「人間力」に抗うために~神保町「ふじ好」天ぷら革命いまだ成らず(完結篇)

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閉店直前ごろの「天ぷら革命 ふじ好」の天丼(500円)とみそ汁(100円)
天ぷらはえび・いか・鶏肉・かぼちゃ・なす みそ汁の具はわかめと青ネギと?

 本記事は
 ・天ぷら革命いまだ成らず~神保町「天ぷら革命 ふじ好」の終焉(前篇)
 ・天ぷら革命いまだ成らず~神保町「天ぷら革命 ふじ好」の終焉(後篇)

 「人間力」という魔物~神保町「ふじ好」天ぷら革命いまだ成らず(終篇)
 の続篇です。
 前回の記事で完結させるつもりでしたが、諸事に追われたり心身の疲労で書きかけのまま放っているうちに、むしろ書きたいことが増えてきてしまい、ついに最終回まで前後に分かれてしまいましたが、今度こそ完結篇です(苦笑)。それにしても、とっくに潰れた、駄目な飲食店の話がここまで長くなってしまうとは、我ながら呆れていますが、それだけこの「ふじ好」は現在の日本におけるある種の問題を強調して(戯画化して)表していたのだ、ということでどうかご勘弁ください。




 この記事は、神保町にあった「天ぷら革命 ふじ好」という、やることなすこと頓珍漢で、ネット上でウォッチされ続けた挙句、昨年11月末に閉店した店を題材に、現代の日本社会の問題について「人間力」というワードを手がかりに考えた記事…に結果としてなってしまいました。
 「ふじ好」経営者の藤本氏は、うまいものを安くという飲食店の基本的なサービスよりも、自己啓発的な宣伝文句や、「同志」である部下だとか経営者仲間向けのスローガンを、ブログなどで流布することに熱心で、しまいに2ちゃんねるにも降臨してしまった?(巧妙ななりすまし?)ために、ネットウォッチの対象となり、そしてウォッチャーが開店当初に予想したほぼその通りに、「ふじ好」の経営は失敗しました。小生は、藤本氏のような事例は現代日本でけっこう多いもので、それは「人間力」という、実態としては限定的なコミュニケーション能力程度の曖昧な内容が、複雑・高度化する現代社会(人間の評価はもとより難しいことなのに、ますますややこしくなる)で、まるで万能なもののように思われているためではないかと考えています。曖昧ゆえに、「うまく」使うと何とでももっともらしく見せかけられるのです。

 で、なるほど現代社会は諸事スピードアップしているからといえばそうなのかもしれませんが、安直で分かりやすく「ウケ」る(まさにファーストフードの如し)コミュニケーションが「人間力」として蔓延った、最近の象徴的な事例こそ、小保方晴子氏の一件であるという気がします。
 小保方氏の博士論文をめぐる、剽窃や注釈の不備というのは、そもそも論文の形式的用件すら満たしていないわけで、小生も学問の世界の端くれにいるからには、この時点で小保方氏については一切信用ならない、と判断せざるを得ません。しかるに報道を仄聞するところでは、小保方氏を支持し励ます声も強く、既存の学会が若い女性をいじめている、というように解する向きも少なくないようです。なるほどSTAP細胞が存在し、実用化されれば素晴らしいことで、「夢」はありますが、それはそれとしても、小保方氏が学問の長年築き上げてきたシステムを愚弄していることは明らかです。今回の事件はむしろ、そんな人物がなぜこんな地位に早くも登ってしまったのか、ということが重大な問題でしょう。
 釈明会見をけっこううまいこと現状では乗り切っている小保方氏ですが、そこから小生が思ったのは、まさしく小保方氏の優れた技能は、このような分かりやすく訴えかけるプレゼン能力にこそあるのであって、プレゼンの内容はコピペでも捏造でも構わなかった……とは極論ですが、そう遠くはないものと考えます。まこと、学問の危機的状況です。

 なぜそんなことが起こったのか、それもまた「人間力」的な評価軸の弊害なのではないかと小生は思います。分かりやすいプレゼンのようなコミュニケーション能力ばかりが、その場で分かりやすいがために、安易に評価軸とされてしまっているのです。これは評価側の手抜きであることは先述の通りですが、「人間力」なる看板を付すことでもっともらしさを得て、猖獗を極めているのであります。
 だいたい、人間の価値というのは極論すれば、棺桶の蓋が閉まってから分かるようなもので、生きているうちにそれを把握するのは大変です。そういった迂遠さ・ややこしさに堪えられないために、「人間力」が流行るのではないか、そんな風に小生は思うこともあります。評価される側にとってもする側にとっても、曖昧で実体がないゆえにもてあそばれているのです。

 さらにまた、学問などには専門的に積み重ねられてきた知識や手法という、身につけるのにそれなりの労力を要するために部外者には分かりにくいけれど、その世界には大切なことがあります。しかし、その分かりにくさや面倒くささから、「専門バカで人間力がない」などと揶揄され、その作法が軽視される傾向が、近年頓に目立つ気がします。
 なるほど、専門にさまざまに分化する傾向を深める現代社会では、蛸壺になってなかなか風通しの悪い状況は起こりがちです。それゆえの反動はある程度やむをえない面もあるかもしれません。かといって、だから「専門家=専門バカ、人間力こそ大事」などと言い出すのは大いなる誤謬です。専門分化の弊は是正改善することができますが、あいまいな「人間力」では、現代社会で不可欠な専門性の高い業務が行えませんから。むしろそういった場面に「人間力」が介入することにより、専門家が疲弊して本来の業務を十分に行えない、というのは、教育の場面などでよく見られることです。
 そして考えてみれば、昔からの蓄積を受け継ぎ、未来へつなげるというのは、別に学問の特権ではありません。もっともシステムがかっちり構築されている分野とはいえますが、会社や役所の仕事でも、職人技や芸事でも、家事や子育てでも、人間の営為はみんなそういう面があります。その蓄積を踏まえるというステップを面倒がって、「分かりやすい」に飛びつくようでは、結局何も後世へつなげる蓄積を行えません。

 このように考えをめぐらせてくると、「人間力」を標榜する人々が、やたらとポジティブ志向であることの意味を、別な角度から考えることもできそうです。「人間力」はまさにその人間個人のことであるゆえに、先人たちから蓄積を受け継ぎ、自分ができればそれに何かを足して後世に託す、という発想がないのでしょう。だから現世がポジティブでなければならないのです。そう考えてみると、可哀想でもあります。
 例えば学問のような体系に則っていれば、先人に敬意を払ってその財産を使わせてもらい、自分がそれを後世の人にしっかり受け渡す、そんな流れにいることで、自分一個人の人生を越えた文明を感じることができます。極論すれば、そうすれば安んじて現世の生命を終えることができます。でも「人間力」のポジティブ・シンキングには、死生観がないわけで、それが余裕のなさの究極の源泉かもしれない、そんな風に思います。
 前回の記事で紹介した、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』の「庭を歩いてメモをとる」の書評によれば(小生は残念ながら本田著をいまだ読めていないのです)、本田氏は「人間力」に振り回されないために、専門性の獲得を挙げているそうです。それはもちろん、職業選択の面で有利な対策ですが、仮に仕事に限らずとも、何かしらの分野の体系に触れ、その流れを一部なりとも感じ取ることは、「人間力」によって人生をポジティブにしようとしてかえって落とし穴に落っこちる、そんな危険を減らしてくれるように思います。――これが、かつては宗教の果たしていた役割ということかもしれません。生まれる前からあり、死後へも続く巨大な存在というわけで。
 もっとも如上の状況から思うに、むしろ専門性が「人間力」に圧迫されているとすら、最近の世相は言えそうです。専門性を「人間力」に振り回されず育む方がまず大事な気さえしています。

 話が拡散するあまり、死生観だの一身を超えた文明だの神だのと、天丼からむやみと話がでっかくなってしまいました。目の前の「人間力」に振り回されないためには、人間以上の大所高所からの視点を得ることも大事ですが、同時に「人間力」に丸め込まれない、安易な「感動」に回収されない、自分の価値観に基づく現象の観察も必要です。それなくしては、大きな話が地に足の着かないものとなってしまいます。一方で、目前のことを捉える価値観が独りよがりにならないためには、大所高所の視点が必要でもあります。

 てなことをつらつら考えていると、ソルジェニーツィンの言葉が思い浮かんできました。
「作品が余りにもアクチュアルで、作者が<永遠の相の下に>(sub specie aeternitatis)という点を見失う時、その作品はやがて死滅します。その反対に、永遠ということに多くの注意を向け、アクチュアリティをないがしろにすると、その作品は色彩、力、雰囲気といったものを失います。作者は常にスキュラカリュブディスのあいだに立っていて、どちらか一方を忘れるということは許されないのです」
『ガン病棟』(新潮文庫)の訳者・小笠原豊樹による「解説」より引用
 
 というわけで、最後にアクチュアリティにこだわりまして、「ふじ好」の天ぷらはうまかったのかどうか、書いておきます。
 ネット上の食べ回りレポで、この天丼屋密集地帯の「てんや」「ふじ好」「神田天丼家」を梯子したレポがあります。簡にして要を得た見事なレポートで、各店の特徴を適切に比較対照しておりますので、こちらをご一読いただければ宜しいかと。

 てんや×ふじ好×神田天丼家 神保町天ぷら戦争(T.Kamo de Tokyo)

 ……と丸投げしてしまうのも何なので、小生が二度ほど「ふじ好」に足を運んで天丼を食した感想を率直に述べれば、少なくとも2ちゃんねるのスレでボロクソに叩かれるほど不味いとは思いませんでした。
 「ふじ好」の特徴としては、衣がかなりパリッと硬く揚がっている感じで、衣がふわっとした感じの「てんや」と対照をなします。どっちがいいかは好き好きですが、小生の好みとしては、あんまりふんわりしたのよりはクリスピーな方が天ぷららしくて好みです。ただかなり硬めで、いわゆる「花が咲いた」といわれる感じよりは、小板状の衣がしっかり重なり合っているという印象で、硬すぎると思われる人もいるでしょう。
 閉店間近の2013年10月の場合、天丼(500円)の種はえび・いか・鶏肉・かぼちゃ・なすでした。2012年の時は鶏肉ではなく豚の角煮の揚げたのでしたが、角煮は小さかったのに比べ鶏肉は結構大きかったので、こちらの方がお得感はありました。食べた感じでも、鶏の方が天ぷら向きかなとは思います。またこの時は、いかがかなり大きく身も柔らかく、その点は「神田天丼家」以上と言いたかったのですが、惜しむらくは皮のむき方が不十分だったのか、せっかくのいかが皮が噛み切れず残る感じがしました。
 10月の時はみそ汁(100円)も注文しましたが、その具はわかめと青ネギだけでちょっと寂しい気がしました。あともう一つ、わかめのようなちょっと違うような、謎の具がちょっと入っていましたが、今にして思えばあれは出汁を取った昆布の破片だったのかなあ?と思います。

 食べた印象として「ふじ好」の残念だった点は、味よりも分量です。見た目に比べ、ご飯の量がかなり少なく、丼飯というよりは大ぶりの茶碗ぐらいなんじゃないか?という気がしました。特に「ふじ好」のタレは甘辛く、飯が進むタイプでしたから、ご飯不足感が一層強調された感があります。食後に物足りない感じが残ってしまいました。「神田天丼家」なら、600円でもみそ汁がつくので実質同価格でありながら、盛りは良く、しかもご飯を中盛りや大盛り(50円増し)にしても、ご飯粒を残さずに全部食べれば50円増し分はタダになります。味の好みはあるにしても、ここは明白に大きな差がついていたと思います。
 提供していた天丼の味については、「いもや」の居抜き店舗ではなく、向かいが「てんや」でなく、隣が「神田天丼家」でないならば、そして「革命」と喧伝しなければ、ここまでネットで叩かれることはなかったんじゃ・・・というのが小生の感想です。とはいえ、天丼家のように個性的な味というわけではなく、「革命」というインパクトはありませんでしたので、神保町の環境では特に通いたいと思わせるほどでなかったろうとも納得しますが。
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「ふじ好」が "革命" する対象だった、神保町の「天ぷら いもや」の天ぷら定食
650円でえび・いか・きす・野菜2点にご飯とみそ汁(しじみ)つきのお値打ち定食
※円安のせいか? 5月から50円値上げしてしまうそうです

 「ふじ好」閉店後の藤本氏の事業展開については、目敏く耳敏い2ちゃんねらー諸氏も未だはっきり掴んではいない模様です。小生としては、「ふじ好」で失敗した氏もおそらく退職金を失っても借金はないであろうことから、機会があれば然るべき地位で活躍されるであろうと思っているので、別段悲観はしておらず、さてこそ本記事を書いた次第です。小生が懸念しているのはむしろ、鴨頭氏の活動が社会にマルチ商法的な良からぬ影響を増すのではないか、そちらにこそ今後の注意を払うべきではないか、という方面です。
 一方神保町では、「ふじ好」閉店後の場所は大幅に改装を受け、「豊國アトリエ」というギャラリーになったようです。今年2月に所用あって神保町を訪れた際、神田天丼家で食事をした小生は、前記事冒頭写真のように閉まっていたものの、中では改装中だった跡地について、天丼家のご主人にちょっと水を向けてみましたが、以前の店については余り触れたくないご様子で、後継テナントについては「飲食店ではないですよ」とだけ仰ってました。
 これも2ちゃんねらーが探してきた記事ですが、このアトリエを作られた墨絵作家・本田豊國氏の作品は、神田天丼家にも飾られているそうで、もしかすると天丼家のご主人と縁のある方なのかもしれません。前のテナントの教訓から信用できる店子にしたんじゃないかと、ねらー諸兄は勘繰ってましたが。
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改装されて「豊國アトリエ」となり、面目を一新した「ふじ好」跡地

 最後に、本件で少なくとも一つ「革命的」だったかもしれないのは、一つの事業の起こりから消滅までが、経営者の心情をダダ流れにしながら、同時に外部のウォッチャーの執念深い観察が、逐一ネット上に実況中継?されたということでしょうか。これらをすべてログにとってまとめれば、経営学におけるケーススタディーとして役に立つんじゃないかと、これは真面目に思います。特に失敗した事業というものは資料が残りにくいのですが、その点興味深い事例ではないかと思います。B級グルメ以外の板でも注目されていたようで、まとめサイトの「ネット工作に失敗したお店」という記事は「ふじ好」のことと思われます。……おんなじような店が他にも存在していたというわけでもあるので、やはりこの件は普遍性がある程度ある傍証になりそうですね。
 「ふじ好」の提灯記事を書いたネットメディアは、従来の紙媒体を電子化しただけといえますが、この実況中継状態こそはネット時代ならではの双方向的?メディアの特性を良く生かしたのではないかと。生かした結果、特に誰かが幸せになったわけでもない、というのがオチとして苦いですが。
 しかし、小生もなんだかんだでこれだけいろいろなことを考えて書くきっかけになったわけで、自分にない「人間力」の持ち主で行動力に溢れた、藤本氏のような人を羨む気持ちも少しはあります。今となっては、氏の(しかるべき場所での)再起を祈念申し上げます。

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by bokukoui | 2014-04-20 23:59 | 時事漫言 | Trackback | Comments(0)

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