当てもなく教育について語ろうとする・さらに続き「熱血教師」考

 数日来書くといっていた内容です。

 話の取っ掛かりに苦慮していたのですが、渡辺プロデューサーと大学時代のお知り合いであったというLenazo氏が、ブログでこのような記事を書いておられますし、あるいは先日触れた『「ニート」って言うな!』における、佐世保の事件に触発されて製作されたというNHKスペシャル『子どもが見えない』なる番組への批判(pp.147-150、内藤朝雄氏執筆箇所)も手がかりになろうかと思います。少々長くなりますが、後者の記事を一部引用します。
 実際に放映された番組をみて、仰天しました。番組では、相変わらず青少年の凶悪化を自明の前提にし、子どもたちの一般的な傾向と、代表性がゼロに等しい佐世保の殺人事件の衝撃を短絡的に結びつけ、「近頃のおかしくなった子どもたち一般」に対する疑惑と不安を煽っていたからです。
 そして発言者たちの人選というのが、また非常に偏ったもので、犯罪社会学者や統計を知っている人が全く入っていませんでした。
 主要発言者は、一人の作家(重松清氏)を除けば、問題を抱えた青少年に対し「熱血でやっています」という傑出したパフォーマンス(をマス・メディアに売ること)によって「世に出た」著名人たちでした。不安を煽るようなVTRの後で、「それではどうしたらよいか」というトピックに入ると、発言者たちは自分の「いっしょうけんめい」を披露します。製作側は彼らの語りに続けて、美談エピソードをはめ込みます。そして、この傑出した人たちのように「いっしょうけんめい」子どもに接すれば事態はよくなる、というお手本のメッセージが放たれます。もちろん犯罪統計は無視されています。(中略)
 視聴者の側は、傑出人にしかできないことを「こういう風にすればいいのだよ」と示されると、ますます不安感を煽られます。(中略)これはマス・メディアの煽り方の典型的な例だと思います。
 示唆に富む箇所ですが、ここから話を発展させていきましょう。

 今回考えてみたいのは、こういった場面でみられる、いわゆる「熱血」な教育ということについてです。
 「熱血」の定義というのは相当に難しいですが、なるべく最大公約数にまとめれば、自己が正しいことを強く確信し、その自己の抱く理念を他者へ説得するに当たり、論理性よりも感情・情緒を重視した説得行動を行う、ということが、一応の目安にはなろうかと思います。初手から否定的な定義を作っておいてなんですが、このような強い信念を持った人物がその場のイニシアティヴを取り、状況を自らが理想と望む方向へ引っ張っていくことは少なくないように思われますし、ことに「教育」という場においては、教育者はそのような行動を起こしやすい(また引っ張ることが適当だと思われる)立場におかれており、また被教育者は引っ張られやすい(また従っていくべきだと思われる)立場にあるといえ、このような「熱血」状況を惹起させやすい環境であると考えられます。

 「教育」というものが持つ、教育者が被教育者に対し占める地位ゆえの問題点は、前掲『ニートって言うな!』第2部の第4節~第5節辺りで縷説されています。教育という営為については、そのような問題点を認識しつつ、成果を最大化し弊害をなるべく抑えるようにすることが望ましいわけです。しかし、「熱血」的振舞いは、教育の持たざるを得ないそのような問題点を看過してしまうことになります。
 結果として引っ張られたことにより、教育が一定の成果を挙げたように見える状況はありえるでしょう。しかし、このような限界を承知していない「熱血」教育行動は、同時に上掲Lenazo氏ブログに引用されているNPO団体のような弊害(これは流石に極端な例であるとは思われますが)を引き起こす公算もまた大きく、さらに問題なのは、このような弊害を弊害として認識し得なくなってしまう危険性もまた高いということです。それどころか、これが「美談」にすらなってしまうのです。

 このような事態を引き起こす原因として、「熱血」を支える自信(一定はないとそれはそれで困ることはもちろんですが)が自己陶酔・自己絶対化を招くことが考えられ、さらに彼もしくは彼女が場のイニシアティヴを握る能力に長けていると、この自己陶酔・自己絶対にその場にいる他者を巻き込んでしまう、そのようにまとめることができようかと思います。

 相変わらずグダグダで申し訳ない。もうちょっとこのテーマ、続けます。なかなか終わらないな。次はもうちょっとすっきり論理展開させるようにします。
[PR]

by bokukoui | 2006-04-23 23:58 | 時事漫言