阪急電鉄の戦時下乗客増加作戦 歌劇も野球も駄目なら航空錬成すればいいじゃないの

 今日は時間もないので、人様の記事で面白かったのの備忘を兼ねたようなのをば。
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『朝日新聞』1943年12月20日付朝刊
「若人を呼ぶ神鷲の像 同期生が感激の鑿 航空錬成道場に建立」の記事に添えられた写真
関西国民航空錬成道場(西宮航空園)に設置される加藤建夫像




 先日、速水螺旋陣先生のツイッター経由で、「関西国民航空錬成道場」、通称?「西宮航空園」を知りまして、恥ずかしながら小生は初耳でした。詳しいことはリンク先の「兵器生活」さんの「関西 国民航空錬成場」やそのおまけページ「西宮ブログ」さんの記事などをご参照いただきたいのですが、戦時下の1943年4月西宮に開園し、国民の航空に対する理解を深める施設としつつも、遊園地的な性格も色濃く持っていた、そんな場所だったようです。戦時下の本音と建前が表れた興味深い施設といえますが、敗戦によって当然ながら閉鎖、その跡地は皮肉にも戦後の「アメリカ博」用地などに転用されたのち、住宅地などになって現在に至っているそうです。
 ここにはかのユンカースの巨人機を日本陸軍が導入した爆撃機・九二式重爆撃機などが展示されていたそうですから、航空ファンのかたがたの耳目を惹くのはもちろん、軍事を建前とした娯楽施設を通じての戦時下の生活史ですとか、もちろん地域の歴史としても、興味深い話題だろうと思います。

 で、それのみならず、これは小生の取り組んでいる電鉄業とその兼業展開からしても、なかなか面白そうに思われる話題です。というのも、「兵器生活」さんのおまけページに集められていた西宮航空園の広告を見ていると、どの広告にも京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の路線図が掲載されていまして、けっこう絡んでいそうな感じです。
 ちなみに戦前の阪神急行電鉄は、現在の阪急のうち宝塚線・神戸線とその支線のみでしたが、戦時中の1943年10月に京阪電鉄を合併し、京阪神急行電鉄と改称しました(1973年に阪急電鉄と改称。現在は持株会社化)。戦後京阪は分離独立しますが、戦前の京阪が現在の路線網に加え擁していた、新京阪線(現・阪急京都線)とその支線は、阪急に残されてしまいます。新京阪線は従来からの阪急と十三で連絡していたのに、現在の京阪の路線とはまったく接点がなかったので、ある意味自然ではありますが・・・。京阪関係者はさぞ無念だったかと思いますが、沿線住民としては京都線や千里線から阪急梅田駅直通が便利なので、京阪に戻らなくて良かったという思いもあったそうです。
 で、西宮航空園の広告に載っている京阪神急行の路線図は、面白いことに現在の阪急の路線のみです。当時は現在の京阪も同じ会社だったのですが、線路がつながっていないためか、路線図では別扱いになっているようです。まあ面倒なので、以下の記述は「阪急」で統一します。

 さて、話を戻して、考えてみればこの航空園のあった場所は、阪急の神戸線と今津線が交差する要衝・西宮北口駅のすぐそばですから、阪急にとっても乗客誘致の設備として、着目するのはむしろ当然であります。そもそも西宮は阪急にとって、西宮球場という一大集客施設が1937年5月に開設された拠点です。
 この点に関しては、「西宮ブログ」さんに「西宮航空園は、当時、施設の提供や行事の開催など、このような活動に積極的であった京阪神急行電鉄の手により陸軍航空本部の協力を得て建設されました。但し、実際の運営は大日本飛行協会が行いました」との記述があり、むしろ阪急が誘致したくらいの感じだったようですが、具体的にはどのくらい阪急は関与していたのでしょうか。

 で、最近見ていた阪急の社史をついでにちょっとめくったところ、阪急の『75年のあゆみ』の西宮球場関係の箇所に、こんな記述が見つかりました。
 昭和12年7月に日中戦争が始まってから、わが国全体は年ごとに戦時色を深めていたが、昭和16年12月、太平洋戦争に突入するに及んで、すべてのものが戦争完遂のために総動員される時代を迎えた。西宮球場も例外ではなかった。昭和17年6月、外野スタンド下に阪急航研工業の工場が設けられ、グライダーの製作が行われるようになった。さらに翌18年には、球場横の広場に関西国民航空錬成場(原文ママ)が設置され、19年になると、金属回収が強化され、スタンドを覆っていた自慢の大鉄傘が解体され、供出される事態に立ち入った。(同書28頁)
 なんだか戦争で勝手に作られたみたいな書き方ですが、「球場横の広場」に誘致したというところなのでしょう。なお近年の百年史には西宮航空園について記載がなく、『五十年のあゆみ』は手元にないので見ていません。実のところ、阪急の社史は内容が薄いことに歴代特徴がありまして、「小林一三神話」にうかつな傷をつけたくないのではないかと、小生は勘繰っています。
 あと、微妙に施設名が間違っているのが・・・ま、あんまり触れたくなかったのか・・・。

 それはともかく、西宮球場は引用資料にもあるとおり、1944年に鉄傘を金属供出に出しますし、プロ野球自体がこの年には中止されてしまいます。そして、阪急のこしらえた集客施設として今なお著名な宝塚少女歌劇も、やはりこの年3月に休演を余儀なくされてしまいます。ですが、日中戦争以来うち続く泥沼の戦争の中、従来型の娯楽産業は厳しくなることは十分予想できたでしょう。というわけで、結果的には野球や少女歌劇が中断を余儀なくされるのと入れ替わりに、航空園が開業したことになったわけで、うまいことやったもんだとも思われます。
 戦争という如何ともしがたい大きな歴史のうねりとはいえ、阪急も無策で翻弄されていたわけではない、戦争に備えた教育施設としつつも実態は半ば遊園地という施設に一枚のって、時代に対応しようとした、そんな話として考えると、また面白かろうと思います。小林一三率いる阪急のイメージは、家庭的・市民的なそれをうまく売り込んで今日に至っていますが、良くも悪くも時代に沿ってやってきたからこそ、今もやっていけているということなのでしょう。

 そしてついこないだ、調べ物で国会図書館に行き、本が出るまで端末で昔の新聞記事のデータベースを見ていた際、ふとこの件を思い出して検索してみたら、読売新聞の1941年8月22日付朝刊に、「関西に落下傘塔 国民航空道場を西宮に新設」という記事が見つかりました。太平洋戦争前から計画がスタートしていたのですね。この記事では「明春三月から一般に開放」とありましたが、実際の開園は1943年4月までずれ込みました。これはやはり1941年12月の太平洋戦争開戦の影響で、物資や労働力の不足だとか、軍も手が回らないとか、そんなことがあったのでしょうか。
 以下にその記事の一部をコピーの画像で紹介します。
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『読売新聞』1941年8月22日付朝刊
「関西に落下傘塔 国民航空道場を西宮に新設」の一部

 記事には「阪急電鉄提供による二万坪の地」と書いてありますが、具体的にはどう提供したんでしょうか。阪急は学校を誘致するために土地を寄付したりしたこともありますが、これは寄付よりは無償か格安で貸与した可能性の方が高そうです。戦後も博覧会場などに阪急が使っていたようですし。
 関係はあまりはっきりしないのが残念ですが、社史の微妙な記述を考えてみると、阪急とすれば、関わったけど主体ではない、くらいのつもりだったのでしょうか。この辺は、今後も機会があれば追求していきたいと思います。

 で、他に見つけた西宮航空園関係の新聞記事が、朝日新聞の1943年12月20日付「若人を呼ぶ神鷲の像 同期生が感激の鑿 航空錬成道場に建立」というものでした。これは「加藤隼戦闘機隊」で有名な加藤建夫中佐(戦死して少将昇進)の石像を作って西宮航空園におく予定、という記事です。そこには、戦時中で2面しかない新聞の貴重な紙面を割いて、でかでかと石像の写真が載っていましたので、それを記事冒頭に引用してみました。こちらに記事本文も掲げておきますので、ご関心のある方はどうぞ。
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『朝日新聞』1943年12月20日付朝刊
「若人を呼ぶ神鷲の像 同期生が感激の鑿 航空錬成道場に建立」の記事本文

 で、この記事を読んで、小生は思いっきり吹きました。冒頭近くに、こともあろうにこんなことが書いてあるからです。

「・・・大日本飛行協会では阪神沿線西宮の関西国民高級錬成道場の一角に・・・」

 違うよ! 阪神にも鉄道省にも西宮駅はあるけど、航空園があるのは阪急の西宮北口駅だよ! こともあろうに積年のライバル、企業統合が推し進められた戦時下でもついに合流しなかった阪急と阪神を間違えるなどとは・・・この記事を書いた記者はあとで阪急の関係者に「おんどりゃァ、どない落とし前つけンねン!」などと捻じ込まれたかもしれません(阪急はそんな言い方しない?)。

 というわけで阪急の黒歴史について、ネットで発表された方々の記事に便乗してみました。
 もっとも、時代に応じてその当時の人々がいろいろ模索したこと自体を、後の時代の人間が単純に断罪するのも、品のいいことではないと小生は思います。いろいろ史料を読んでいろいろ考えてみることが大事で、君子豹変すということもあるし、単純にブレないことが正しい、なんてわけじゃないですよね。もちろん一方で、批判されるべきオポチュニストもいるわけですが、時代を無視せずかつ踊らされず、というのは大変難しいことで、振りをトチりつつも踊ってみるのもまた人生の暇つぶしにはなりましょう。
  とまれ、いみじくも「兵器生活」さんの記事によると、西宮航空園=阪急に対抗して、近代兵器科学館・海軍科学館@あやめ池科学広苑=近鉄というのもあることが見て取れ、ブレーブスvs. バッファローズみたいに張り合っているのがなんとも面白いですね。もしかすると陸海軍でそれぞれ鉄道会社を抱き込んでいたのかも知れない、なんて感じもします。なかなかそこまで小生の手は回りませんが、戦争と娯楽と電鉄会社なんてのも考えてみたいお題です。
 戦争に抑圧されたのか、便乗して戦争協力したのかの二択の踏絵を迫るのではなく、その合間で自分の利益を図るような商魂たくましさのような(不正行為とはまた別な)ものは結構あったはずで、そういった所から見直して得るものもあろうと思います。

 最後に余談ですが、電鉄と軍事関係では、手持ちの画像を漁ったらこんなのが出てきました。
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「平和のための防衛展」@一畑山上パークのパンフレット
島根県立古代出雲歴史博物館編『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』一畑電鉄(2010)より拝借

 これは山陰のローカル私鉄・一畑電鉄(現・一畑電車)が自社の遊園地で1963年に開いた、「平和のための防衛展」のパンフの写真を『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』からメモ代わりに撮影したものです(画質が悪いのはご容赦を)。同書の他の写真では、戦車や装甲車、大砲などが遊園地に並べられ、その周りに大勢の来場者がいるのもありました。戦後になってもこんなことをやっていたのですね。それにしても、「平和」とつければ戦車を展示してもいいのでしょうか(笑)。また「主催:平田市・島根新聞社 協力:防衛庁 後援:島根県・島根県教育委員会・米子鉄道管理局」らしく、一畑電車のみならず国鉄まで首を突っ込んでいるようですが、国鉄労組はこんなイベントに反対しなかったのでしょうか?
 さらに面白いのは、同書によるとこの展示会は大変好評で来場者が多かったそうで、またいろいろ考える糸口にもなりそうですが、今の小生にはそこまで考える余力もありませんので、あとは篤学の方々にお願いする次第です。

 末筆ながら、本記事執筆の刺激を与えてくださった「兵器生活」「西宮ブログ」に、心から感謝申し上げます。 
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by bokukoui | 2013-02-18 23:13 | 鉄道(歴史方面) | Trackback(1) | Comments(7)

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Tracked from 障害報告@webry at 2013-02-20 13:42
タイトル : ここは酷い宴会食べ残しですね
朝日新聞デジタル:毎年の宴会食べ残し=食料2億人分 中国、大学が試算 - 国際 http://www.asahi.com/international/update/0219/TKY201302190119.html 食べ残しは召使いや家族への役得になるって文化じゃなかったっけ そういう文化の後半だけがなくなっちゃうとなあ 商務部:「中国式『宴会での食べ残し』は改めるべき」--人民網日本語版--人民日報 http://j.people.com.cn/94475/8113264.ht...... more
Commented by とび at 2013-02-20 00:59 x
この記事を拝見して、ぜひとも指摘しておきたいのは、
「西宮の川西航空機」というのは、当時の関西人にとって
いまで言う「門真の松下」と同じぐらい
チョー有名企業だったということです。つまり、かつて関西には
「西宮といえば飛行機」という時代があったということです。

それで、阪神電鉄が川西航空機のお膝元だったときに、
阪急が時局柄西宮北口に「航空園」を開いたというのは、
阪神に張り合うという意味でもアリだったのかなと。
並んでいるのが三菱の飛行機ばかりなのも
川西を意識したのかと。

そして、そのことが
いま阪急の社史にほとんど触れられないのは、
戦争協力が阪急にとって黒歴史だというのもあるでしょうが、
新明和自体が過去の「栄光」を封印してしまったことで、
関西人の中で「西宮といえば飛行機」というイメージが
消え去ってしまったこともあるのかと思います。
つまり、いまや阪急の社史の編纂者自身
「なんで西宮で航空園?」と疑問に思う程度の
認識しかないということです。

貴兄の記事だけでなく参照記事のどれひとつ取っても
「川西」のかの字も出てこないのを、
関西人として不思議に思いつつ。
Commented by 印度総督 at 2013-02-21 21:07 x
 「兵器生活」主筆です。
 パンフの紹介だけで力尽きてしまった記事に、軍神加藤像記事など掘り起こしていただき、この場をお借りして厚く御礼申し上げる次第です。

> とび様
> 「川西」のかの字も出てこない
 ご指摘あるまで思いもよりませんでした。関東モノの粗忽さをお許し下さい。
Commented by とび at 2013-02-22 23:45 x
> 印度総督様
> 関東モノの粗忽さをお許し下さい。

とんでもない。「紫電改」を作っていた会社が
西宮にあったことを知っている人間は、いまや
関西でもごく少数だと思うのです。

ちなみに、往時の「川西」の栄華について
証言した記事を見つけました。
墨公委先生の引かれたのと同じ「西宮ブログ」ですが、
こちらは「Miya-P」さんという別の方の書かれた
別の巻のようです(「西宮ブログ」というのは
どうもポータルサイトのようですね)。

http://nishinomiya.areablog.jp/page.asp?idx=1000061445

> 従業員数は昭和十九年(1944)には
> ついに6万人を超える状況となりました

だそうです。この巻ではほかにも西宮と飛行機の関係を
解説していたりします。ご参考になれば幸いです。

> 墨公委様
ソースの不確かなコメントをつけてしまってから
慌ててウラを取る破目に陥り恐縮です。
幸いよい記事を見つけました。何卒ご寛恕のほどを。
Commented by bokukoui at 2013-02-23 22:15
>とび様
詳細なコメントありがとうございます。

兵庫・神戸には航空機生産工場がある、というイメージは持っていたのですが、あんまり西宮とは結びついていませんでした。川崎の工場の方の印象が強かったのかと反省しております。
また川西は確か、現在の山陽電鉄の経営にも一時関わっていたことがあったと思いますので、兵庫でももっと西に縁があるような漠たるイメージもありました。
戦後注目されなくなったのは、川西にしてもやはりご指摘のように、名前を変えて出直したこともあろうと思います。

そういえば、阪神武庫川線は戦時中、川西の工場用に建設したというような話があったな、と思い出してちょっと検索してみたところ、川西の工場は当時の鳴尾村で、西宮市への合併は戦後のことだったそうです。なので、当時の西宮が航空について施設を作ろうとしたら、むしろ鳴尾村に張り合うような感じだったようにも思われます。海沿いの鳴尾の方が有名だけど、今後は西宮市も航空産業で発展するぞ、みたいな。

(続く)
Commented by bokukoui at 2013-02-23 22:15
(承前)

地元の神戸大学新聞記事データベースをちょっと見ましたが、川西飛行機について西宮市との関係は、あまり当時でも意識されていないようにも思われます(鳴尾村というのも意識されているわけではなく、「兵庫」「神戸」くらいだったような印象です)。
このへんはもうちょっと検討が必要ですが。

個人的には、雑誌の広告で並べられていた、あやめ池の海軍肝煎りらしい近代兵器科学館・海軍科学館なるものとの対抗がキーになりそうではと思います。
西宮航空園に並んだ飛行機のラインナップを見ると、巨人機の92式重爆撃機や比較的新しい97式戦闘機、現用の97式重爆と、陸軍の力の入れようが目立ちます。それに比べると海軍は94式水偵(これは川西の機体ですが)くらいなので、その辺も温度差がありそうです。

鳴尾村の発展は、武庫川の廃川を利用した阪神の甲子園開発と深く結びついているようです。そういう方面からむしろ、阪神と航空という方向も、今後は考えてみたいと思います。
Commented by bokukoui at 2013-02-23 22:27
そういえばここで引用した朝日新聞の記事が、阪急沿線の西宮にあった航空園を、阪神沿線と書き間違えています。
この間違いが起こった原因はおそらく、とびさんのご指摘にあるとおり、記者の頭に「西宮+航空=川西の工場や鳴尾飛行場のある阪神沿線」という思い込みがあったため、というのは、かなりありそうなように思われます。
Commented by bokukoui at 2013-02-23 22:29
>印度総督閣下
コメントありがとうございます。
「兵器生活」の記事は以前から面白く拝読しておりました。今回の記事もそれあってのことでしたし、以前も当ブログの記事

「アメリカ本土にシャクティ・パット~野依秀市雑彙」
http://bokukoui.exblog.jp/11015867/

の中で、「兵器生活」さんの記事を参考にさせていただきました。こちらこそ、深く御礼申し上げます。
最近は検索できるアーカイブが増えたので、このくらいの記事をでっち上げるのは、割と簡単です(苦笑)

西宮航空園に続いては、是非、近代兵器科学館・海軍科学館@あやめ池科学広苑の調査をお願いします! きっと同じくらいのネタはありそうな・・・
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