自民党政策集団「平河会」に関するメモ @MValdegamas さん・@jfjun さんのツイートまとめ

 しばらく前から、かつて自由民主党の議員が結成していた「平河会」という政策集団についてちょっと知りたいと思う事情がありました。平河会とは、1973年に宮澤喜一を座長として、派閥横断的な勉強会として結成された政策集団で、当初はかなり活発に政策提言などを行っていたようですが、その後の展開がいまひとつ分からず、いささか気になっていました。
 とはいえ戦後政治史なんて小生は全然門外漢なもので、そこである時お会いする機会があった @MValdegamas さんに平河会について伺ってみました。とはいえ古い上にマイナーな話なもので、さしもの @MValdegamas さんにもすぐに適切な参考文献は思い浮かばれないとのことでしたが、その後ありがたいことに調べられた結果をツイートして下さいました。そのまま流してしまうのは惜しい情報ですので、以下にまとめておきます。なお、小生自身も若干の調査を行いましたので、ついでに補足として挙げておきます。



 それでは、まずきっかけとなった @jfjun さんのツイートと、 @MValdegamas さんの一連のツイートを、以下に張っておきます。
 普通の人生十回分も平河会に関する資料をご紹介いただき、感謝にたえません。
 さて、小生も国会図書館の検索システムでいくつか探してみまして、最初にあげられた『月刊自由民主』の記事をはじめ、いくつかの資料を読んでみました。@MValdegamas さんご紹介のものと重ならないのをいくつか挙げれば、

・『講演時報』1977年8月20日号  平河会座長 宮沢喜一氏「自民党の胎動政策集団(一)」
 5ページほどの短い記事。宮澤の名前が執筆者のように冒頭に付されていますが、構成は 前文―メンバー紹介―宮澤へのインタビュー―会の概要―評価 となっています。しかしインタビュー自体は、宮澤の政見・政局観一般であって、平河会自体についての話は特にありません。評価でも、宮澤の「平河会発足の趣旨からいって今が政策集団から政治集団に変容してはならないと考える」という発言を引用しつつも、田中角栄退陣後に平河会の中から宮澤推挙の動きがあったことを挙げ、「今後も自民党の総裁選び、あるいは政策面でも平河会の発言力が高まっていくことは確実だ」と結ぶなど、政局の面からの記事という色彩が感じられます。

・『週刊文春』23巻51号(1981年12月)
  「突如「平河会」座長を辞任! 宮沢喜一官房長官が鈴木総理に喧嘩を売った」

 この時の鈴木善幸内閣の改造に際し、宮澤は官房長官に留任しますが、同じ鈴木派の田中六助が大抜擢で政調会長に就任します。これを宮澤と田中の鈴木後継をめぐる「一六戦争」として解説した、いかにも週刊誌っぽい政局記事。
 で、これによると、田中六助が政調会長になれたのは、自分の勉強会「新世代研究会」(鈴木派の議員47名が参加)なるものバックに鈴木首相へ「『派を割る覚悟がある』とスゴんだからともいわれる」のだそうで。で、それに対し宮澤も鈴木首相への揺さぶりをかけ、後援会組織の拡充に走っているとか何とか。政局に疎いといわれた宮澤が変貌した、と評し「さては近い将来に宮沢派の旗揚げかと、カン繰りたくもなってくる。・・・宮沢派の旗揚げとなれば、ベースになるのは『平河会』(宮沢氏が座長の政策集団)ということになる」と書きます。
 そこで、週刊誌記者は平河会所属議員や宮澤当人に取材するのですが、取材を断られたり、新派閥なんてないと宮澤本人らに否定されます。なんですがめげない週刊誌記者、「が、果たしてそうか」と話を続け、派内のもめごとに困った鈴木首相が腹心を派遣して、宮澤と田中に政策集団の解散を迫ったのが、これら集団の党派的性格の好例だと主張します。
 で、解散を迫られた宮澤と田中はどうしたかというと、「双方とも解散勧告に対する答えは「ノー」。結局のところ、新世代研は当分の間“開店休業”、平河会は宮沢氏が座長を降りることで話がついたのだそうだ」なんだそうで、この時宮澤が形の上では平河会座長を辞めたのは事実のようです。

 また、新聞記事について、@MValdegamas さんがかなり後の時代まで詳しく述べられています。小生も朝日と読売の新聞検索をしてみたのですが、平河会の新聞への初出は、読売の1973年7月16日に、自民党の若手勉強会の一つとして取り上げられた記事ではないかと思います。朝日では同年12月1日に平河会の政策提言を取り上げたのが早い方でしょうか。その後も、1978年ごろまでは毎年の平河会の政策提言が紙面に登場しています。
 ですが、1981年の提言を最後に、平河会はしばらく新聞に登場しなくなるようです。これは、先の週刊誌記事が報じる、宮澤の平河会座長退任と時期が合ってそうです。

 その後、1984年2月29日の朝日に「久々の平河会、宮沢氏も出席」という記事があり、会員が閣僚になった祝賀会を開いたことを報じていますが、その記事では「同会は昨年来、表立った勉強会活動はしておらず久々の会合。今後の活動について、同会関係者は「当面、勉強会を復活する計画はない」としている」だそうで、この間は活動が停滞していた模様です。
 さらに1985年10月29日の朝日では、「非創政会議員も参加 平河会が一年ぶり勉強会」との記事があり、平河会が1年3ヶ月ぶりに勉強会を行ったと報じています(ただし、宮澤は不参加)。とすると、1984年2月では当面復活する計画はない、としながら、その年の7月あたりに勉強会をやっていたのでしょうか。この記事では平河会について「毎年一回ずつ政策提言を発表するなど活発に活動してきたが、鈴木内閣時代に、同じ鈴木派幹部である故田中六助氏と宮沢氏の確執を沈静化したいとの鈴木氏の意向で宮沢氏が座長を辞任、その後は勉強会の開催なども停滞気味だった」と書いています(田中はこの年1月死去)。
 で、これ以降は平河会についてどうも目立った報道がないな・・・と思って、小生はそこで調べをやめましたが、先に紹介した @MValdegamas さんのツイートによれば、宮澤の首相時代にも名前が出てきていたとのことです。

 新聞紙面での平河会の扱いで、特筆すべきは1978年1月7日の朝日新聞でしょう。この日の新聞で平河会は、政治面でも社会面でもなく、なんと「天声人語」に登場しています。というのも、平河会の政策提言として、このしばらく前に土地所有者の私有権を公共のためにある程度制限する(これは宮澤がその前に主張していたことでもある)ことを主張していました。土地の投機や乱開発を憂える文脈で、朝日の看板コラムは平河会の提案を好意的に評価しています。
 平河会の政策については、先に @jfjun さんが紹介されていた、『月刊自由民主』の記事が詳しく述べています。この記事を書いた東工大教授の矢島鈞二は、平河会事務局長名の文章や、宮澤が書いた「社会的公正論」という論文を引用して説明しています。その考え方は、自由主義を尊重しつつも、それが放縦に堕さないような制御の必要性をみとめるもので、修正資本主義的な性格であるといいます。それは、乱開発防止のため土地所有者の私権を制限する考え方に通じますね。「自由と制御というものを、うまくバランスをとって自由社会における個の原理としての自由と、社会原理としての社会的公正との調和をはかってゆく、という趣旨の理念が平河会の中心にある」と矢島はまとめています。
 で、平河会のやり方も、各会員がさまざまな派閥に「本籍地」として属しつつ、個人としての意志を尊重する形なので、全員一致で政策提言を作るのではなく、必ず「平河会有志」として発表するといいます。矢島はこのスタイルを高く評価して、たとえばアメリカのような個々の議員が中心となった議員立法につながる道と捉え、党内調整で骨抜きになった法案ばかりが出るような自民党・社会党の状況を批判しています。
 とはいえ結論としては、 @MValdegamas さんが書いておられるように、矢島は平河会の経済への高い見識を評価しつつも、「野性味とバイタリティ」が乏しいとしています。

 ひとまず、まとめると以上のようになります。
 以下は勝手な感想ですが、平河会は彼ら自身が主張しているように、政策集団として派閥と異なった機能をけっこう真面目に目指していたのではないかと思います。が、悲しいかな政策提言の中身よりも政局談義が好きな日本の政治とそれを取り巻く環境下では、多くの人が平河会を「宮沢派旗揚げの準備」としか見なかったんじゃないかと。
 1981年の宮澤が座長を降りるときの週刊誌報道がまさにその典型です。単純に書いていることを読めば、宮澤はじめ平河会関係者は「平河会は『宮澤派旗揚げ準備』ではない」と否定しているのに、週刊誌の記者はその回答を記しつつ、初手から平河会の動きを政局的な面でしか見ていません。『月刊自由民主』の記事とは対照的です。
 政策集団として立派な提言はしたけれど、野性味とバイタリティが足らないのでそれが自民党の政治として実現せず、そうこうしているうちに宮澤の「ニューリーダー」としての重みが増してくると、平河会は宮澤派の準備工事と政局的な目から疑われて、なんとなく尻すぼみになっていった・・・という経緯なのかと、今のところそんなふうに思います。平河会の政策提言を真面目に読んでくれたのは、政治学者と皮肉にも「天声人語」の中の人くらいだった、ということで・・・。

 それにしても、平河会が表舞台から消えると、地価高騰でバブルの時代がやってくるわけで、やっぱ土地所有者の私権制限は長期的に見て正しかったんじゃないかと思いもします。自由主義万歳ではなく修正資本主義路線ということで、平河会に野性味とバイタリティがあったならば、中曽根臨調以降の「小泉改革」や現政権に至る新自由主義の暴走もいくらかは食い止められたのではないかと、政局談義以上に意味の乏しい床屋政談になってしまいそうなので、平河会の評価は今後の研究の深化に委ねて、本稿はまとめとしてここまでで終わりにします。
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by bokukoui | 2014-08-23 23:56 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(0)

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