認した上でもそのようです。何より本作の帯が「百合」が売りであることを麗々しくうたいあげています。以下に帯の裏表紙側を紹介します。ちなみにこの帯、カバーと材質が違うので、湿度の具合でカバーより激しく収縮して反るのでちょっと困ります。
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 帯の表紙側は1・2巻が「この百合マンガがすごい!」、3巻が「これが新世代の百合マンガ!」でした。

 で、あらすじは集英社のサイトでも参照していただければいいのですが、かいつまんで説明すれば、1・2巻と3巻でお話が分かれています。
 前者は、共学の中学校が舞台で、竹を割ったような運動部の女の子・栗原歩が、同じクラスの美人だけど性格が変わっていて人と交わらず、そのため孤立していじめられている月島美鈴と出会い、お互いに惹かれたりすれ違ったりしながら、感情を通い合わせていく物語です。あんまり書くとネタバレになるので抑えますが、実は美鈴は過去のトラウマで男性恐怖症かつ人付き合い全般がうまくいかず、歩と親しくなっても今度は依存して歩を戸惑わせたりしますが、最後は互いに自立した上で互いを大切な存在と認め合う物語です。
 3巻は、女子高が舞台で、人に流されやすい女の子・清水可菜子が、これまた人と交わらない亀井青に惹かれ、一方孤独だった青も可菜子とすれ違いを重ねつつ、次第に心を開いていく物語です。
 登場人物の台詞を借りて乱暴にあらすじをまとめれば、

 1・2巻:「汚い 男なんてみんな」
 3巻:「『女子ってずるい すっごいつかれる』」


 兎角人の世は住みにくい、とは普遍の原理であります。
 で、小生は少女マンガには素人ですが、なかなか面白く読みました。行き違いを乗り越えて友情を育むというのは、結構古典的な少女マンガの姿なんではないかと思います。3巻の方がお話しが軽くて可愛らしく読みやすいですが、1・2巻の重みもいいものです。ことに、依存を越えて個として自立する物語というのは、普遍的で重要なテーマで、読み応えがあります(小生はナヲコ先生の『voiceful』が、「百合」とされる中のこの種の作品では最高傑作と信じています)。本作は対象年齢の関係か、登場人物の台詞や行動比較的で明示的に押していく傾向が強く、余韻にはやや乏しいとも言えますが、大事なテーマを力強く押して読ませるところは紛れもない力作で、読者をきちんと引っ張り込み、伏線も見事に回収してすっきりとした読後感があります。

 どういう経緯で『ブルーフレンド』をいただいたか、その後のとびさんとのやりとりについては、「鳩の切り売り・量り売り」の「マリみてを知らない僕らだから」の中で触れられています(この「マリみてを知らない僕らだから」は、「百合」アンソロジー『つぼみ』連載作品だったナヲコ先生『プライベートレッスン』の感想記事の続きですので、ご関心のある方は是非そちらからどうぞ)。該当部分を少し長くなりますが引用します。
(引用註:『ブルーフレンド』の)第1巻・2巻と第3巻は全然別のお話なのだ、と知っていたら、第3巻だけ買って済ませたのかもしれない、と思った。性的虐待で傷ついた女の子を友人が慰める、というのは「百合」ではないだろう。ぼくは同性愛の出発点に性的虐待があるということは、話にしばしば聞くだけでなく、実例としても知っている。同性愛うんぬんという議論の中で最初にあった性的虐待がうやむやになってしまうことは正しくないことだろうと、ぼくはずっと思っている。そういう、むずかしい場所にきちっと降り立った作品に対し(いや、絶対に力作なのだ、『ブルーフレンド』の第1~2巻は、ふつうの少女マンガとして考えれば)、あえて「百合」と言ってしまうことに、ぼくは抵抗を感じた。何か、二重に無頓着ではないか。第3巻はもっとかわいいお話なのかもしれないが、ぼくは結局第3巻を読まなかった。

で、池袋で墨公委氏に会ったとき、手土産代わりに3巻とも渡したのである。すると後日、氏から感想のメールが来た。
……この『ブルーフレンド』の良さもまた、「恋愛ではない」人間関係について描いているところにあると思いますので、帯にあるような、そして世間ではどうもそう読まれているらしい、「百合作品として」云々という読み方は、作品から得られるものをわざわざ狭めているように思われ、遺憾です。

「普遍に通じる」可能性を、ありきたりで実態として空虚なレッテルを貼り付けて済ませるほどもったいないことはありません。……
こうして読み返すと、氏はこの物語の中できちんと成立する友情の美しさに心を打たれているのだなあと思って、それはぼくが抱いたような、性的虐待に対する憤りとは方向が違うのだけれど、ともあれ「遺憾です」という表現のストレートさに、ぼくはとても納得したものである。

*

性的虐待の問題を除いても、『ブルーフレンド』を「百合」と呼ぶことにはぼくは違和感があった(実は、読みながら思っていたのはむしろそっちの方だった)。「同性愛と云ふのは性愛あつてのことかと思ふので、乙女たちの友愛をさしてひとしなみに『百合、百合』と云ふのは違ふのではないかと私には思へてなりません」などと(なぜか旧かなで)思ったものである。

しかし、このブログでこれまで扱った作品でも、たとえば『ボイスフル』だって『百合姫』だし、『くろよめ』だって『つぼみ』である。「同性愛と云ふのは性愛あつてのことかと思ふ」というのは間違いではないと思うが、「百合」と云ふのも性愛あつてのことなのかと言われたら、ぼくは返答に窮する。いったいオタクの人たちにとって「百合」って何なのだろう?女の子が仲良ければみんな「百合」なのだろうか?

そんな話を、墨公委氏と会ったときにひとことだけした。「『マリみて』って、読んだことがありますか?」「いえ。」

『マリみて』を知らない氏とぼくは、結局自分の「百合」観で「百合」作品を読むしかないのだ。
 この引用部分で、小生の『ブルーフレンド』や「百合」への考えの核心部分は示されていますし、またとびさんが示しておられる「百合」への考えには、小生も全く同意するところです。『マリみて』の評価には異論もあるところでしょうが、たとえばとびさんのように「百合=性愛」と捉えた場合、本書の物語の価値は、終幕後歩と美鈴がそれぞれ恋人を作ったとしても(男女問わず)別に揺らぐわけではないと思われるわけで。
 とはいえ上のようにご紹介いただいて、基本的には本意を得たりというところでしたが、ひとつだけ驚いたのは、「遺憾です」という表現を「ストレート」と評されたことでした。あれでも結構慎重に、「官僚的答弁」なつもりで選んだ語だったんだけどなあ。
 しからば自分のサイトでは、誰憚ることなく、本当に自分でもストレートだと思える表現をしてみたいと思います。それは、

「マンガなどを評するのに『百合』『百合』言っている連中の大半の目は節穴ではないか。『百合』のレッテルを貼ることで、マンガを読んだりアニメを見たりする視野が広がるのか、コンテンツ文化の発展に資するところはあるのか、小生は懐疑的足らざるを得ない」

 というところです。ん、余計くだくだしくなってしまったかな?
 では文学的に、格好つけたフレーズでまとめれば、

 「『百合』の烙印を押してまわる反動どもには、ただギロチンのみがふさわしい」

 何でこんな喧嘩を売るような台詞をわざわざ書くのか、それは先に挙げた本書の帯に見られるような、本書の売り出し方と、ちょっと検索して見つけたネット上の本書への反応を読み、以前から抱いていた「百合」を巡る言説への違和感を痛感せざるを得なかったからです。
 どのようなサイトを参照したかの一覧は最後に載せようと思いますが、とにかくまず首を捻らざるを得ないのは、以前から指摘していますが、「百合度」という謎の指標です。

 既に述べましたように、小生は本書を、相手を大事に思う感情を描いた少女マンガの力作、と思っていますが、ネットで検索して引っかかる書評の上位は、たいがい「百合」関係です。で、ここでワケワカなのが、ネット上の本書の書評では、評者によって「百合度は低いけど面白い」だとか、逆に「これぞ百合マンガ」みたいなのもあって、しかし誰一人といえど「百合」の定義を示してはいないようです。こんな曖昧模糊な指標を振りかざして、それに何の意味があるのでしょう? そんなことどうだっていいんじゃない?
 いやむしろ、曖昧模糊な所に意味はあるのかも知れない、とも思います。曖昧で、とりあえず女の子同士の人間関係を描けばそれでよし、みたいなところがあったので、「百合」の看板の元に様々な作品が発表の機会を得、読まれることになったのだとしたら、それはそれで嘉すべき事かも知れません。『つぼみ』をきっかけに何人かの魅力的な作家さんに出会えた小生としては、そのような見方もあるだろうと思います。
 しかしやはり、多くの「百合」読みと自称するネット上の評者の多くが、「百合度が云々」「百合としては云々」という表現を使いたがるところからすると、何かしら「百合」の物差しを宛てることに意義を見いだしているのでしょう。であるならば、その物差しがどのようなものであるかということと、そしてその物差しをある作品に宛てることでどういう意義があるのか、ということにはもうちょっと意識的になっていただきたいと思います。

 具体的に個別の書評をあげつらうようなことは本論の趣旨ではありませんが、ここでひとつだけお名前をあげて指摘させていただきます。それは「みやきち日記」さんの本書のご感想です。こちらのご感想は小生も時折拝読させていただいており、レズビアニズムの当事者としての問題意識に裏付けられた記事の数々には敬服しております。その点、この方の場合は「『百合』の物差しの定義」「『百合』の物差しを宛てることの意義」には充分意識的であろうかと思います。それは女性同士の恋愛関係であり、それが描かれる事によるセクシャルマイノリティへの理解の浸透であろうと考えられます。
 ですが、そちらでの『ブルーフレンド』への評価が「設定古く、オチ弱し。ただしイタタな思春期友情話としてはアリ」となるのはやはりちょっと残念で、まずマンガとして面白いところがあるならば、そこは評価すべきと思います。小生が思うに、「百合」という看板は現在曖昧模糊としていて、みやきちさんの定義は明確であっても、コンセンサスを得ているわけではありません。その場合は、曖昧模糊とした定義の中でこの定義を採択することの意義を示すことが、戦略的には重要となります。
 然るにこのような評価の手法であった場合、「百合」を漠然と楽しんでいる多くのマンガ読者に対して、よりマンガを面白く読めるようになると思わせるわけにはいかず、むしろ堅苦しく思われてしまう嫌いがあるのではないかと思うのです。率直に言えば、小生はそう思わざるを得ませんでした。それはセクシャルマイノリティへの理解を広める上でも必ずしも得策とは思われません。みやきちさんのご不満も分からないではありませんが、そのご批判はもっぱら、百合百合とあおった帯をつけた編集と、それを無批判に受け取った少なからぬ読者に向けられるべきであろうと考えます。

 そう、本書で一番おかしいのは、編集です。帯の煽りに違和感を示された書評も幾つか見つかりましたが、そもそもなんで編集がそんな帯をつけようと思ったかで、それはやはり「百合」と看板をつければ売れるからに他ならないでしょう。百合百合いいたがる読者層は従来の少女マンガの読者層とは違っているでしょうから新規開拓になりますし、まさに今回図にあたったわけです。
 これが図にあたったということは、曖昧模糊な「百合」の雰囲気で、様々な作品が発表されて出会いの機会増えるということで、先にも述べたように、少なからぬ意義はあると思います。しかし同時に、「百合」のレッテルで思考停止してしまうことは、「あいてをとくべつにおもうきもち」という、様々なコンテンツ文化で普遍的に扱われる大事なテーマへの普遍性を、見失ってしまうのではないかと、多少の懸念を抱かないではおられません。

 ついでにもう一点、思いつきではありますが、「百合」は男性読者も増えています・・・って人ごとみたいに言ってるけど、まあ小生もそうですね。男性に広がったからムーブメントになったことは否めません。で、少し前に「百合」雑誌界の草分け『百合姫』の編集長が「仲のいい女性同士を見て勝手に妄想する「百合男子」が増えている?」なるインタビューを出して、概して受けは悪かったようですが、まあ小生も「ナマモノは別だろ」とは思ってしまいました。
 ただここでふと思ったのは、「女性同士の愛情を眺める男性」を裏返しにして「男性同士の愛情を眺める女性」にすると、いわゆる「腐女子」「やおい」となりますが(やおいとゲイは百合とレズ同様、イコールでないのはもちろんですが)、腐女子の方々のサイトを見るとしばしば「やおい表現があるから嫌いな人は見ないで下さい」と、傍目にはえらくくだくだしく書いていることがよくあります。殊にそれが「ナマモノやおい」(ジャニーズとかプロ野球選手とか実在人物でやおい妄想をする)場合、世間に漏れないように大変気を遣っている印象があります。
 これはそれこそ、「『女子ってずるい すっごいつかれる』」の一例かも知れませんが、それと比べると「百合」は「臆面もない」感じがします。先日ツイッター経由で、「百合作品なのにヘテロ同人描く奴って、なんなの・・・?」なるまとめに接しましたが、「百合でヘテロ同人は不快だから規制すればいいのに」とツイートしてしまう無神経さに、やはりある種「臆面もなさ」を感じたのでした。
 こういった「臆面もなさ」も、「百合」が売れている勢いの反映なのかもしれませんが、結局曖昧な定義を考えもせず振り回すことが、長期的にはこの世界の衰退(少なくとも拡散・消滅)にはつながるのではないかと思います。

 例によってどえらく長くなったのでまとめます。
 小生が思うに、「百合」というレッテルは曖昧であることで、多様な作品発表の機会を生んだ面もあったが、読者の方がしばしば曖昧なレッテルで思考停止して、作品の持つ面白さを共有し広めることが出来なくなっている面があるのではないか、ということです。
 さてこそ「百合」というのは、コンテンツ文化にとって「進歩」を促す面もあったけど、現在はむしろそれを制約する「反動」の面が現れているのではないか、と懸念する次第で、 「『百合』の烙印を押してまわる反動どもには、ただギロチンのみがふさわしい」などと戯言を記したわけです。

 ま、これは、「百合」=「フランス王家ブルボン朝の紋章」というところから思いついた駄洒落なので、あんまり真に受けないで下さいね(笑)。ベルサイユはばらよりも百合なんだよ!?
 余談ですが、「王冠を賭けた恋」といえばイギリスのエドワード8世(ウィンザー公)ですが、フランスで第2帝政崩壊後、王位に就くことを要請されたシャンボール伯アンリ・ダルトワ(アンリ5世)は、百合の紋章にあまりにこだわったため、王位に就く機会を逸しました。まさに「王冠を賭けた百合」と呼ぶべきであり、アンリ5世(シャンボール伯)こそ史上最強の「百合男子」と呼ばれるべきでしょう。反動だけど。

 ホントに最後にもうひとつ余談ですが、少女マンガらしく本書では随所に作者のえばんふみ氏のひとことコーナー(柱っていうんでしょうか)があるのですが、そこのえばん氏の字が大変個性的というか・・・まあ、下手といって良いような気もしますが(すみません)、その字が昔塾講師をやっていた頃に教えていた女子高生達の字に結構似ているので、えばん氏の年齢はウィキペディアを見ても載ってませんが、かなり若い方とも思われ、百合云々にとらわれず、今後のご活躍を祈念したいと思います。

 今回本記事執筆の機会を与えて下さった、とびさんに重ねて感謝申し上げ、本稿の締めくくりに代えさせていただきます。

※今回参考にしたサイトの主要なもの(順不同、敬称略)
※本文中に既に紹介したものを除く
※各サイト内に複数の『ブルフレ』関係記事が存在する場合もあるが、煩瑣なので各サイトひとつしかリンクを張っていないため、各人リンク先で「サイト内検索」を試みられたい

ブルーフレンドおもしろかった。でも、帯の煽り文句が…(わたしは趣味を生きる。[ラノベ・音楽中心])
ブルーフレンドを読んで。百合漫画家なるものは、まだいないのだろうか(とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。)
ブルーフレンド(GirlsLove Blog)
えばんふみ「ブルーフレンド」1(defeated.)
えばんふみ『ブルーフレンド』(HELL MILK HALL)
ブルーフレンド 1 - えばんふみ(チラシの裏的な何か)
えばんふみ『ブルーフレンド』3巻(泥沼批評)
ブルーフレンド 3巻(ラブコメが好き過ぎて生きるのがツラい)
ブルーフレンド 3 えばんふみ(百合な日々)
ブルーフレンド3巻(ジャンク的漫画日記)
ブルーフレンド(NEKOMOCHI)
ブルーフレンド 2nd Season(白百合の杜 ~Ali-Quar diary)
最近読んだマンガ(11/27)(マンガに潰されて死ねればいいのに)
甘くて苦い、そんな私たちの世界:えばんふみ「ブルーフレンド」3巻(オトコでも読める少女マンガ)
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by bokukoui | 2011-12-30 23:59 | 漫画