鉄道の話(主として衛生に関する話)続き

 昨日の続きです。

 昨日紹介した記事に「中国の列車の乗客は窓からやたらとゴミを捨てる習性を持ち合わせている」という一節があり、また檸檬児さまからも「当時(日露戦争後)は汽車の窓からゴミを捨てるのは当たり前という一般感覚だったのかと、そっちの方が気になりました」というコメントをいただいたりしたので、列車内マナーについて少し思うところなどを書くことにします。

 今話題の阪急電鉄の経営者として名高い小林一三について、没後(1957年没)編まれた『小林一三翁の追憶』という本があります。小林一三と関係のあった人々による個人の思い出話集で、まあ実も蓋もない言い方をすれば提灯記事が六百ページともいえますが、読み方次第では結構面白いものあって、ここで一つ阪急の社長・会長を務めた佐藤博夫の回想から一節引用。
 私の運輸課長時代のこと、日曜や祭日には、先生(引用注:小林一三)はよく電車で駅々を廻り、殊に、箕面や宝塚には屡々行かれた。私も職業柄、沿線を巡回していると、お出会いすることが再々あった。時候のよい休日などは、家族連れの乗客が多く、車内で盛んに蜜柑や栗を食べては、皮をあたりに散らかす人がいる。そんなのを見かけると、先生は見兼ねて、すたすたとその前に行かれ、懐から懐紙を取り出すと、膝の上に置いて、これに包んで腰掛の下に置くよう仕ぐさで注意され、後はまた素知らぬ顔をして私と話を続けられる。――そんな場面が度々あった。(同書p.261)
 佐藤が運輸課長だったのが何年ごろか正確には調べていませんが、明治40年に就職、昭和十年代に第5代社長に就任していることから察して、大正末~昭和初頭ぐらいだろうと思います(後で調べておきます)。
 で、この話から読み取れることは、

1.戦前の人間は電車の中にゴミを散らかすことが度々あった
(しかも阪急で週末ハイキングなぞに出かける層となると、中間層である可能性は高い)

2.散らかすことに小林一三は不快感を示したが、紙に包んで腰掛の下に置くのならオッケー。
 ということです。

 要は昔の人の車内マナーはそれほど今から見ていいというわけでもなく、また求められる水準自体もさほど高くなかったということですね。だから『三四郎』の時代に汽車の窓からゴミを捨てたとしても別に不思議ではありません。
 今手元に資料がないのですが、『鉄道時報』という、確か今の交通新聞の先祖に当たる業界紙の復刻版(1900年頃の)を読んでいたら、乗客のマナーの悪さを嘆く業界人の投書があって、なかなかすごいものがありました。車内でタバコを捨てる輩(当時の客車は全て木造車です)、ナイフの切れ味をシートで試す奴(キれる乗客?)、ダイヤの指輪を自慢しようとガラスを引っかく徒輩(成金ですな)、とまあ今よりひどいもんですが、これが当時の水準であったということです。明治時代の人は、まだ近代的な公共空間での振舞いを身につける途上であったともいえましょう。とりあえず、マナーについて論じるときに「昔はえらかった」とあまり言わないほうがいいとは思いますが。あれは限定された秩序内での作法の話であって、多分公共空間での近代的振舞いとは異なるところもあると思うので。

 閑話休題、ではいつから日本人は車内にゴミを捨てなくなったのでしょうか。実はこの手がかり、昨日紹介した『星さんの鉄道昔ばなし』に書いてあったりします。新幹線に関する章からちょっと引用してみましょう。
・・・気を使ったのは、車内が汚れないようにすることだね。その結果、ゴミ箱を必ず使うというクセがお客さんにつきましたね。降りる前に、ゴミを持ってゴミ箱のとこまで行くクセが。新幹線みたいにきれいだと、ちょっと車内にゴミを捨てるわけにいかないしね。そういうことが非常に良くなったと思いますね。(同書pp.140-141)
 だ、そうです。新幹線ごろから列車が綺麗になって捨てにくくなった、確かにこの少し前頃から車輌の床が木張りからリノリウムとかになっていきますね。こういったことの積み重ねが、次第に車内でのマナーとして要求される水準を向上させていったのでしょう。

 というわけで、中国の旅客が窓からゴミを捨てなくなるには、エアコンが普及したり列車が高速化して窓がはめ殺しになっていけば、当然捨てられなくなるはずです(笑)。
 中華民族はそんなことにへこたれない? という声もありそうですが、高速鉄道が実際に開業すれば、やはりいくらかは向上もするのではないかと思います。もっとも、上海の人が捨てなくなっても、甘粛あたりまで普及するのには年月がかかりそうですが。
 ともあれ、案外マナーという「上部構造」も、車輌の性能向上みたいな「下部構造」によって変わってしまうもんなんじゃないか、そんな風に思います。

※さらに補足記事→「鉄道と衛生の話・補足」
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by bokukoui | 2006-05-30 23:57 | 鉄道(歴史方面)