桜桃忌によせて 『斜陽日記』の太田静子と「和田の叔父さま」のモデル・大和田悌二

 6月19日は太宰治の誕生日であり、入水自殺した太宰の遺体が発見された日でもあることから、「桜桃忌」と呼ばれて太宰を偲ぶ日となっています。こういった作家の忌日としては、おそらくもっとも広く知られているものだろうと思われ、没後60年以上を経た現在でも、この日付前後には様々な太宰関連のイベントが行われているようです。というわけで、当ブログでも便乗して? 太宰治関係の話題をひとつ。

 『斜陽』といえば太宰治の代表作として名高く、敗戦後の日本社会を表す代名詞の一つのように位置づけられ、いまさらその内容について喋々する必要はないでしょう。そして、その『斜陽』が、ある女性の手記を基にして書かれているということも、それなりに有名なのではないかと思います。

 その女性の名は、太田静子といいます。詳細はリンク先の Wikipedia でも見ていただければよいのですが、もともと文学に関心のあった彼女は、太宰に手紙を出したことがきっかけで出会い、太宰に日記を書くことを勧められ、その日記が『斜陽』の中で、時にはほとんど書き写されるようにして使われています。そして静子は太宰との交流の中で子供を授かりますが、本妻に他の愛人もいた太宰は生まれた子供を認知したものの、ついに子供の顔を見ることなくこの世を去りました。
 太宰没後、静子は愛人として津島家(太宰の実家)から排斥され、未婚の母として親類からも絶縁されるという苦しい状況の中、『斜陽』のもととなった日記を『斜陽日記』として出版しました。お金の問題もあったのでしょうが、太宰関係者方面からのひどい扱いに対して自分と生まれた子供の名誉を守りたいという思いが強かったと、その子供である太田治子は書いています(『斜陽日記』小学館文庫版に所収の「母の糸巻」)。
 当初、『斜陽日記』については、『斜陽』からでっちあげたのだなどと心ない批難もあったといいます。太宰が『斜陽』の一部にこの日記をほとんどそのまま使っていたので、そんなことを言う徒輩も出たのでしょう。そのせいか、太宰没後に出版されて以来長いこと絶版だったらしいですが、その後小学館文庫から、そして現在でも上に挙げた朝日新聞出版から刊行されているようです。
 そういうわけで現在はその価値を認められている『斜陽日記』ですが、だからといって『斜陽』が太宰の盗作というわけではもちろんありません。読み比べれば一目瞭然ですが、戦中から戦後すぐにかけての疎開生活を描いた『斜陽日記』と、敗戦後の世界で破滅しゆく者たちを描いた『斜陽』とでは、たとえ一部にまったく同じ表現があったとしても、その持つ意味は異なります。むしろ、そんな換骨奪胎を思いついた太宰治の偉大な作家としての感覚に感心し、日記を読んでそんな使い方を考えた太宰はやはり凄い作家だったといえると思います。まあ小生は文学には疎いので、思い付きですが。

 さて、史料は読んでも文学作品にはまったく疎い小生ですが、今回なんで『斜陽』の話をしているのかといいますと、それは『斜陽』に「和田の叔父さま」として、『斜陽日記』では「大和田の叔父さま」として登場する人物(のモデル)に、小生が関心を持っているからです。『斜陽』の登場人物は、主人公かず子(太田静子がモデル)やその母、弟(これは太宰オリジナルで、太宰自身を投影しているといわれる)、上原(太宰がモデル)と、みんな破滅に向かって突き進んでいくような人々ですが、そんな中でかず子母子にお金や疎開先の別荘を世話する、世俗的な力を持った人物が「和田の叔父さま」です。『斜陽日記』でもやはり、静子と母が「大和田の叔父さま」の経済的援助に頼っていたことが書かれています。
 で、この「大和田の叔父さま」とは何者かといいますと、当ブログでも何度か取り上げた、大和田悌二(1888~1987)という人物です。大和田は戦前の逓信省で次官まで勤め上げた官僚で、退官後は日本曹達の社長となって戦中・戦後の長きに亙り同社に君臨しつつ、電電公社の経営委員長などにも就きました。大和田は逓信省時代、当初は海運事業の監督に従事していましたが、昭和10年代に電力国家管理の立役者として活躍、ついに電力国管を実現しました。また退官後は日本曹達のほか、京成電鉄の取締役や監査役を長く務めました。その辺の関係で、当ブログでもこれまで、以下の記事で大和田について書いています。



アメリカ本土にシャクティ・パット~野依秀市雑彙
・京成電鉄創立百周年記念企画
 (1)幻の京成第3代社長・河野通 (2)「両ゴトー」と渡り合った男 (3)「当分」は長かった (4)さまよえる京成
近況・資料本購入状況&【捜してます】大和田悌二『神性の発掘』
総括原価方式の誕生(2) 逓信官僚・平沢要の電気行政構想
長崎事件記念日 松永安左エ門「官吏は人間のクズ」発言と内務官僚・丸亀秀雄

 当ブログにこれまで大和田に関係して記事をいくつも書いたのは、大和田の戦前の日記のコピーが東大法学部の近代日本法政史料センター原資料部に所蔵されていて、小生がそれを使って論文を書いた(書いている)途中で見つけたけれど論文で使い道がなさそうな話題を書いたことが何度かあったためです。もちろん、関連する分野が鉄道や電力に、メディアや官僚制の歴史など、小生が関心を抱いているものではあるのですが。
 で、今回はそんな中ではさほど関心のあるトピックではありませんが、大和田悌二を語る際におそらく、世の中ではもっとも関心を持たれそうな、太田静子との関係について、日記から拾い読みをしてみようと思います。といっても、他の記事を探しているときに気づいたものだけですので、完全に網羅している自信はないですが。
 さらに附言しておきますと、大和田の残された日記は、厳密には「日記抄」と題して、大和田が日本曹達の社長を退いた1965年ごろに自身の手でまとめなおされたものです。おそらくは自伝でも出そうと思ったんじゃないかと思われますが、その際に太田静子に関する記述が元の日記より削除された可能性はあります。さらに、「日記抄」冒頭には1965年の引退までの日記をまとめなおした旨の序文があるのですが、東大が所蔵・公開しているマイクロフィルムは1945年末までのものです(なので京成社長の件も最後まで追えませんでした)。ですので、『斜陽』発表当時のことは分かりませんが、太田静子が母と小田原へ疎開し、母が亡くなるまでの『斜陽日記』の期間は、「日記抄」公開分でもフォローされています。

 まず、『斜陽』と『斜陽日記』の大きな違いは、『斜陽』のかず子たちが華族という設定だったのに対し、太田静子は医師の娘であって、余裕のある生活ではあっても、別に華族ではなかったということです。ですので、『斜陽』の言葉遣いが貴族らしくない、という批判は当時からあったそうですが、それはネタ本からすれば当然なのです。
 もうひとつの大きな違いは、時代設定です。『斜陽』は敗戦後、生活の手段がない貴族の一家が東京の家を売って伊豆に引っ越す、というところから始まります。しかし『斜陽日記』の太田母子は、戦時中の1943年11月末に小田原郊外にあった空き別荘へ、主に疎開目的で引っ越しています。そこで敗戦を迎え、1945年12月に母が亡くなるまでのことを綴ったのが『斜陽日記』というわけです。
 太田静子は一度結婚して子供も生まれましたが、その子が幼くして亡くなってしまい、結婚生活も破綻して母の元に戻っていました(この辺は『斜陽』も大枠を借りています)。開業医として一家の大黒柱だった静子の父も1938年5月に亡くなり、静子の兄は結婚して家を出ていました。二人の弟も戦争で出征します。
 この辺を比べれば、子を失い夫と別れた娘が、夫を亡くし他の子供とも別れた母と、二人で戦争の時代を静かに生きた様子を綴った『斜陽日記』は、敗戦後の激動する時代の中で滅び行く者たちを描いた『斜陽』とは元来かなり違ったものといえます(もちろん太宰が日記を基に小説を書けたように、通底する何かはあります)。なので単純に静子をかず子の「モデル」とも言いがたいですし、『斜陽』の母子と作家はともかく、弟は戦争に行って帰ってきたというくらいしか共通点はありませんし、その他の登場人物はかなり変わっています。太田静子はモデルというより「『斜陽』の原案者」とすべき、という指摘もあるようですし、静子自身もアシスタントのようなつもりだったといいます。
 ただその中でも、「大和田の叔父さま」と「和田の叔父さま」はわりあい位置づけがはっきりしていて、現世的な力を持って母子の生活を左右する存在として共通しています。

 ここで登場人物の整理をしますと、太宰治に日記を提供し、愛人として子供を生んだのが太田静子で、その母が太田きさです。きさの弟が大和田悌二で、もう一人、上ノ畑純一という弟(悌二からすると兄)がいまして、日本郵船の船長だったそうですが、彼は戦前に亡くなっています。この三兄弟は大分出身で、もともとの苗字は上ノ畑でしたが、悌二は昭和初期に家族で養子に入って大和田家を継いだために苗字が変わっています。彼らは幼くして両親を亡くして祖父母や叔母に育てられる苦労をしており、そのためか大和田の日記を読むと、彼が親類の縁をとても大事にしていたことが伺えます。
 なお、『斜陽』の舞台となった河田子爵の別荘のモデル、『斜陽日記』の舞台は大雄山荘といいますが(残念ながら先年焼失しました)、これは実業家の加来金升という人物が建てたものですが、彼も上ノ畑の遠縁だそうです。大和田の日記にも、『斜陽日記』にもよく登場していますが、『斜陽』に相当するキャラクターはありません。
 ちなみに大和田家は悌二の姻戚関係らしく、一族は敦賀で回漕問屋などを営んでいた勢力家だったようです。で、俳優の大和田獏氏もその縁に連なる人らしい?です。

 『斜陽日記』の一節に、静子からみた母と叔父たちについて、こう書かれています。なお、以下の引用に際しては、『斜陽』は岩波文庫版、『斜陽日記』は小学館文庫版に依拠しますが、表記を多少改めている場合があります。また版が各種あるので、引用元のページ数は省略しましたが、どちらもさほど厚い本でもないので実用上問題はないと思われますのでご諒承ください。
 お母さまは何時も、誰かひとにすがっていなければ生きて行けないかただった。お父さま亡き後、二人の叔父さまを頼って上京していらしたお母さまが、上ノ畑の叔父さまの思いがけない死に逢って、どんなに、お嘆きになったか、その嘆きのあとで、どんなに大和田の叔父さまを頼っていらっしゃったか、私にはよく分かっていた。お母さまは叔父さまを心から尊敬しておいでになり、叔父さまの仰っしゃることは、どんなことでもきこうと思っていらっしゃった。お母さまは、そういう蔓草のような方だった。その弱さこそ、女の一番強い力となるのではないだろうか。この弱さの徳を行い得る女は、一番幸福な女ではないだろうか。
 悌二の苗字が変わったので、静子は「上ノ畑の叔父さま」「大和田の叔父さま」と呼んで区別していたのですね。一方、大和田悌二「日記抄」を読むと、きさの夫のことを大和田は「太田兄」と書き、尊敬している様子が伺えます。大和田が第三高校から京都帝大に学んでいた頃、滋賀県で開業していた医師の太田兄には世話になったそうで、大和田は後年までその恩義を大事にしていました。しかしこの太田兄、静子の「お父さま」は1938年に急死しており、それは『斜陽日記』を経て『斜陽』の登場人物の心にも影を落としています。

 前置きが長くなりました。それでは、大和田悌二の「日記抄」を、太田静子の『斜陽日記』、さらには太宰の『斜陽』と照らし合わせつつ読んでみましょう。

 「和田の叔父さま」が『斜陽』で本格的に登場するのは、「一」で別荘を斡旋する役としてです。
 十一月の末に叔父さまから速達が来て、駿豆鉄道の沿線に河田子爵の別荘が売り物に出ている、家は高台で見晴らしがよく、畑も百坪ばかりある、あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく、住めばきっと、お気に召すところと思う、先方と直接お逢いになってお話をする必要もあると思われるから、明日、とにかく銀座の私の事務所までおいでを乞う、という文面で、
 「お母さま、おいでなさる?」
 と私がたずねると、
 「だって、お願いしていたんだもの」
 と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。
 『斜陽』ではこのあと、お母さまが「もと運転手の松山さん」をお供に和田の叔父さまへ会いに行き、帰ってきてかず子に引越しを叔父の言いなりに決めた、と語るのですが、『斜陽日記』では静子も一緒に大和田へ会いに行っています。
 翌る日、お母さまと一緒に丸の内の日曹本社へ叔父さまに会いに行った。広い社長室で暫くお話して、それから丸ノ内ホテルへ食事に行った。ちょうど、従弟の英ちゃんも来合して、叔父さまと、お母さまと、英ちゃんと私と、四人で、丸ノ内ホテルまで歩いて行った。お母さまと、英ちゃんと、私を前に、叔父さまは至極上機嫌だった。叔父さまにとって、たった一人の姉と、たった一人の亡兄の長男。そして静子。
「静子はどうする? 一緒に行く?」
 と、叔父さまは私におたずねになった。
「ええ一緒に、だってお母さま、たったひとりでいらっしたらお困りになるでしょう」
 少しの間、お話をして、ホテルの前で、叔父さまにお別れした。三人は東京駅の方へ歩いた。英ちゃんは、
「叔父さんは、いい弟だなあ。叔母さんに、よくつくしているよ」と、感心していた。
「それは当たりまえじゃないの。肉親の姉弟だもの」
 と、私は言った。
 ここで登場する「従弟の英ちゃん」とは、亡くなった大和田の兄・上ノ畑純一の長男の英一という人で、『斜陽日記』にはちょくちょく登場しますが、『斜陽』ではそれに相当するキャラクターはいないようです。

 で、この大/和田訪問があったのは、『斜陽』では戦後の1945年11月になっていますが、実際には戦時中の1943年のことでした。ではこのことを、呼びつけた大和田の「日記抄」ではどう書いているかというと・・・あれ、それらしい記述が何もない! 日記を清書する際に落としてしまったようです。この辺の事情はあとでもう一度検討することとしましょう。
 『斜陽』に戻りますと、かず子母子の引越しの時に和田の伯父さまも同行していますが、『斜陽日記』では二人きりで引越しをしたと書いています。ここで『斜陽』では、
 汽車は割りに空いていて、三人とも腰かけられた。汽車の中では、叔父さまは非常な上機嫌で、うたいなど唸っていらっしゃったが、お母さまはお顔色が悪く、うつむいて、とても寒そうにしていらした。
 という描写があります。実際には大和田は同行しなかったので、ここは太宰のフィクションということになりますが、実は大和田悌二は長唄の大変なマニアで、自分で作曲してレコードまで作っていた人物でしたから、機嫌がよければ謡くらい唸るということはありそうです。この辺、太田静子が大和田の人となりを太宰に話していたんじゃないかという気もします。

 そして別荘に着いた母子でしたが、その日のうちにお母さまの体調が急激に悪化して大変なことになるのは、『斜陽』も『斜陽日記』も同じです。『斜陽』では和田の叔父さまが村の医者を呼んできて、かず子は入院を勧めものの、医者はそこまではしなくてよいといいますが、実際の『斜陽日記』では、
 ・・・が肺炎の徴候はあらわれず、熱は五日経ってもさがらなかった。孝吉さんが、大和田の叔父さまのお使いとして、アンチルンゲンと聖竜丸を持ってきて下さった。けれども、それも効かなかった。
 という事態になり、結局一週間目に小田原の病院に入院し、その後二ヶ月退院できないという重病でした。で、このお母さまこと太田きさの病気については、1943年12月3日付の大和田の「日記抄」に記述があります。
 下曽我加来金升氏別荘に疎開中の姉九度以上の発熱との報あり。英一、矢上にアンチルンゲン、龍聖丸見舞金五十円を托し見舞に赴かしむ。
 薬の名前が微妙に違いますが、おおむね静子と大和田の記述は一致しています。それはいいんですけれど、問題は大和田の日記にここまで、姉疎開の件が出てこないということです。『斜陽』では11月末に叔父さまから手紙が来て引っ越す、という話になっていますが、『斜陽日記』では「十一月の末に急に相模のさる山荘へ引越すことになったのである」とあるものの、発端の速達と大和田との面会がいつかははっきり書かれていません。
 『斜陽日記』の記述を慎重に追うと、叔父さまと会って「数日後」に大雄山荘へ加来氏を訪ねて引越しを決め、「少しでも早い方がいい、お母さまの御意見で月中にお引越と言うことになった」ので、「十日ばかり」で荷物を整理して送り出したものの、「なお一週間も、お母さまはぐずぐずしていらっしゃった。/そうして、やっとトランクを持って東京の家を出たのは、九日目の朝だった」となるので、そこから発病して数日後に大和田が見舞を送ったとして、速達を送ったのは引越しの一月ぐらい前、1943年の10月末から11月初頭にかけてのことと推測されます。

 で、大和田の日記によると、この10月下旬に日本曹達は愛知県に田原工場を開設し、21日には賀陽宮が視察に来て、大和田も当然これらに関わって出張しています。またこの9月には学徒出陣が決定して、大和田の長男・棟一もそれに該当したため、11月の中旬から下旬にかけては家族と故郷の大分の墓参に行くと同時に、家族を先に帰して西日本の工場視察もしており、月末にやっと東京へ戻ってきたようです。
 この多忙な間に姉の疎開の手配までしてやったとは、たとえ引越しに同道できなかったとしても、やはり大和田は親族を大事にしていた人だと思いますが、ただ「日記抄」にはとびとびの日付で記事があって、太田母子および上ノ畑英一と会った記事はないのです。10月末の記事の密度が薄いので、その辺かなあと思われる程度です。
 そして太田母子の引越しは11月末とありますが、この間の大和田の日記を見ると、11月24日まで田原工場に出張しており、12月1日には長男が入営するのでその見送りのほうで忙しかったようです。28日には自宅で入営壮行会を開いて、太田母子と食事に行った丸の内ホテルの料理人を出張させ、40人も集まる盛会だったと書かれています。その来客の中に「加来金升、太田馨、上畑姉、英一・・・」と名前が並んでいるのが注目されます。加来は先に説明したとおりで、太田馨は静子の兄で千葉に住んでいた人物です。上畑姉とは亡くなった大和田の兄(静子のいう「上ノ畑の叔父さま」)の妻であり、英一は先述の通りその長男の「英ちゃん」ですね。
 ですが太田姉と静子の名はなく、『斜陽日記』にもこの壮行会の記述はなく、引越しで来れなかったということなのでしょう。やはり大和田も、姉の疎開よりは息子の出征の方が重大なのは、人情として頷けるところではあります。

 しかし逆に、大和田が日記に書いているのに、『斜陽日記』ではまったく書かれていないこともあります。
 『斜陽日記』によると、1944年に2月にようやっとお母さまこと太田きさが退院して大雄山荘に戻り、それから春夏と二人で静かな日々を送っています。5月2日は静子の父の七回忌であり、その時に静子が思いめぐらしたことは『斜陽』にも取り入れられています。7月に買出しに出かけたのが母と小田原へ行った最後だったと書いていて、この間お母さまは大雄山荘を離れなかったような印象を、『斜陽日記』からは受けます。
 ところが大和田「日記抄」の1944年4月29日には、こんなことが書かれています。
 太田姉、千葉に馨の娘病気を見舞ひ、帰路立寄り一服さる。
 その後皆で墓参に行ったそうで(命日の近い太田守の墓ではないようですが)、別にお母さまは一人で東京に行くことがなかったわけではないようです。『斜陽日記』では、このお母さまの上京と馨訪問は全く書かれていませんし、きさが自分で千葉まで出かけたりしていたような雰囲気すら全くなさそうな書きぶりです。
 その一方で『斜陽日記』は、この年10月に母子連れ立っての大和田叔父さま訪問を詳しく書いています。この辺、静子と大和田のそれぞれがどのような取捨選択をしていたのか、10月の状況も検討して考えてみたいのですが、既に字数が多すぎてブログの記事ひとつの字数制限に近づいておりますので、ここで一端切って、続きは別の記事に回します。

・追記:続きは以下の記事へ。
『斜陽』「かず子」太田静子・「和田の叔父さま」大和田悌二の日記読み比べ 続き
恋と革命vs.国と革新 『斜陽』モデルの太田静子と大和田悌二の日記を読む さらに続き

[PR]

by bokukoui | 2013-06-19 23:59 | 書物