鉄道と戦争の交錯~京成電車と戦車第二連隊の衝突事件 そして横浜線と89式軽戦車

 先日の当ブログの記事で、現在放映中の『RAIL WARS!』というアニメがいかにダメであるかということを縷々説明しましたが、それに対抗して鉄道と戦争の関係についての史実について・・・というわけでは別にありませんが、たまたま先日読んだ地方史に面白い挿話が載っていましたので、ご紹介します。

 小生が読んでいたのは、千葉県習志野市が編集した『習志野市史』です。これがなかなか力作で、通史編1冊・史料編3冊・別編1冊もあり、各巻千ページ前後もあります。小生は近代史しか読んでいませんが、習志野の近代といえば日本陸軍の一大根拠地であり、軍事に関する記述も充実しています。史料編でも陸軍関係の章が立てられており、その解説が軍事史のベテラン研究者で防衛大学校の教授も務めた田中宏巳先生でした。
 また、小生が習志野の歴史を調べようと思ったのは、この地域に京成電車が通ったことで開発が進み、軍隊がなくなった戦後は東京のベッドタウンになる、その元となった状況を知ろうと思ったためでした。で、これまた史料編に京成関係の一章があったり、通史でも項目を立てて述べられていて、充実していました。バブルごろに編纂がはじまったようなので、お金があったのかなあ・・・。



 で、その習志野市史の史料編III巻(近現代の史料を集めた巻)に、大変興味深い新聞記事が掲載されていました。『千葉毎日新聞』という新聞の、1933(昭和8)年10月24日付の記事です。以下に転載します。
タンクと電車衝突  京成実籾の椿事  双方とも被害は大  負傷者はない

 二十二日午後六時頃千葉軍幕張町実籾京成電車踏切で千葉戦車第二連隊一中隊一等兵山田真市郎(二五)外一名乗組のタンク故障修理中、津田沼発電車が驀進して来たので危険信号したが電車のヘツドライトの為め信号が判からず、あっと云ふ間にタンクと衝突電車を小破、タンクは使用に堪へない程度に大破し損害二万円を出したが電車の乗客四十名は将棋倒しとなったゞけで負傷者はなかった
 何と、踏切事故で電車と戦車が衝突! しかも大破したのが戦車の方で、電車は小破・怪我人もなし!

 小生は鉄道や軍事の歴史についてそれなりに知識を有しているつもりでしたが、こんな椿事があったということは初耳で、大変驚きました。そこで、他の新聞にもこの事件が載っていないか検索したところ、『東京朝日新聞』1933年10月23日付朝刊の、以下の記事が見つかりました。
小型タンクと京成電車衝突
【船橋電話】千葉歩兵学校第二戦車隊所属小型タンクが二十二日午後七時頃京成電車実籾駅付近の踏切で故障を生じ立往生中ばく進して来た下り一〇七号電車が衝突、タンクは大破、電車も一部破損したが幸ひ怪我人はなかつた戦車は二万円、電車は二百五十円の損害である
 時間が少し違いますが、明らかに同じ事故です。午後6時から7時の間の事故だったのでしょうね。
 さて、朝日の記事には電車を「107号」と書いています。これは列車番号や運行番号ではなく、電車の車番と思われます。すると、ちょうどこの頃の京成には「107」の番号を持つ電車がいるのです。

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京成電気軌道モハ100形モハ107号
『鉄道ピクトリアル』1997年1月増刊号(632号)京成電車特集
中村夙雄「京成の車両前史」掲載の写真

 手元の鉄道雑誌をひもといたら、まさにそのものずばり、どんぴしゃで107号の写真が見つかりました。おそらくはこの電車が、2万円の戦車を大破させたものと思われます。
 このモハ100形とは、1926年に京成が成田まで全線開通した時に、それに備え新造された電車です。京成としては初めて車体を鋼製にした電車だそうで、さすがに木造車では戦車に勝てなさそうです。もっとも、1933年ごろの京成には、モハ100形のほかモハ200形などの鋼製車があった一方で、モハ20形とかモハ45形とか、木造車も多数走っていました。事故に遭ったのが木造車でなかったのは、乗客と京成にとって幸いなことでした。
 で、このモハ100形は車体長が15メートル少々、というのは物の本に載っていましたが、重量は手元の本をひっくり返しても見つかりません。推測ですが、この当時の鋼製電車がかなり重かったことからすれば、まず30トンは下らないだろうと思われます。ちなみにこの107号、戦後も新京成電鉄に譲り渡されて車体更新を受けながら長く働き、廃車になったのは昭和も終わろうとする1987年!でした。戦車とぶつかってもびくともしないほど、頑丈にできていたんでしょうね。

 というわけで、電車の方は新聞記事から正体が判明しましたが、問題はぶつかった相手の「タンク」です。朝日によれば「小型タンク」だそうですが、こいつはいったい何なのでしょう?

 その前に、戦車の所属をはっきりさせておきましょう。千葉日日は「千葉戦車第二連隊」、朝日は「千葉歩兵学校第二戦車隊」と所属部隊が異なっています。これは、習志野市史通史編などによると、もともと1925年に歩兵学校で戦車隊が創設され、それをもとに1933年8月(つまり事故の2ヶ月前)戦車第2連隊へ改編したのだそうです。となると、これは千葉日日の方が正しく、朝日は改編前の部隊名で書いてしまった、ということになりそうです。
 習志野市史を見ていると、他にも千葉日日新聞から引用の記事がありまして、この事故報道の翌日・1933年10月25日付の記事も軍事関係の史料として引用されていました。その記事は、もともと現在の千葉市にあった歩兵学校から、現在の習志野市にあった元騎兵連隊の兵舎へ、戦車隊が引っ越した、というものでした。連隊長やご真影を捧持した副官を乗せた乗用車が先陣となり、そのあとに戦車などが続き、住民が日の丸の旗を揚げて歓迎する中を行進して引っ越した、とあります。この引越しが10月24日、つまり事故の翌々日のことです。
 ここから推測すると、朝日の記者は、引越しするまでは歩兵学校戦車隊で、引越したら第2戦車連隊だ、と思っていたのかもしれません。
 ちなみに25日付の戦車隊引越し記事を読むと、引越しパレード中に通った地名に「実籾」があります。ことによると、電車とぶつかった戦車も、この引越しをかねたパレードの予行演習でもしていたのかもしれませんね。これは思いつきに過ぎませんが、ともあれ戦車がこの周辺の一般道を走るのは当時よくあったことで、近隣の住民にも親しまれていた、とは習志野市史通史編が述べているところです。

 さて、ではここで衝突した戦車の正体について考えてみましょう。といっても、小生は戦車の参考文献はろくに持っていないので、大雑把な話ですが。
 1933年といえば、日本陸軍でははじめての国産戦車である89式軽戦車(のち中戦車に改称)を生産していた頃です。となると、これは89式でしょうか? しかし、気になるのが千葉日日の記事にある「一等兵山田真市郎外一名乗組」です。これはつまり、乗組員2名ということになりますが、89式は4人乗りです。まあいつも全員乗っていたとは限らないでしょうが・・・。
 もうひとつ気になるのが、乗員として名前の出ているのが一等兵という点です。戦車は普通、士官か下士官の車長が指揮を執る筈なので。訓練ではなく回送のような業務中だったんでしょうか? それにしたってやはり責任者はいるはずで・・・。

 新聞記事はどちらも、戦車の損害を2万円と伝えています。戦車は「使用に堪えない」くらい大破したそうなので、2万円が戦車のまるごとの価格ということなのでしょう。89式戦車の価格を小生は知りませんが、ちょっと検索してみたら、後継の97式中戦車が15万円という記述がありました。2万円の「小型タンク」と比べると、ずいぶん高いですね。
 インフレの影響を考えると、97式の時代の15万円は1933年の事故当時の10万円ぐらいかなとも思われますが、12トン100馬力の89式と15トン170馬力の97式とで、お値段が何倍も違うとはちょっと考えにくいところです。やはり2万円の「小型タンク」は89式ではなく、もっと小型の別物ではないかと推測されます。

追記:大和路特急 ‏@yamatojiexp さんからツイッターで、こちらのサイトをご教示戴きました。これによると、1937年度の89式中戦車の価格は8万円とのことです。1933年でも2万ということはあり得ないですね。

 それでは、千葉の戦車隊には他にどんな戦車があったのでしょうか。習志野市史の通史編では、1925年に歩兵学校戦車隊が創設されたときの装備を、イギリス製のホイペット中戦車3両とフランス製のルノーFT軽戦車5両と書いています。前者は14トンで3人乗り、後者は6.5トンで2人乗りです。となると、ルノーの軽戦車であれば、89式やホイペットと比べ明らかに小型であり、「小型タンク」と呼ばれるのは妥当です。
ルノーFT17軽戦車 第1次大戦末期の連合軍主力戦車で、戦後多くの国に輸出された
(Wikipedia の写真をリンク)

 当時の日本軍にはもう一種類、フランスから輸入したルノーの戦車がありました。ルノーNC型戦車といい、これも2人乗りで重量が8トン弱なので、やはり89式より小型とはいえます。ただ、この車両が1933年当時の戦車第2連隊にいたかどうかは分かりません。この戦車は、89式の生産がはかどらないのでつなぎに輸入し、満州事変や上海事変に投入されたそうです。なので1933年には本土に引き上げられていた可能性はありますが・・・。
 この時期の輸入品では、イギリスからのヴィッカーズ6トン戦車というのもありましたが、3人乗りなのでおそらく違うでしょうね。

 さらに対象を広げて考えてみましょう。日本の新聞やテレビが、歩兵戦闘車などのことを大雑把に「戦車」と報じ、ミリオタが「あれは戦車じゃない!」と噛み付く、なんてことがよくあります。戦前のメディアも、同じように装甲砲塔やキャタピラを装備した車両であれば何でも「タンク」と称していたのかもしれません。
 というわけで、装甲装軌車両全般を見渡すと、ちょうどこのころ生産が始まっている92式重装甲車というのがあります。装甲車といいつつ見た目はキャタピラに砲塔(装備しているのは機関銃ですが)を持ってまるで戦車です。ただこれは、騎兵科の所属(なので歩兵科の装備とされていた「戦車」を名乗らなかった)であることからすると、元歩兵学校戦車隊の装備とは考えにくいです。乗員も3人乗りですので、違いそうです。
 2人乗りの戦車みたいな装甲車というと、日中戦争で活躍した94式軽装甲車というのがありますが、1933年ではまだ開発中です。ですが、この車両の開発時に参考にしたという、イギリス製のカーデン・ロイド豆戦車というのがあります。
大砲を牽引しているカーデン・ロイド豆戦車 戦車というよりは軽輸送トラクター
(Wikipedia の写真をリンク)

 この車両は、前線で戦うというより、装備や弾薬を輸送するものですが、俗に「豆戦車 tankette」と呼ばれていました。94式軽装甲車も当時は「豆戦車」「豆タンク」と呼ばれていたといいます。「小型タンク」と呼ばれてもおかしくはなさそうですね。「豆」と「小型」は別だ、ということもあるかもしれませんが・・・。

 ざっと見てきましたが、京成電車と衝突した「小型タンク」は、ルノーFTが一番ありそうで、もしかするとルノーNCやカーデン・ロイドかもしれない、というぐらいのことしか現時点の小生の知識ではいえません。
 また、乗員に将校や下士の車長がいない、というのは、輸送用車両ならばトラック同様兵任せであった、とは一応考えられ、ルノーFTの場合は旧式化していたので、やはりトラック程度の扱いになっていた?ということもあったのでしょうか。疑問は尽きませんが、小生は戦車には疎いもので、陸軍に詳しい方のご意見を期待しております。

 さらに余談ですが、1933年の新聞を「戦車 事故」などで検索していたら、読売新聞のこんな記事が引っかかりました。
新造のタンク 列車と衝突大破 多数重軽傷を負ふ
【八王子電話】 六日午後十時十分頃東京市荏原区中延街一四〇八三菱航空機株式会社東京製作所の陸軍省引渡し戦車五台が神奈川県厚木から八王子に試運転中府下南多摩郡由井村片倉地先横浜線踏切で九時四十五分原町田発の下り八王子行旅客列車に中央の一台が衝突約五十米引摺られ粉砕搭乗者同社職工齋藤有徳(二七)は頭部に永井一夫(三〇)古賀増太郎(三〇)鈴木勝三(二七)の三名は胸部に重傷八王子市仲町肥沼病院に担ぎ込み手当中である、機関車は前部を小破したのみだつたが、運転手鈴木幸雄(四〇)助手高木達蔵(二五)の両名も顔面に打撲傷を負ひ、八王子駅では直に保線区機関庫から救援隊を出動せしめ由井村青年団在郷軍人会と協力列車乗客六十余名を自動車で八王子駅に運び救援に努めたが乗客中にも十数名の打撲傷を出し同駅は大混雑を極めてゐる
 最初、京成の事故のことかと早とちりしましたが、これは1933年7月7日付読売新聞朝刊の記事です。場所も横浜線で、現在は八王子市の一部となっている由井村と、違っていますね。
 こちらの事故は、工場の職員が試運転中に事故を起こしたものです。1933年に三菱で製造中の「新造のタンク」とは、これは89式軽戦車(中戦車)と断定して間違いありますまい。4人乗りでもありますし。
 89式とは皇紀2589年=1929年採用の意味ですが、日本最初の戦車生産だけになかなか順調には進まず、先述のようにつなぎでルノーNC戦車を輸入して満州事変などに投入する有様でした。そうやって生産された貴重な新鋭戦車なのに、軍に納められる前に事故で「粉砕」されてしまうとは・・・。納入前の全損だから、三菱が無償で代車作ったんでしょうかね。
 なおこの記事では「新造のタンク」と見出しにあり、昔は意外と戦車を「タンク」と呼ぶことが多かったようです。「戦車」という漢語からはむしろ、中国の古典に出てくる馬車の方を連想する人が多かったのかもしれませんね。

 こっちの事故では「タンク」が89式で間違いないと思いますが、一方89式を粉砕してしまった鉄道省横浜線の機関車は何者だったのでしょうか?
 横浜線が横浜鉄道として開業した当時は、アメリカ製の軸配置プレーリー形タンク機関車を導入しており、また戦後も貨物列車用にC58が使われていたのは、手元の本を見たら載っていました。しかし1933年はどうだったのでしょう? 横浜線はこの事故前年の1932年に東神奈川~原町田(現在の町田)までが電化され、旅客列車は電車になっていました。しかし原町田~八王子間はトンネルの高さの問題などから非電化のままで、1933年10月からガソリンカーが投入されています。とはすなわち、7月の事故のときは、やはり蒸気機関車運転ということですね。もしガソリンカーだったら・・・戦車とぶつかったら惨事になっていたかもしれません。当時のガソリンカーは出力が弱く、車体を軽量化(当時の気動車は20トンくらい)して対応している分、強度は低かったでしょうし、ガソリンは爆発炎上しやすいですし。
 で、89式軽戦車を粉砕した蒸気機関車なのですが、よく分かりません。ただ、検索してみたら、明治時代にイギリスから輸入したテンダー式蒸気機関車をタンク式に改造したB10が、横浜線に投入されたという記述があります。横浜線の場合、蒸気機関車による旅客列車は原町田~八王子間の比較的短距離のみの運転ですから、旅客用にタンク機関車を使う、というのはありそうなことです。
 仮にB10か同等程度の蒸気機関車であれば、重量はざっと50トンというところですから、やはり12トンの89式は「粉砕」されてしまうのも致し方のないところでしょうか。ドイツ軍の有名なティーガーI戦車なら60トン近い(ティーガーIIに至っては70トン弱)ですから、逆に機関車の方を粉砕したかもしれませんが、1930年代前半にはまだそんな怪物は存在していませんでした。
 余談ですが、戦車とはいわば「特殊な自動車」ですので、自動車メーカーが製造する場合が多いです。しかしドイツでティーガー戦車を製造したヘンシェル社は、ドイツ最古参の蒸気機関車メーカーでした。現在ドイツでレオパルト戦車を作っているクラウス=マッフェイ社も、蒸気機関車を作っていたクラウスとマッフェイが合併した会社です。クラウスの機関車はローカル私鉄向けに日本でも数多く輸入され、またヘンシェルやマッフェイの機関車も明治時代にたくさん輸入されています。戦車の重さは、自動車より機関車に近いから・・・?というわけでもないのでしょうが、面白い傾向です。
 まあ、日本でも89式を作ったのは「三菱飛行機」ですがね・・・(のち、三菱造船と合併して三菱重工になります)。

 以上、1933年の日本で起こった、鉄道と戦車の衝突事故2件でした。まだ戦車があまり発展する前の時代で、日本陸軍の戦車は電車や機関車に破壊されてしまう結果に終わっています。
 まあ、陸軍としてみれば、鉄道車両が突撃してくるというのは戦場で想定する必要が全くないですから、踏切を渡るときに注意しましょう、という一般的な教訓以外は出しようがありませんが、これをきっかけに陸軍が「軍が公用で道路を使う場合は鉄道の方が止まれ」なんて文句をつけたりしなかったのか、気になります。一般的には踏切事故は自動車側の責任ですから、実籾の事故の場合は陸軍の方が京成に250円弁償してもいいくらいですが、逆に京成へ戦車のカネを弁償しろと圧力をかけたりしたのではないか、そんな懸念が浮かびます。
 というのも、京成電車と戦車の衝突事故を報じた朝日新聞の紙面には、すぐ横にゴーストップ事件の記事が載っているのです。
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1933年10月23日付『東京朝日新聞』朝刊の紙面
「小型タンクと京成電車衝突」の記事のそばに「ゴー・ストップ事件」の記事がある
(この画像はクリックすると拡大表示します)

 ゴーストップ事件とは、1933年6月に大阪の街で、信号無視した兵士を巡査がとがめたところ、兵士がそれを無視して反抗するので、巡査が兵士を交番に連行してもめたことをきっかけに、軍が警察に「軍人を侮辱した」と謝罪を要求したという事件です。警察も軍の態度に反発して、解決まで5ヶ月ももめる騒動になりますが、もとはといえば兵士の交通違反が悪いわけで、軍の横暴を象徴する、戦争へなだれ込むその後の日本を予告するような事件と、現在では捉えられています。
 で、京成電車が戦車を大破したのはちょうど、第4師団と大阪府警がもめている時期なんですよね。事故の後始末で、戦車第2連隊は京成にどんな態度をとったのか、これは今となってはなかなか分からなさそうです。

 日本の軍事史研究は、最近では戦争だけではなく、平時の社会にどんな影響を軍が与えていたか、ということが注目される傾向にあります。今回取り上げた事故は、いわば軍事と技術と地域が踏切で交錯したともいえ、今後こういった出来事もミリオタや鉄道マニアによって発掘され、歴史の中で位置づけられていけばいいなと思います。小生の調査は新聞記事をいくつか探した程度でごく簡単なものですし、不明な点も多いので、ぜひ興味をもたれた方が研究に取り組んでくださればと願います。
 しかし、今回89式軽戦車(中戦車)の値段っていくらかな? と「89式中戦車 価格」でネット検索をかけたところ、ほとんどは「ガールズ&パンツァー」なるアニメ関連のグッズ類通販ページばかりであったのには、げんなりさせられました。こういうことを書くと最近は「傲慢」「老害」などと叩かれるのがオチですが、ガルパンにせよ枕で触れた『RAIL WARS!』にせよ、美少女キャラクターの安易な導入は、軍事趣味や鉄道趣味にとって長い目で見れば有益なものではないと小生は考えます。それは結局、多くの知識を蓄積し体系化する趣味が、「萌え」コンテンツにつまみぐいされているに過ぎないからです。技術の体系もインフラの整備も予算のやりくりも兵士の汗も、みんな「美少女」に還元するような発想は、大変悪趣味なものです。その悪趣味さを深く自覚している前提がなければ、それを楽しむ者の精神こそが陋劣なるものである、小生はそう信じているのです。
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by bokukoui | 2014-09-03 21:11 | 鉄道(歴史方面)