続・情理の比率

 昨日の続きです。

 昨日の記事では、「情」と「理」について、行動そのものは前者が個人(個別)的、後者が普遍的なものを求めているのではないかと考えました。
 今日は、今度は他の人から見てその行動がどう見えるかを考えたいと思います。
 他人に伝わるか、という点では一見普遍的な知識を求める「理」の方が伝わりやすそうに見えますが、しかしそうではないでしょう。普遍的な知識というのは体系化されているものですから、その体系をある程度把握していないと、要するに前提を理解していないと次の段階に進めなくなるからです。従って「理」の方法は、情報を伝える側にも伝わるようにきちんと説明する必要性が高くなると言えるでしょう。
 「情」の方は、個人的な感興を基礎にしているため、とことんまで突き詰めて考えると伝達は極めて困難であるともいえますが、比較的類似した状況下の人間の間であれば、「ある程度」は前提や体系化の必要なく伝えられるでしょう。同じ国に住んでいる、同じ文化圏に属している、という程度の前提さえあれば、「なんとなく」分かったような気にお互いなることができます。

 従って、「情」路線と「理」路線ではどちらが他人にパッと見て納得してもらえるか、どちらが他人を勧誘する上でより有利であるか、といえば、それは「情」路線ということになります。普遍的知識を求めているのに、或いはそれ故に、「理」でやっていることは、かえって周囲からは分かりにくくなってしまうのです。
 昨日の記事で小生は「決して『情』路線を批判したりはしません」と大見得を切った如く(笑)、趣味世界の拡張には「情」という趣味のあり方は必要なものなのであろうと思います。とりあえずの取っ掛かりを得るには「なんとなく」分かるような気がする「情」が向いているのであって、普遍的で正確さをめざす知識のように「きちんと」理解することは求められないからです。いきなり「きちんと」理解しろといっても無理な話で、むしろ初手からそのようなことにこだわる徒輩は、外部から見ると「何をしているのやら分からぬ連中」と怪しまれ距離を持たれても仕方がないでしょう。

 しかし、です。だからといって「情」ばかりあればいいのではありません。時に怪しい連中と思われても、「理」もまた不可欠な存在なのではないかと思うのです。
 「理」の必要性を検討するには、「情」でカバーできない点を考えてみるのがよいかと思います。「情」は個人的感興であるため、ただそれだけでは発展性に乏しく、つまり同じことを繰り返して飽きてしまい易くなる可能性が高いということです。言い換えると、取り付きやすいだろうけれど、離れても行き易いということですな。男の子の相当部分が幼時は鉄道に関心を示すのに、成長するにつれ関心を示す者が減少していくのもその一つの表れといえるかもしれません。
 ここで「理」の登場となるわけで、これは普遍的な知を積み重ねていくために、その蓄積が趣味の世界を長期的に発展させる資本として機能するのです。その世界に関連した知見を積み重ねることで、その趣味世界は長期的に成長していくことが出来るのです。個人的なものである「情」の感興は、それだけでは蓄積して共有していくような性格のものにはなりにくいのです。従って普遍的なものとして広まるということは少なく、蛸壺化してしまったり同じことの繰り返しですぐ飽きてしまったりという、趣味世界全体の発展を阻害してしまうような問題があります。そして趣味世界全体の発展がないと、結局は趣味者が皆(「情」の人も)損をすることになってしまいます。
 野田隆『テツはこう乗る』の問題点は、「情」の面に訴えて「テツ未満の鉄道好き」を勧誘するところまでは成果があろうかと思いますが、それ以上の発展性を示していないというところにあります。「どのように」乗るのかということは示していても、「なぜ」乗るのかということは示していません。ここで「俺はこうだから」以上の普遍的な論拠を示すには、「情」よりも「理」が必要になってくるでしょう。
 ですから、望ましい入門概説書としては、読者を「情」の道で誘い込んでから、「理」で蓄積し発展してゆく世界の存在も示唆する(入門者向けですから細かく具体的な説明は要らんでしょうけど)ことも必要ではないかと思うのです。入り口だけではなく、遠い先まで示して趣味世界全体の豊かさを伝えることで、長期的な定着と趣味業界の成長が図れるのではないでしょうか。個別的「情」から普遍的「理」へ進むことで、個人的な感興が普遍的な知へと発展し、それが蓄積することで趣味世界自体が豊かになっていくのです。

 ここで急いで一筆しておかなければならないのは、「情」の方法から普遍的な成果を得ることが出来ることもありうるということです。そのもっとも著名な例としては、内田百閒の『阿房列車』を挙げればよいでしょう。あの作品を無理やり要約すると(百閒は要約するという作業をすることが無意味な作物がほとんどのように思われますが)「汽車に乗る酒を飲む」をひたすら繰り返しているだけです。しかし百鬼園先生の麗筆により、それが古典的文学作品として今日まで読み継がれている訳です。
 言い換えると、「情」の道で普遍にたどり着くには、百閒並の表現力というか構成力というか、そういったものが必要であろうということですが。

 まとめると、趣味の世界には「情」と「理」のアプローチがあり、当座分かってもらったり新人を勧誘したりするには「情」の世界が重要であるが、その業界全体を長期的に発展させるには「理」の面によって蓄積をしていく必要があり、この両者がスムーズに連結することによって趣味業界は安定した構造を得るであろう、ということです。
 なお、小生がこのような構想のヒントを得る上で参考にしたのは、TRPGという趣味分野の盛衰を論じたサイト『馬場秀和ライブラリ』です。小生はウォーゲームなどのテーブルゲームは嗜むもののTRPGは全くやったことがないのですが、それでもかなりの示唆を得ることが出来ました。おそらく何がしかの趣味にはまっている人ならば、自分の好きな業界にひきつけて参考にすることが出来るであろうと思います。まず読むとすれば、RPGコラムの第一作である「RPG世代論-あるいは盛年の主張-」あたりを読めば宜しいのではないかと思います。

 しかしこの理論って、「前衛」の党が大衆を指導して革命を起こすみたいな、なんだかレーニン主義的な理屈だな・・・まあ、「党は無謬である」みたいなことをほざき出さなきゃ大丈夫だろうとは思いますけど。
 とはいえ、「情」の人=初心者、「理」の人=上級者、みたいにカテゴライズして仕舞うのはやはりそれだけでは問題があります。「情」に偏っている初心者だって「理」に繋がる探究心を持っている場合はあるだろうし、「理」の人もまた「情」の魂を持っている(それが往々にして「理」を支えている)場合もあるわけです。
 そこで、本稿では趣味業界全体の中で「情」と「理」をどう関連させるかということを検討してきましたが、続きでは一趣味者個人の内部でどのように関連させるかということを、趣味者相互の関係性から考えてみたいと思います。
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by bokukoui | 2006-05-18 23:58 | 思い付き