『斜陽』「かず子」太田静子・「和田の叔父さま」大和田悌二の日記読み比べ 続き

 本記事は、

桜桃忌によせて 『斜陽日記』の太田静子と「和田の叔父さま」のモデル・大和田悌二

の続篇ですので、そちらを読んでから本記事をお読みください。長くなりすぎて桜桃忌のうちに書き終わらないどころか、ブログの仕様上ひとつの記事にも収まりきらなくなってしまいましたので、本記事を続篇として立てました。



 それでは前篇の続きに入りますが、1944年4月に太田きさは息子の馨を孫の見舞いで訪れた帰途、大和田悌二のもとにも立ち寄ったことが大和田の日記にはあるものの、太田静子『斜陽日記』には全く書かれていませんでした。一方で同書には、同年10月の、母子一緒での大和田訪問は詳しく書かれています。少し長くなりますが、以下に引用します。
 十月の二十日過ぎに、二人で東京へ行った。マリアナにB29の基地が出来たので、いよいよ東京空襲も逼って来たように思われ、東京空襲が始まれば、なかなか東京へも行けない、だからB29の来ないうちに、どうしても、東京へ「さよなら」を、しに行きたいと考えていたのである。そこへ、近江の実家に疎開中の上ノ畑の叔母さまから、近江の多賀神社で英ちゃんが結婚式をあげるという報らせが来た。その手紙のあとに「こんな時節で、田舎も食糧に困っていますから、静子さまが御一緒にいらして下さっても、失礼するといけませんので、姉上さまお一人にして頂きとうございます」
 と書いてあった。お母さまは
「一緒に行きましょう」
 と仰っしゃったけれど、私は、行きたくなかった。招かれざる客はいやだった。
「お母さまお一人では行けません、だけど、私はどうしても行かれません。どうぞ、お一人で、いらして頂戴」
 お母さまは、大和田の叔父さまに相談したいと、お思いになった。そして、急に、東京へ行く決心をなさったのである。(中略)
 それは、お母さまの、本当の、東京の見納めであった。最後の上京であった。汽車の乗納めだった。ああ、そんなことを、誰が識っていよう。本当は、神さまだって、そんなこと、考えていらっしゃったのでないような気がする。だって、お母さまは、あんなに、お元気だったのだもの。
 大山町では遅い朝御飯の済んだ所で、叔父さまと叔母さまが、茶の間でお茶を飲んでいらっしゃった。お母さまは一と月程前、叔父さまに、三千円ばかりお金をかして下さい、と手紙をお書きになった。それは、いよいよ、私達のお金がお終いになったので、まさかの時に、田舎まで逃げていく汽車賃もないので、叔父さまに、少しお金をお借りになるようすすめたのであった。(中略)叔父さまからは
「ご心配なきよう」
 と折返し、お返事があったが、具体的なお返事はなかった。それで、
「今日お逢いになったら、もう一度、おねがいしてみましょう」
 と、汽車の中で、私にも話していらしたのである。
 お母さまは、叔父さまと叔母さまと、二時間ばかり雑談していらしたのだけれど、お金の話は少しも仰っしゃらない。叔父さまの家のお庭には、階段のついた、二部屋続きの、立派な防空壕が出来ていた。内部は、電燈も灯るようであった。叔母さまは二万円かかったと話していらっしゃった。私たちは防空壕どころではない。銀行の通帳には、もう三百円と少ししか残っていないのだ。
 叔母さまの前であったかしら、叔父さまは、
「下曽我にいたら、畑はあるんだし、女二人百円もあれば充分だろう」
 と仰っしゃった。そして、
「近江へは、行かなくてもいいでしょう」
 とも仰っしゃった。それで、お母さまは、安心なさった。もう近江へは、行かなくてもいい。そうして叔母さまが、ちょっと、電話口へお立ちになった短い間に、叔父さまは、隣の居間へ行って、素早く、御自分の財布から百円札をぬき出して、お母さまに、おあげになった。お母さまの眼からは、あやうく、涙があふれそうであった。静子も哀しかった。それから十分もして、おいとましたのであったが、叔父さまは珍しく、笹塚入口の橋の所まで、送っていらっしゃった。叔父さまの家の小門を出ると、お母さまは、ドンドンお歩きになるのである。叔父さまとお話しようともなさらずに、先に立って、ドンドンお歩きになるのである。橋の所で叔父さまは、立ちどまって、だまって川の流れをごらんになった。それでもお母さまは、あとも見ずに、ドンドン向うへいらっしゃる。私は、
「お母さま」
 と呼びとめた。お母さまは、ふり返って、ちょっと、立ちどまっていらっしゃったが、
「さよなら」
 とだけ云って、又、そのまま、お歩きになるので、仕方なく、私も歩いた。一丁ばかり行ってふり返ると、叔父さまは、まだ川の流れを見つめていらっしゃった。これが、元気なお母さまと、叔父さまの、最後の別れであった。
 以上、長くなりましたが、大変切実な場面です。ところがこれも、1944年の10月20日過ぎという明確な時期の限定があるにもかかわらず、大和田の日記には該当する記述がないのです。「日記抄」では10月21日の記事のあとは31日に飛んでしまい、それも米子出張という内容で、やはり敢えて記述をやめたものと思われます。出張ついでに11月3日、大和田は滋賀に立ち寄り、多賀神社で英ちゃんこと上ノ畑英一の結婚式に立ち会います。大和田が妻らを伴ったことは記述がありますが、もちろん太田母子は来ていません。

 さて、『斜陽日記』ではたびたび登場していた英ちゃんはこうして結婚したわけで、慶事なればこそお母さまも出席したかったでしょうが、実はこの結婚にも微妙な事情があったようです。そして同時に太田静子と大和田悌二の関係をも示唆している、重要な記述がありました。
 英一結婚を大和田が知ったのは、この年の3月5日で、日記によると上ノ畑姉から相手の家への正式な申込役をして欲しいと頼まれて承諾しています。昔のことですからこういう儀式は重んじられたでしょうし、やはり元逓信次官で日本曹達社長という名士の親類に依頼するのは妥当なところです。
 ところが3月12日の大和田の日記に、英一の弟の周二から、英一がかなり強引に結婚へ持ち込んだ経緯を聞き取った話が記されています。敢えて引用を控えますが、熱心のあまり学校を休んで相手の家に乗り込んだり、相当大変な裏事情があったようです。で、こんな感想(悌二のか周二のか分かりにくいのですが、周二の意見に大和田も賛同して記した、ということと思います)が記されています。
(引用註:英一が交際の急進を迫るのに相手に断られたので)英一は、これも母の不熱心と曲解し、母を折檻する言語同断の振舞ひあり。思ふに、高度の神経衰弱にて、太田静子と計良の如き結果万一あらんかと、結婚自体不安を覚ゆ。
 「静子と計良の如き結果」とはつまり、結婚生活の破綻と離婚です(計良は静子が結婚していた人物の苗字)。「高度の神経衰弱」がそういった事態をもたらしていると考えられているようでもあり、間接的に大和田らの静子観が伺えます。
 実のところ、これまでのところでも分かるとおり、大和田の日記に静子はほとんど登場せず、親類を大事にする大和田にとっては触れたくない存在であったのではないか、と思われます。この元気な太田姉の最後の訪問を日記に残さなかった理由を忖度すれば、身内を大事にすればこそ、困窮した姉の様子を書きたくなかったという配慮がありそうです。そして静子については、離婚した身内の恥として書かなかった、のではないかと。

 大和田悌二という人は、思想的にはかなり保守的な堅物といえます。いまここで大和田の思想について云々する余裕はありませんが、大和田は官僚としては革新官僚として名をはせ、自由主義的な経済人を敵視していました。自由な個人・法人の活動よりも、統制によって全体の発展を図るという発想です。すると家族像についても、個人の自主性より「家」の面子を重んじる、保守的な考えを持っていたと考えられ、姉を援助しつつも姪を無視するのはそういった考えの反映とも考えられそうです。
 とはいえ、大和田の興味深いところは、単純な「保守」というわけでもなく(革新官僚は時として「アカ」呼ばわりされました)、高等文官試験で試験官の上杉慎吉と口論になって落とされた、なんて逸話もあるところです。大和田が革新官僚として脚光を浴びたのも、時流に彼が便乗したというより、彼に時流がたまたま近づいた、という方が正しいと小生は考えます。その点、同じ逓信省の革新官僚として著名な奥村喜和男とは違います。奥村は同時代にも「喜和男の『キワ』は際物の『キワ』」などと揶揄されていたくらいで・・・。大和田は少なくとも、際物ではないと思います。
 もう一つエピソードを挙げておくと、1942年の所謂「翼賛選挙」の時、大和田は非推薦候補の若宮貞夫の応援演説に駆けつけています。若宮はもともと逓信官僚で、大和田を逓信省に入れたほか公私共に面倒を見てくれた恩人で、大和田はその恩義を翼賛非推薦より尊んだのです。さらに面白いことに、大和田はこの選挙の時もう一人、当ブログでも以前紹介した京成社長の後藤国彦が出馬していたので、これの応援演説にも行っているのですが、後藤は推薦候補でした。大政翼賛会と革新官僚の関係は必ずしもイコールではないとはいえ、やはり際物にはできない行動だと思います。・・・オチは二人とも落選した、ってことですが。非推薦で敢えて挑んだ若宮は致し方ないとしても、翼賛選挙で推薦を得たくせに落選した後藤国彦は、やはり千葉で嫌われていたんでしょうかねぇ・・・。

 話を戻して、治子を生んだあとの太田静子が親戚から勘当状態になってたいへん苦労したこと、というのも、静子がこともあろうに私生児を生んだ、それも妻のほか複数の愛人を持ち、最後は愛人と心中してしまったような作家の子供を、となれば、一族の経済的大黒柱である大和田悌二が、むしろそれこそが一族と亡くなった姉(お母さま)の名誉を守る方法と考えたのも無理はないと思われます。
 もしかすると、1948年ごろの大和田の日記には、その辺の事情が書かれているかもしれません。ここまでの展開からするとあまり期待は出来ませんが、一方で戦後の大和田の日記が公開されていないのも、もしかすると静子の一件が影響しているかもしれません。戦後の大和田は一時公職追放されるものの、親しかった岸信介のように巣鴨に引っ張られたわけではなく、まもなく日本曹達の社長に復帰していますので、公職追放関係で日記を公開しないというよりは、静子関係の方がありそうに思われます。まあ推測に過ぎませんが。

 ところで、「英ちゃん」こと英一の振舞いは確かに酷いですが、彼もまた従姉の静子と同じく、思い込んだら「戦闘、開始」と恋愛に突っ込んでいくタイプだったのでしょうか。静子同様に恋と革命に生きる血が流れていたのでしょうか。もっとも、彼の場合は時代背景が大きいようにも思われます。
 彼はまだ学生だったようですが、1943年ともなれば兵隊に取られる日も遠くないと予想されますから、その前に結婚したくて神経衰弱になるほど焦っていたとしても、不思議ではないように思われます。なんだかんだで結婚が認められ、大和田も式に出たのも、その辺の事情がある程度理解されたためかなと、これはあくまで想像ですが。
 ただ、式に静子はお呼びでなかったわけで、食糧や交通の事情が戦時下で悪化していた事実はあるにせよ、やはり離婚歴のある彼女が親類の中で置かれていた微妙な立場が影響していたのではないでしょうか。『斜陽日記』の記述からは、静子自身もそれを自覚していたように思われますが、しかしお母さまはそんなことには頓着しなかったわけで、そう考えると『斜陽日記』に描かれる母子の関係にも、ひときわ深いものが感じ取られます。

 さて、もう一つ、経済的な問題にも触れておきましょう。銀行預金が300円しかない静子らに対し、2万円!の防空壕を作ってしまった大和田家ですが、当時の2万円は今なら二~三千万円くらいでしょうか(戦時中は金があってもモノがないので、あまり意味のない換算ですが)。いやはや、大変なものです。
 実はこの訪問があったと思われる頃の10月21日の日記に、日本曹達の仮決算が載っているのですが、それによると至近の半期決算で利益が1200万円出て、社長の賞与は3万円だったそうです。ただし、これは創業者の放漫経営で経営難に陥っていた日曹の再建役として1941年に大和田が引っ張り出されて以来、やっと経営が立ち直ったので、配当を復活し賞与も貰った、ということではあるようで、これまで毎年ではないようです。とはいえ賞与以外の報酬や、兼務している京成の役員報酬(これは年6000円らしいです)、その他国債や株券などもある程度持っている大和田は、やはりそれなりに経済的に豊かな状況ではあったでしょう。
 日記を読むと、大和田は亡くなった兄の妻、上ノ畑姉には疎開資金などとして三千円ほど援助したという記述があります。となれば、実の姉にも三千円くらいの援助はあっても不思議ではないはずですが、妻の目をはばかるようにこっそり百円渡しているというのは、一族の間でもいろいろと微妙な関係があったのかもしれません。
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平尾善保『最新 住宅読本』日本電建株式会社出版部(1938)に掲載されていた(立派な)防空室の図
(この本に関してはこちらの記事を参照

 で、今のお金でいえば数千万円かかった大和田家の防空壕、実戦ではどうだったのでしょうか。
 1945年5月25日、東京最大規模の空襲・山の手空襲で、大和田家は爆撃を受けます。その時、大和田悌二と息子の棟一(兵隊に取られていたがたまたま実家に戻っていた)と娘さんとが家にいて(奥さんらは疎開していた)、娘は防空壕の中に、大和田と息子は中庭に設けられた防空壕の南北にあった入口付近に、それぞれいたそうです。
 そこへ爆弾が直撃して爆発、防空壕のコンクリート壁は外から潰されて崩れ、家が炎上します。子供たちは死んだかと大和田も覚悟したそうですが、幸い無事で、しかも子供たちの奮闘で家の火も消火できたそうです。
 アメリカ軍の焼夷弾攻撃から家を守ったというのは見事な話ですが、しかしそもそも焼夷弾は火をつけるためのもので、防空壕を崩すようなものではありません。工場などを攻撃するための500ポンド通常爆弾とかが直撃すれば、おそらく悌二・棟一父子は爆死したでしょうし、防空壕内の娘さんも同じ運命ではないかと思われます。実際、日記によると100キロの焼夷弾が降ってきたらしいです。これらの焼夷弾は、空中でばらけて小型の焼夷弾を広くばら撒く構造になっています。火災を広げるにはその方が効率がいいわけです。もちろん、バラけた焼夷弾一発でも、人間に直接当ったら悲惨なことになりますが、さすがにコンクリートの壕を崩す力はないと思います。
 となるとおそらく、大和田家を直撃した焼夷弾は、空中でバラけ損ねたいわば不発弾が、塊のまま地面にもぐりこみ(土が軟らかかったので助かったと日記にあります)、運動エネルギーで外から防空壕のコンクリートを押し潰したものの、もともと不発弾だったので焼夷弾の飛び散り具合も少なく、がんばれば消し止められるほどで済んだのではないかと思われます。これはすごい幸運ですね。普通に空中でバラけていればおそらく、大和田家は一瞬にして全体が炎上して、消すどころではなくなったでしょうし、下手をすれば大和田らがバラけた焼夷弾を浴びていた可能性もあります。
 大和田自身、この日の日記に「天助身にあり、課せられし使命の大を悟る」と書いています。まったくですが、結局防空壕は役に立ったといえるのか、どうでしょうか・・・。

 ところで、『斜陽日記』で、この大和田訪問のちょっと前のところで、静子がお母さまにこんなことを言っている場面があります。
「空襲で死ぬ人が可哀そうね。凍死って、つらいでしょうね」
 同じことを、幾度も幾度も繰り返して、お母さまは終いに、
「あなたも年寄りみたいに、グチっぽくなったのね」
 と仰っしゃった。
「だって、東京の人が可哀そうじゃないの。お金持ちはいいけれど、貧しい人が可哀そうじゃないの。お金持ちが、電燈のついた立派な防空壕の中にいる時、貧しい人は冷たい地上で、弾に当たって死んでゆくんですわ」
 この一節を踏まえれば、大和田家の「二万円かかった」「内部は、電燈も灯る」「立派な防空壕」を静子がどう見ていたのか、ということは、考えずにはいられません。

 話がどんどんずれていってしまいますので、『斜陽』へとがんばって話を戻すと、この小説の印象的なエピソードに、かず子が火事を起こしかけてしまう事件があります。これも『斜陽日記』に書かれていることのほとんどそのままで、実際に太田静子が火事を起こしかかったのは1945年8月1日のことだったそうです。その後、『斜陽日記』によると、加来が14日にやってきて敗戦の情報を伝えるとともに、大和田からの火事見舞として千円置いていったそうですが、この辺についても大和田の日記に記述はありません。
 そりゃまあ、焼夷弾が家に丸ごと降ってきたという経験者からすれば小火くらい大したことでなし、原爆投下にソ連参戦そして「聖断」と日本中が大炎上している最中でしたし、そもそも自分で起こしかかった不始末なので、身内の恥として書かなかったのかもしれませんが、しかしちゃんと見舞を贈るところには、大和田のまめさを感じます。

 当ブログの通弊で話が長くなるばかりで、書く方も面倒になってきたので、一気に話を最後、お母さまが亡くなるところまで持って行きます。まあ、そこまで大きなトピックもないのですが。大和田の日記では敗戦後、9月17日付の日記に加来金升が来て「太田姉病臥、容態楽観を容(ゆる)さずと語る(肺尖らしとのこと)」とあり、『斜陽』で高木医師が、『斜陽日記』では医師である兄の馨が「命取りになるかもしれない」と診断した、その情報が伝わってきたのでしょう。
 そして12月、お母さまが危篤となり、聞きつけた大/和田の叔父さまが自動車で駆けつけてきます。ここでお母さまが叔父さまに、最期のお願いをする場面を引用しておきましょう。
 まずは『斜陽』から。
 二人ならんでお母さまの枕もとに坐ると、お母さまは、急にお蒲団の下から手をお出しになって、そうして、黙って直治のほうを指差し、それから私を指差し、それから叔父さまのほうへお顔をお向けになって、両方の掌をひたとお合わせになった。
 叔父さまは、大きくうなずいて、
 「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ」
 とおっしゃった。
 お母さまは、ご安心なさったように、眼を軽くつぶって、手をお蒲団の中へそっとおいれになった。
 私も泣き、直治もうつむいて嗚咽した。
 そこへ、三宅さまの老先生が、長岡からいらして、取敢えず注射した。お母さまも、叔父さまに逢えて、もう、心残りがないとお思いになったか、
  「先生、早く、楽にして下さいな」
 とおっしゃった。
 老先生と叔父さまは、顔を見合わせて、黙って、そうしてお二人の眼に涙がきらと光った。
(中略)
 支那間で皆さんがしばらく雑談をして、叔父さま叔母さまは、どうしても今夜、東京へ帰らねばならぬ用事があるとかで、私に見舞いのお金包みを手渡し、(中略)とにかくまだ意識はしっかりしているし、心臓のほうもそんなにまいっていないから、注射だけでも、もう四、五日は大丈夫だろうという事で、その日いったん皆さんが自動車で東京へ引き上げたのである。
 ついで、『斜陽日記』から引用します。この日記は静子の母が亡くなるところで終わりますから、ここはほぼ最後の箇所になります。
 ・・・私は少しさがってお布団の傍らに坐っていた。すると、急にお布団の下から手を出して、そうして私を指差し、叔父さまのほうへ顔をお向けになった。何をなさるのかしら、と思っていると、もう一度私を指して、そうして今度は叔父さまのほうへ顔をお向けになると、急にいいことを思いついたというように、生き生きとした顔つきで、両方の掌をひたとお合わせになった。
 叔父さまは、大きくうなずいて、
「ああ、わかりましたよ。わかりましたよ」
 と仰っしゃった。
 お母さまは、哀願のまなざしを叔父さまのほうに向けたまま、祈るような手で指差していらっしゃった。私は、もう顔をあげることが出来なかった。
 お母さまは、安心したように、手をお布団のなかへおいれになった。
 そこへ武が、高木先生をお連れして、帰って来た。叔父さまの目に、涙がきらと光っていた。
 お母さまは、叔父さまに逢えて、そうして私のことを頼んで、もう思い残すことはないとお思いになったか、
「はやく楽になりたい」
 と仰っしゃった。先生は、カンフルの注射をして、お帰りになった。
 (中略)・・・叔父さまは、又明日も下曽我へ来ると言って、お帰りになった。お玄関で靴を履きながら、叔父さまは、
「これから下曽我へ、日参する」
 と言っていらっしゃった。叔父さまはきっと、そのおつもりであったのだろう。
 読み比べると、弟の直治の存在を別にすれば、『斜陽』はほぼ『斜陽日記』に忠実に書かれていることが分かります。なお、「武」とは静子の弟の一人で、海軍にとられていましたが、国内にいたらしく、この時居合わせたものです。

 そしてこの日のことはさすがに、大和田も日記にかなり細かく、感情も露わに書き記していました。1945年12月6日付の日記から引用します。
下曽我の太田きさ姉重態の急報に接し、とるものも取り敢えず自動車にて、妻、棟一同伴、急行す。四時着、病み衰えし姿悲し。早く苦痛を免れ度し、別に遺す言葉も無しとて、静子を指し、余に向ひ合掌さる。折々こみ上る苦痛ある様子、咽喉の痛み、水も通らぬ由、医師来る。心臓確か、今明日は大丈夫との見立てなり。
六十三年の生涯、余等三人幼にして親に永別し、長姉として母親代はりの配慮をつゞけられ、太田兄に嫁してよりも、余の学校生活についても配慮の限りを尽されし姉なり。末子通の、濠北より未帰還と、静子のことが心残りなるべし。余として可能限の努力を誓ひ、心静かに入寂あれかし。
医師の言に従ひ、見舞金千円を枕辺に置き一先ず辞去す。
 いままで相互に記述事項が食い違っていた(片方に書いていることをもう一方が書いていない)、『斜陽日記』と大和田悌二「日記抄」ですが、この日のことに関してはさすがにまったく一致しています。そして、お母さまの最後の心残りが静子と未復員の通(彼はティモールに送られていたそうですが、最後は無事帰ってきたそうです)にあったこと、大和田にそれを託したこと、そして大和田もそれを引き受けるつもりでいたことが読み取れます。実際この日も、大和田は見舞金を千円も包んで(面白いことに、これは小説の『斜陽』と大和田の日記にありますが、『斜陽日記』には書かれていません)いたわけですが、しかし太宰との一件後は、静子と大和田は絶縁となってしまったのでしょう。
 そしてこの後、大和田の再訪を待つことなく、最後の気がかりを託すことができて安心したのか、お母さまはこの日の夜に亡くなります。

 さて、話はお母さまの没後までもうちょっと続くのですが、引用の多いせいで(防空壕の話が余計だったので)やたらと長くなってしまったので、またここで切って次の記事に回すこととします。毎度ながら長くなりすぎてすみません。

・追記:続きは以下の記事へ。
恋と革命vs.国と革新 『斜陽』モデルの太田静子と大和田悌二の日記を読む さらに続き
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by bokukoui | 2013-06-22 23:59 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(0)

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