電産ばなし余滴 ネット上の発送電分離論と図書館で学ぶことの大事さ

 本記事は、今月1日に執筆した当ブログの記事「大原社研『電産中国関係資料』紹介」に本来は含まれる内容でしたが、当日に産経biz が掲載していた記事への批判を急遽盛り込んだりして余裕がなくなり、長くなってしまいそうなので後日回しにしておりました。そうこうしているうちに時間が大分経ってしまいましたが、忘れないうちに書いておこうと思います。



 さて、先の記事はそもそも5月1日ということで、労働組合(メーデーなので)と電力会社(9電力体制発足が1951年5月1日なので)の両方に関係した話題を述べたまでですが、当初の予定はそれに続けて、ずいぶん以前に発見してから気にかかっていた、電力業に関する主としてネット上の言説についても触れようと思っておりました。それはもうずいぶん前のこと、震災からしばらく「発送電分離」についての議論がなされ、ネット上でもいろいろな意見表明がみられ、小生も歴史的な知見をいくつか述べました。そんな2011年10月のこと、憑かれた大学隠棲氏のツイート(togetter へのコメント)経由で、小生はこんなツイートまとめに出会いました。

 『発送電分離』の問題点 真の「電力自由化」とは? ~電力の安定供給のために~

 これはツイッター上の議論ではなく、一人の方のツイートを発言者当人がまとめたものです。当時は@hanehiromu と名乗っておられましたが、今は@scidreamer と改称されているようです。煩瑣なので、この方のことを以後本文では「hs氏」とお呼びします。
 で、hs氏の発送電分離に関する意見は、民間企業が発電事業を行うとストライキの危険や「不当な価格交渉」、「撤退のリスク」があるから公営とし、「発電設備の研究開発や生産・普及」を自由化すべきということだそうです。
 小生はこれを読んで一驚し、まず思ったことは「電産は遠くなりにけり」ということでした。hs氏は大学生だそうですが(当時)、やはりかつての電産の激しい争議などはご存じないのでしょう。
 もちろん驚いたのはそれだけではなく、大体において書いている内容がぶっ飛んでいることに驚かざるを得なかったのです。そもそも「電力会社が牛耳っている発電設備の開発・生産部門」って、発電機とか原子炉とかを作っているのは電力会社ではなく、GEだの東芝だの日立だのといった重電メーカーです。福島第一原発の1号炉がアメリカ製で、2号以降が国産化されて・・・という事情は原発事故後、マスコミの報道でも触れていたと思うのですが。
 ストライキについても、むしろ特殊法人で半ば国営のような存在だった日本発送電の時代にストが多発し、完全民営化された九電力体制になって労資関係は安定しました。先の電産資料紹介記事で類例として紹介した国鉄の場合では、政治的な事情で労働者にスト権がなく、経営側も裁量の幅が制約されいたため、両者の調整がとかく政治問題化し禁止のはずのストが多発(「スト権スト」という一見矛盾した事態が起こります)するのに経営陣が思うように対処できない、そんなグダグダの末に国鉄は解体に至ってしまったという経緯があります。
 物理的にスト破り用の暴力装置でも配置しない限り、労働者はストをやる時にはやります。むしろ民営企業の形態として、会社が出来るのはここまで、労働者が出来るのはここまで、もつれたらここで裁定、と決めて敏活に対応できるようにした方が、ストまでもつれることは少なくて済んだといえるでしょう。

 ついでに、戦前戦後を通じて、電気が止まるという危機がもっとも生じたのは、需用に供給が追いつかないという状況でした。これは当ブログで過去に「日本の「計画停電」の歴史を振り返る」「電気代と市場経済」として縷々説明しましたが、好景気や戦争や復興・高度成長で需用が大きく伸びているのに、発電所を作るのは時間も金もかかるから追いつかない、そんな状況の方が多かったのです。
 2011年の計画停電にしても、震災でダメージを受けた発電設備を応急にでも復旧させる間、供給が需用に追いつけず停電になったわけで、やはり需用と供給のアンバランスが原因です。過去の例からいえば、こっちの方がストライキより重大なリスクと考えられます。そして今日の電力の利用状況から考えれば、労働側としても停電ストは世論の反発を招くことから、戦術として取るメリットが乏しいでしょう。

 とはいえ本記事は、単にhs氏の議論の問題点を指摘したいわけではなく、むしろその背後にある、構造的な問題について考えてみたいのが本意です。hs氏個人の批判をしたいわけではありませんし、結論としては氏もまた構造的な問題の犠牲者と考えられますから、その点はお含みください。
 で、そんなことを小生が考えるきっかけとなったのは、実はちょうど同じ頃hs氏のツイートに、上に挙げたものとはまったく別な経路(これは失念してしまいましたが・・・)で接する機会があったからです。それは以下のまとめでした。hs氏のアイコンが先のものと異なっていることにご注意ください。

 学生がソーシャル交流で効率よく目的を見つける時代「社会のためになりますから」

 これもやはり、小生は当時一読して憮然かつ愕然とせざるを得なかったまとめでした。そもそも、hs氏の言っていることは、自分で芦田氏に議論を吹っかけたにもかかわらず、話の軸がころころ変わっていて、芦田氏のそもそもの主張と噛みあっていないですね。山中伸弥氏の話は学生生活と関係ないし。
 芦田氏のツイートの文面は乱暴で不親切に見えますが、学生には学生ならではのやっておくべきことがあり、それはソーシャルメディアで「社会人」の真似事をするのではなく図書館で学べ、「社会」がどうこうと「心」に"高い意識" を抱くよりもとことん勉強することで見えることがある、という趣旨は分かります。多少勝手に忖度しますと、学生の大事なことは目の前の俗事に左右されず何かについて学ぶこと、なのだと思います。「社会人」になってしまうと、そこは制約を受けることが多くなるでしょうね。

 で、小生が、先の発送電分離のhs氏の所論との両方を読んで思ったのは、「ソーシャルで効率よく」という、目的に向かって最短距離で向かって進めそうなやり方は、かえって役に立たなくなってしまう危険性がある、ということでした。もちろん、「ソーシャル(メディア)」で「効率よく」はなるでしょうけれど、それはもともとの知識のストックなどがあってこそで、元手がなければ効率も何もないでしょう。目先の効率で検索して必要そうなページを見つけるだけでなく、一冊読み通すことで見通せる体系こそが重要です。でも目先が忙しいとそういう余裕がないですから、学生のうちにどこかでやっておけ、「こもっても世界が見えるところを大学図書館と言う」とは至言であると感じ入った次第です。
 先の発送電分離に関するまとめに即していえば、電力業について体系的に情報を得ていないので、論じるならば抑えておくべき論点が抜け、大した問題でもないところをむやみと強調してしまっているのでしょう。同様に、hs氏がいろいろご自身の発言をまとめているものの中で、極端なほど分かりやすいのを挙げておきますと、「ここがすごいよ、『日本人』」は一読唖然となるほどのトンデモな内容ですが、ツイッターで聞いた断片から何も参考にせず妄想を逞しくしていては、こうなってしまうのも宜なるかなです。
 当然、体系が欠けていると、自分の知識や考えがどの程度意義あることか判断できないわけで、大体常識的に考えてブルーバックス一冊で新薬の開発の革命的方法が出来るとは考えられないでしょう。そのくらいならとっくの昔に誰かが考えている筈で、いわば「角の三等分問題」の証明を見つけたと主張する自称数学者みたいなものです。

 なんですけれど、hs氏ほど分かりやすく見えているのは極端であるにしても(極端だから取り上げる価値はあるのですが)、世のため人のために役に立ちたいと渇望し、そこでソーシャルメディアが決定的に役立つと思い込んで「活用」したものの、結局何もつかめないままトンデモになってしまっている、という事例はかなりあるように思います。ことにインターネットやソーシャルメディアは、社会についての疑問や問題意識(これらを抱くことは大事なんですが)に「効率よく」答えを与えてくれるような印象を与えてしまいがちなのだろうと思います。既存のメディアだってそういうことはもちろんありますが、それこそソーシャルは「効率よく」そういう事態を引き起こすのではないかと。
 で、ここから先は小生の勝手な考えですけれど、ことにソーシャルメディアが「効率よく」そういうことを起こせるのは、ソーシャルで伝わる言説が「今」の「生」な、いわば「現場」のもののように思われている、というところに重要な理由があるんじゃないかと思っています。小生は最近、この「現場」という、分かったようで分からない言葉に疑問を感じています。「日本のものづくりの強さは現場主義にあり」とか、経済誌とかによくありそうな言葉ですが(例えばこの本でも「現場力」という言葉がかぎカッコつきながら使われていました)、じゃあ労働組合による職場管理でもするのかといえばそうではないようで。ある意味、経営陣を右往左往させた電産や国労は、「現場」が事業体を支配した最強の「現場主義」と、理屈はこねられますよね。
 ちなみにそうやって「現場」から興った労組が拡大すると、今度はその労組内で「現場」と「中央」の対立が生じてくる、という同じことの繰り返しが起こります。その点は、先の記事で紹介した電産関係資料の目録を見ているだけでも、何となく伺われます。

 話を戻して、もちろん、「現場」を無視しては何事もうまく行かないでしょうし、そこに蓄積されたものは大事な財産でしょう。しかしそれを万能視し、「うまく行かないのは現場を見ないトップのせいだ」と条件反射的に思うようになってしまったら――往々そう思っている人が多いからこそ、『踊る大捜査線』の「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」というセリフが流行ったのではないでしょうか――それはリーダーシップや理論体系の不在という問題を無視する危険性もあります。そしてインターネット、ことにソーシャルメディアを過信してしまうと、世界につながっているようでいて世界の体系を見失って、タコツボの中で全世界を掴んだような気持ちになってしまう、限られた「現場」の経験が世界すべてに通用すると考えてしまうわけです。
 もしかすると最近、ソーシャルメディアの活用で知られた政治家の、重大な失言問題が連続しているのも、類似した事例かもしれません。政治のような世界は、各人のホンネをすり合わせて調整するために、タテマエという正当性の根拠がいるのですが、そのタテマエを「現場を知らない」と批難して支持を得た彼らは、狭い「現場」のホンネをグローバルに垂れ流してしまった、そんなこともふと思います。 

 「現場」の話はまだ煮詰まっていないので、機会があれば改めて考えたいと思います。手がかりまでにしばらく前の、Im_Weltkriege 猊下のツイートを掲げておきます。

 話を大幅に戻して、togetter での「発送電分離」についてのまとめは、先に挙げたhs氏のもの以外にもありますし、小生もまとめてもらったり(発・送・配電分離時代昔語り、あと周波数を東西で50と60で統一しただけでもすごいんだぜ話)まとめたり(屋久島の電気事情・屋久島電工と九州電力、配電組合・農協)したことがあります。以下に、目に付いたものを幾つか挙げてみましょう。

 ・東電解体と電力自由化、発送電分離は何を我々にもたらすのか
 ・電力改革や送発分離のオカシイ話と今やるべきこと!
 ・2011年10月2日 UTCPシンポジウム「脱原発シナリオをアセスメントする」実況ツイート
 ・発送電分離、電力改革、電力自由化、を考える。
 ・発送分離についての所見
 ・原発と社会科学(経済学)
 ・原発要稼働派と反対派の理知的な対話~原発稼働から発送電分離まで
 ・発送”配”電の分離自由化の実現可能性とガソリンスタンドの公共性について
 ・130227 院内集会「どうなる『発送電分離』・電力システム改革のゆくえ」
 ・「発送電分離」の虚妄 電力会社はむしろ大合併を
 ・2013.4.1 電力システム改革に関するセミナー「日本の電力システム改革をいかに進めていくか」

 これらを概観して思うのは、ツイッターのようなネット上で流れている情報や所論それ自体には、学べるものも少なくないですが、やはり体系的にそれだけで分かるわけではなさそう(読書ガイドにはなり得るにしても)ですし、様々な立場が「つながっている」ことを利点として交流・議論しているというよりは、タコツボなり塹壕なりにこもってしまう場合の方が多いようにも思われます。
 もう一つ気になるのはやはり、この発送電分離のトピック自体が、概して人々の関心を惹かなくなっているのではないかということです。これもまた、目の前のことにすぐ引かれる、その熱意自体は大事なことにしても、やはりころころ目移りしていてはいかんというわけです。ソーシャルなメディアもまた、従来型のマスメディアについて言えるのと同様、次々目先を変えて人目を惹きつけることでメディア自体の発展を図ってきていたのであり、そこで、ソーシャルメディアさえあれば時代は進歩する、マスコミとは違うのだ、というような安直な言説を垂れ流して、hs氏のような人々の情熱を無駄に搾取してきた徒輩の罪は軽くはないものと小生は思量します。
 それは同時に、そういったメディアに飛びつかなければならない、と人々に思い込ませ余裕のない状況に追いやってしまっている、という問題でもあります。かくて体系は見失われ、さらに余裕も失われて、問題は解決から遠くなっていくのです。

 まあ、こんなことを小生が書いてしまうのは、浮世離れした院生生活をだらだらやっていて、「社会人」でもなく「現場」に足がついていない、と言われればそれまでですが(苦笑)。とはいえ小生が今後、学位やポストを幸いにして得られたとしても、多分、「『現場』を知らない」と「社会人」から批難される人生は変わらないだろうなあ、という漠たる予感はあるので、今から対抗言説の準備はしておこうかと思います。ソーシャルメディアで支持を広げ、今やそれを失いつつある大阪市長・橋下徹氏も、学者は抽象論でバカばかりみたいな反知性主義的な発言をよくしておられるようですし、類似した傾向はしばしば目にすると感じているからです。
 しかし、ここまでだらだら述べてきたように、目先の効率ばかりではかえって世界の一極を全体と取り違えてしまうばかりです。小さな人の存在では全てのことを知ることはできない、というhs氏の思われたこと自体はもっともですが、そこで何を切り捨てるのかという目先の効率ばかりではなく、それでもなお世界の把握に向けて、可能な限りいろいろやっていくようにしたいし、何よりその方が楽しかろうと思います。
 随分前に北杜夫の本で読んだので記憶があやふやですが、リルケの言葉(マンだったかもしれない)で「自分一個のことを語って、それが世界を語ったことになる人間、それを詩人という」というのがあったと思います。詩人にはなかなか近づくことすら難しそうですが、むしろ自分が語ったことが世界につながるのかは神と後世の人類が決めればいい、と開き直って今生を送る所存です。
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by bokukoui | 2013-05-20 23:59 | 思い付き