メイド徒然話~スパゲティ理論本論(3)完結篇

 昨日の続きです。やっとおしまい、の予定。

※追記:この一連の記事は、再編集・加筆訂正の上、MaIDEREiA出版局サイトこちらに収録してあります。

 スパゲティの歴史を、小生の愛読書である石毛直道『文化麺類学ことはじめ』(講談社文庫から再版)を参考にして述べれば、パスタの由来はよく分からないが(ローマ時代にラザニアの元があったという説あり)12世紀ごろ以降から記録に顔を出しているとの由。17世紀ごろからナポリで現在のような押し出し機によるパスタの大量生産が行われ、またこの地で17~18世紀にトマトソースがパスタ調理に用いられるようになって、これがフランス料理に取り入れられて「ナポリタン」の語源になったのだとか(有名な話ですが、ナポリにナポリタンはないのです)。
 さて、イタリア南部は貧しかったもので移民の流出が多く、19世紀に多くの人がアメリカに移民しました。それに伴ってイタリア料理がアメリカにも伝わり、同地でも食されるようになりました。
 ところがここで一つ問題がありました。スパゲティは本来硬質小麦の粉で作られています(デュラム・セモリナというやつですな)。これによって独特のコシと色合いが出るのですが、これはイタリア南部特産で北イタリアでも作られていなかったそうで、アメリカでも入手困難だったらしく、アメリカでは普通の小麦で作られたスパゲティが缶詰で流通するようになり、それがスパゲティとして通用します。それは糊のように柔らかくべったりしていて、アルデンテとは程遠いものでした。
 スパゲティの歴史を長々書いていてもしょうがないので以下端折りますが、このアメリカ版スパゲティが日本に戦後移入され、例えばスパゲティナポリアンなぞになったわけですが、もちろんこれは実際にナポリで食されていたスパゲティとは大違いなシロモノだったのです。
 そして、比較的後年になってから(1980年代くらいでしょうか)、よりイタリア本国のそれに近いスパゲティが改めて日本に導入され、喫茶店のナポリタンと異なるイタメシのパスタが都市部を中心に普及しました。かのバブル演出集団・ホイチョイプロダクションの漫画『きまぐれコンセプト』のネタだったかと思いますが、イタメシ屋に行ったおじさんが「ナポリタン」と注文して呆れられる、というのがありました。スパゲティのイメージが、年代差や地域差を反映していたんですね。もっとも今では、そんなことは余りなくなったでしょう。むしろ「昭和レトロ」ブームとやら(これも「メイド」ブーム並み、いやそれ以上に怪しいと思います)のせいでナポリタン的なものがかえって称揚されたりもしていますね。

 で、やっと「メイド」の話になるのですが。



 前に引用したとおり藤木隻氏の主張では「おたく文化から生まれたメイドさんは、メイドという西洋様式に東洋様式の慈愛を詰め込んだ、和魂洋才のアンパンだったのである」ということでしたが、小生はこの「メイド=アンパン」説に対し、スパゲティ理論なるものを提唱すると以前の記事で放言しました。その理由は、くだくだしさに耐えてこれまで拙文をお読みいただいた方々にはもはや明らかであろうと思います。
 つまり、東洋と西洋の対立というよりも、近代のある状況下においての対応策としての差異と見た方がいいのではないかということ、そしてまた「メイド」のイメージは、本国から直接やってきたものと、途中で変形を加えられつつ伝承されてきたものと、二つの由来がある、ということです。イタリア料理店のパスタと喫茶店のナポリタンのようなものです。前者を食う人が後者を食う人をバカにするのは、バブルの時のそれのようで、結構なこととは思えません(イタリア料理店のだって日本のそれはやはりいくらか日本化されているし)。発展の経緯がちょっと異なっているだけです。
 そして、スパゲティの場合はアメリカ経由でしたが、「メイド」イメージの場合も、フレンチ系はアメリカ経由であると思われる節があるのです。

 フレンチメイドの発祥自体は昨日の記事に述べたようにヴィクトリア朝末期に遡りうるのではないかと思いますが、それがいわゆるSM趣味の形を整えるのは、随分前に「今週の一冊」第2回で引用したように、1930年代のことのようです。
 ではそれが如何にして日本に浸透してくるのかといえば、以前に「今週の一冊」第67回で紹介したことのある北原童夢『フェティシズムの修辞学』という本に拠れば、アメリカで1946年に発行されたボンデージ雑誌を日本の雑誌が転載したことがきっかけだそうです。フレンチメイドの発祥はヨーロッパですが、密やかな遊びだったそれを広く発展・普及させた功績はアメリカにあるようです。

 以下は余談に近いのですがついでに。
 北原氏はアメリカでのこの手の趣味普及に、ジョン・ウィリーというアメコミ作者・写真家を高く評価しておられます。そのウィリーのコミックの出版など、1950年代におけるこの業界のプロデューサーとして著名なのがクロウ兄妹という人たちで、彼らは自身でもこの手の写真撮影を行っていました。
 クロウ兄妹のボンデージ写真の中でも圧倒的な人気を誇り、この業界の拡張にもっとも貢献したであろう伝説的なモデルがいます。彼女の名はベティ・ペイジといいます。見てみたい人は Betty Page で検索してください(万単位で出てきます)。彼女は1950年代を代表するセックス・シンボルとして、1950年ごろから1957年に行方を晦ますまで、撮られた写真の数はマリリン・モンローとシンディ・クロフォードを足したより多いとか何とか言われている、ボンデージの女王だったのでした。彼女の写真は今でも高い人気を誇っているそうで(2000年に昔のフィルムがDVD版で再版された)、こういった趣味の一般化に多大な(おそらく最大の)影響を与えたといえるでしょう。
 ますます余談ですが、クロウ兄妹ではお兄さんのアーヴィング・クロウは専らプロデューサー業に徹し、妹のポーラが緊縛と撮影を担当していたのだそうです。うーん、この兄妹もなかなかスゴイですね。
 で、以上の話はSM・ボンデージに詳しい人からすれば噴飯物の珍説であろうとは思いつつも、一応結論めいたことを述べてみようと思います。ここは恰好をつけて、アンリ・ピレンヌの有名な言葉「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」をもじって、こう結論付けたいと思います。

 「ぺティ・ペイジなくしてクレア・バートンなし」

 二次元のエロと三次元のエロは、決して対立するものではなくて、相互に影響を与え合ってきたと考える方がよいのではないかと思います。風俗業界がアニメ系ネタを取り入れるのは「メイド」ブーム以前にもあったことだし(90年代にセーラームーンのコスプレ衣裳のある風俗店は決して珍しくなかったはず)、逆に二次元のエロだって、三次元のそれを利用して自らのコンテンツを形成していったはずです。
 『電波男』など「萌え」を強調するような見解、二次元と三次元の相違を強調するような意見は、こういった考え方をすることで止揚できるのではないかとすら小生は夢想していますが、まあこれはホントに電波というとこですかね。

 長々とお付き合いありがとうございました。
 最後に蛇足ながら思いついたのは、ベティ・ペイジがクロウ兄妹の下でデビューしたのが1952年で、1955年に入ると上院の猥褻物調査委員会に目をつけられて様々な圧力をかけられ、ついには写真の原版の大部分は破棄を余儀なくされてしまった(それがベティの神格化を進めたともいえそうですが)そうです。この間の、ベティ全盛時代というのは、ぴったりマッカーシー旋風の吹き荒れていた頃と重なるんですよね・・・。 
 ま、ともあれ、読んでいただいた方はお疲れ様でした。お休みなさい、そして皆様のこれからのメイド趣味に幸いあらんことを(グッドナイト&グッドラック)。
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by bokukoui | 2006-06-06 23:58 | 制服・メイド