当てもなく教育について語ろうとする・もっと続きで教科書問題など

 昨日の記事はあまりにもグダグダだったので、まず論点の整理を行うことにします。
 教育をめぐる最近の言説に関し、小生が些かの疑問を抱いている点は以下のようにまとめられます。

(1)教育は往々にして、教育者が被教育者に対し自己の信念を押し付けることになるという問題があり、しかもそのような傾向は「熱血」として肯定的に評価される場合が少なくない
(2)上記のような状況を生む原因は、教育というものが素晴らしいことと評価されており、教育に関る者もしばしばそれを信じて自己陶酔・自己絶対の傾向に陥るからではないか
(3)しかし、教育の効果はどれほどのものなのか、慎重に検討する必要があり、その上で冷静な教育への評価を行うのが望ましいのではないか

 グダグダでしたが、一応昨日触れた論点は(1)と(2)の一部のつもりです。
 (2)の方はあまりはっきり触れてはいないのですが、ここで改めて記せば、教育の場で「熱血」のような振る舞いが許容されるのは、教育という営為が素晴らしいことであるという強い確信に裏打ちされているからであろうと思われます。このことも昨日の記事同様、『ニートって言うな!』第2部の第4~5節などで触れられていますが、教育というものの価値が極めて高く評価されているため、それに携わる教育者の中に、被教育者に対し抑圧的な行動に出る自分に疑念を抱かない、そのような状況を惹起せしめているのではないかと思うのです。そして、自分が抑圧している被教育者に対し、「お前のためにやっているのだ」と主張して省みないという事態が生じることになるでしょう。
 もちろんこういった事態は教育界に限られたわけではなく、社会の各分野でまま見られるものですが、特に教育は発生率が高くなりやすいのではないかと思うのです。
(全然余談ですが、時々いる「イタい軍事マニア」というのもこの一類型ですな。自分は軍事・安全保障という世界の重大問題に関心を持っている、だから自分はそこらのDQNよりエラいんだ! みたいな連中。ねえM氏、思い当たる人いるでしょう?) 

 さて、ここからが今日の本題です。論点(3)へと議論を話を進めようと思うのですが、この題材には歴史教科書をめぐる話題なんかが好適だろうと思いますので、これを例にして話を進めて行きましょう。
 歴史教科書問題で、左右どちらの勢力に対しても小生が抱いた疑問点は、教科書というものにどれだけの実効があるのか、ということです。もちろん国際間の政治的な対立争点としての有効性ではなく、その教科書を使って学ぶ生徒に対して、です。
 社会科という科目の哀しい位置付けからして(苦笑)、教科書をめぐって議論する右や左の旦那様方がその議論の中で力説されるほど、みんなそんなに教科書の内容に直接に影響されるのかなあ? もっと言えば、そこまで真面目に聞いている生徒はどこまでいるのか、というのが率直な疑問です。殊に社会科というのは、生徒に意欲があればあるほど、教師に力量があればあるほど、教科書を使わないという傾向が多分にあるように思われます。受験対策という意味合いもありますが。
 結局、生徒が一番真面目に教科書を読むのは受験というインセンティヴがあるときになるわけで(それでも上記のように他の教材に頼る場合も少なくない)、都立の中高一貫高校として話題となった白鴎高校付属中学校で扶桑社の件の教科書が採択された時に反対運動が起こった理由には、受験で使えそうにない教科書を使ったら中高一貫で進学実績を挙げるという大目標に反するのではないか、という懸念があったのではないかと思います。こういう問題を無視して教科書を政治的に論じても、結局それは運動のための運動にしかならないのではないかなあ、と思います(反対派も含めて)。

 扶桑社の件の教科書は中学生向けだったと思いますが、受験の華(?)である高校生向け歴史分野教科書で圧倒的シェアを誇っている(半分以上)のは山川出版社で、小生はある時山川出版社の方に何でそんなシェアを獲得しているのかをお伺いしたことがあります。そのときの答えは、一つには古くから(戦後国定教科書制度がなくなったときから)ずっと作りつづけているという伝統の力、もう一つには様々な副教材などを作成し、教師にも生徒にも山川の関係書籍を使うことで学習しやすいような展開をしているからだ、ということでした。要は需要をしっかりと見据えた企業努力ですな。

 最近新しい歴史教科書を作る会の内紛が伝えられ、西尾幹二氏が追われた(?)ようですが、その原因はといえばどうやら、「保守」といっても色々いて、それを教科書問題を使って幅広く大雑把にまとめた(ここでも「教育」という錦の御旗は大いに効果を発揮したわけです)という点に特徴のあった「作る会」が、「日本会議」みたいな既存の保守の政治勢力に取り込まれてしまい(西尾幹二氏の3月7日付けブログに詳しい。コメントを寄せているいろんな「保守」な人々の声が興味深い)、ついていけなくなった層が分裂した、みたいですね。これって一昔前の「革新」の運動と似た構図の失敗のような。まあ、事の発端の藤岡信勝のやってきたことを考えれば、ある意味なるべくしてなった、そんな気もしますけど・・・

 話がわやくちゃになってきたので再度まとめると、歴史教科書問題では左右どちらも被教育者への教科書(に代表される教育)の効果を自明のものとしているが、果たしてそれは事実なのか、もし効果を発揮するとしたらそれは受験というインセンティヴのなせるものではないか、ということです。
 歴史の話はちと極端な例のようにも思いますが、昨今の教育――ことに『ニートって言うな!』でも触れられているように「ニート」やら「ひきこもり」やらを「再教育」するみたいな話の場合――をめぐる言説については、教育する側の立場の立論ばかり幅を利かせ、それらの「教育」を施せばたちまち事態は解決するような幻想を振りまいているように思われます。しかしそれは教育を受ける側の主体性を無視しているように思われ、しかもそれを無視して「熱血」に被教育者を教え込むことを称える風潮があるように感じられるのです。Lenazo氏ご紹介の事例に出てくるNPO団体などはその最たるものでしょう。
 教育を受ける側の主体性というのは、決して「やる気」の問題ではなく、もっと様々な要因が組み合わさっている問題です。これを「やる気」に一元化してしまうことは、安易な自己責任論同様の誤謬を招くだけでしょう。

 教育には賽の河原の石積みみたいな面があると思うのです。
 そして小生は今日も石を積みに行きます。塾講師バイトという名の。
 この話題、あと一回くらいは書こうと思います。(3)の教育の評価をどうすべきかについて、主体性という方面から。

※追記:その後教科書問題は、横浜を舞台に展開しました。とほほ。
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by bokukoui | 2006-04-24 23:58 | 思い付き | Comments(2)

Commented by 大名死亡 at 2006-04-26 01:17 x
 とりあえず面白く読んでいます。
 続き楽しみにしてます。
Commented by bokukoui at 2006-04-28 04:37
コメントありがとうございます。
大名死亡さんのコンテンツに比ぶべくもない垂れ流しサイトで汗顔の至りですが、これからもご愛顧いただければ幸いです。