教育のはなし続き・最初は余談「兵士と主体性」

 連休中には書くとこの記事のコメント欄で宣言してしまった以上、教育についての話の続きをまたぞろ書かねばと思っているのですが、昨日の展示会の影響で頭の中が18世紀軍事史モードになっていて、余計な方向にばかり思考が逸れていってしまうのでした(逸れるのはいつものことか)。
 皆様のつけていただいたコメントから、いろいろ話を発展させたいと思うのですが、まず今日考えてみたいのは、憑かれた大学隠棲氏の「この論理が通用するのがある種上澄み層だけなのが問題点なのかもしれません」というご指摘、書いている当人もある程度認識しているだけにまことに耳に痛い点です。
 そして小生がよく読んでいるブログで数日前に「『兵士としての教育』が隠蔽され、誰もが『将軍の夢』に酔っている異常」という記事を発見。
 結局教育の主体性や何やという議論が通用するのは一部の人々に限られるのか、でもそれでいいのか、しかしそのことを考慮せずに議論しても戸塚ヨットスクール的なというか、マッチョイズム的なというか、「熱血教師」的なというか、そういった教育に対抗する論理足り得ないのではないか、とかなんとか、ぐるぐる考えてしまった次第なのでした。

 で、昨日展示会に行って、18世紀の軍の史料など見て楽しんできていたのですが、そうしていると突然「主体性」と「兵士」という言葉がくっついて、以下のような妄想がダダモレになりました。

 18世紀欧州の軍隊は、横隊による斉射戦術を採っています。歩兵は3列程度の横隊を組んで展開し、敵と数十メートル、あるいはそれ以下にまで近づいて一斉にマスケット銃を発射します。日本の鉄砲足軽と違って、個々の兵士は特定の敵を狙撃するのではなく、ただ全体で弾幕を張るのです(そもそも当時の歩兵銃に照星はついていない)。この場合、勝利を決定するのは、弾幕の中でも、そして横の兵士が弾幕にひっかかって倒れても、ちゃんと次弾を装填して発射する手順を機械的に実行し続けるという訓練の達成具合です。これがもっとも徹底していた≒強かったのがフリードリヒ大王のプロイセン軍ですな。
 この戦術においては、個々の兵士に主体性は求められません。というかそんなん余計です。如何に余計なことを考えずに、雨が降ろうが槍が降ろうが弾が降ろうが、操典通りの操作が出来るか、ということが訓練の眼目になるわけです。

 さて時流れ18世紀末、フランス革命が勃発します。貴族将校の率いる常備軍に代わって登場したフランス革命軍は、士気は高いけれど訓練していない素人集団、とても横隊戦術はできません。
 そこでやったのが散兵と縦隊の戦術でした。個々の兵士が散兵となって地形や遮蔽物を利用して敵を狙撃し(それ以前の軍隊では脱走を恐れこの戦術を大々的に採用するのが困難だった)、しかる後に縦隊で突っ込むのです。これでフランス革命軍は連戦連勝し、イエナではプロイセン軍をけちょんけちょんにやっつけるのでした。

 で、何が言いたいのかというと、近代市民社会の成立状況を鑑みるに、市民社会では、少なくとも理念上は、末端の兵士に至るまで「主体性」は必要であるということです。

 以上の話はまこと牽強付会で、「兵士」の比喩的意味と辞書的意味をわざと混同している電波な話に過ぎないのですが、でもまあ一片の意味くらいは無きにしも非ずであろうと思うのでして、社会の如何なる階級であろうと主体性が必要であるとすれば、教育においても(それが「将軍の夢」だろうが「兵士の心得」だろうが)主体性ということは常に尊重されなければならない、そう言ってもいいのではないでしょうか。
 憑かれた大学隠棲氏のご指摘はおそらくかなり正しいであろうと思いますが、しかし現実に屈するのではなく、北の将軍様のようにチュチェの旗を高く掲げ主体性という理念を近代市民社会における普遍的なものとしてこれからも考えることができるし、またすべきであろうと考えます。
 しかし、最近の父権的な教育論というか、教育基本法を改正したがっているような教育論者って、もしかして日本人は「市民」じゃなくて「臣民」だと思ってるんじゃないだろうな・・・

 余談の癖にもうちょっと続けます。
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by bokukoui | 2006-05-07 23:57 | 歴史雑談