昼間たかし『コミックばかり読まないで』略感、及びイベント告知

 「革命的非モテ同盟」のクリスマス粉砕デモは無事に終わり、小生は多忙で足を運べませんでしたが、海外にもネットを通じてデモの存在が報道されたようで、まずは成功だったようです。もう革非同のデモも十年目になるでしょうか、ここまで根強く続いていることを嬉しく思います。

 この活動を介して、小生多くの人に出会いましたが、その中の一人がルポライターの昼間たかし氏です。それほど交友があるわけではないですが、以前鉄道関係の記事話題を提供したりなんかしたこともありましたっけ。で、そんな昼間氏が先日単著を発表されましたので、紹介かたがた少し感想を述べたいと思います。ただ、それは小生が現在博論執筆が追い込みであるということと、以下に述べるように、本書が実に広い幅を持っているがため、そう簡単に感想を筆に出来るものではない、という理由から、感想はごく簡単に、以前ツイッターで書いた内容をまとめておくにとどめます。

 こういった前提でご紹介するのが、

  昼間たかし『コミックばかり読まないで』イースト・プレス

 です。
 なお来週29日には、本書の著者・昼間たかし氏が出演するイベントがあるそうですので、そちらもご紹介しておきます。
12月29日13:00~
若者よ、反骨のルポライター ・竹中労に学べ!「自由な批評、愚かな批評」

 【出演】
 武田砂鉄(フリーライター)
 昼間たかし(ルポライター)
 鈴木邦男(評論家)

芸能界から政界まで、タブーなき真相を追い続けた「元祖ルポライター」竹中労。
そんな、反骨のルポライターをリスペクトしてやまない『紋切型社会』の武田砂鉄、『コミックばかり読まないで』の昼間たかしという新しい書き手二人が、竹中労の功罪を徹底対論。
さらに、32歳で竹中労と出会い、次第にその魅力に惹きつけられ、『竹中労 左右を越境するアナーキスト』を刊行した評論家の鈴木邦男を交えて、体験的ルポルタージュの系譜と真髄を、次世代に向けて縦横無尽に語り尽くします。




 さて、本書『コミックばかり読まないで』は、「表現の自由」をテーマとした本と、いちおう言えそうです。しかし表現の自由とはこういうもので、かくあるべきと述べているわけでは、まったくありません。小生がこの本を一読し、そしてその境界の定かならぬ世界の広がりに考え込まされ、再読してようやく何かつかんだような気がしたのは、本書はルポルタージュであると同時に、21世紀のビルドゥングスロマンなのではないか――と脳裏に浮かんということでした。

 小生は現在、教養の日本近代史の講義を担当していることもあり、『コミックばかり読まないで』を手に取る前に、「教養」とは何ぞや、歴史を教養として学ぶにはどうあることがいいのか、などということを考えていたことがありました。その頃に書店で筒井清忠『日本型「教養」の運命』に出会って読んだのですが、同書は日本ではいわゆる教養主義的な文化と大衆文化は、階級的な社会である欧州のように分離するのではなく(欧州の場合、教養は大衆文化との隔絶を以って自己の規定にする傾向があります)、適正な関係が必要であると指摘していました。
 より具体的には、教養的文化を大衆文化に浸透させることと、教養的文化の中に大衆文化の良いものを取り込む、二方向を指摘しています。そして筒井先生は、この適正な関係を築くのに、マンガやアニメ、ゲームなど日本で活発とされる大衆文化の力に期待を寄せていました。もっとも、小生が読んだ岩波版で追加された書下ろしでは、インターネットを取り上げつつも、その力については悲観的なようであります。

 で、小生もどうも、日本の現状を見ると、マンガだのアニメだのゲームだの、「オタク」的文化が教養主義的な方向によい関係を持っているかといえば、きわめて悲観的であります。具体的には、歴史学とオタク文化の関係について、「艦隊これくしょん」なるブラウザゲームを題材として、ツイッター上で批判をしたところ、各方面から絶大な不評を買っております(笑)。詳しくは「『ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない』内輪ネタの妄想と、歴史の大系について」「『ところで艦これ厨は滅ぼされねばならない』タグをめぐる補論~鳥山仁氏に応えて・ほか」にまとめられていますので、ご関心のある方はどうぞ。
 そこで小生が指摘しているのは、体系をなしている学問の情報を、断片的に文脈を切断して、自己の妄想に都合のいいようにだけ切り張りしていながら、それを以って「歴史を学んでいる」と教養を得ているかのように振舞うのは、欺瞞であるということです。この欺瞞は、自己の妄想を正当化して社会的に有意義であるかのように摩り替える、自己と他者とをともに欺くものと小生は考えます。
 そこでまた先日ですが、古書店で長山靖生『偽史冒険世界』を見つけて読んで、オタク文化(には限らないですが)が都合よく断片をつなぎ合わせて妄想を正当化する行動は、偽史の作成そのものなのだなと感じたのです。ですが歴史を振り返ると、日本人起源論や竹内文書といった偽史の要素が、時として日本の国家政策に投影され、悲惨な事態を招いてきたといえそうです。これはいわば、大衆文化のクーデターが、正統的教養文化を覆したというべきかもしれません(天皇機関説問題のように)。しかしこのクーデターは、大衆文化にとっても決してよいことではなく、結局は国家に取り込まれ戦争とともに消え去っていってしまうことにもなります。浪花節の興亡なんかはその参考例となりそうですし、文楽を谷崎潤一郎が評した「いわゆる痴呆の芸術について」も同じことではないかと思います。大衆文化にはあるべき場所があって、そこを飛び出すと根無し草になって枯れてしまうのです。

 なお最近は、政府当局自体が「偽史」つまり正統的歴史学からは相手にされないでっちあげを、政策的に広めようとしている節もあります。危機はいまここにあるのです。
 「艦これ」は、少なくとも最初は、実際の戦争や現在の軍事と一応切り離してのゲームだったようですが、流行するにつれ運営が調子に乗って、偽史作成をしているような節も垣間見えます。軍事や自衛隊をモチーフにしたアニメやライトノベルの中にも、戦争に関する情報を切り張りして妄想を育て、それに自衛隊が便乗して広報に使うなど、はなはだ危ぶまれるものが見られます。
 まあ、ガンダムまで遡って考えてみれば、「偽史」の手法はオタク文化の常套手段ではあったのですが、それは教養とは一線を画してはいたでしょう。その境界があやふやになってしまっている(あやふやな部分が拡大している)のが、昨今の状況です。つまり、現在のマンガ、アニメ、ゲームなどは「クール・ジャパン」の掛声に乗っかって、経済的・政治的に肥大化し、教養へのクーデターを進めつつあるのではないか、そんなふうに小生は思うのです。

 話がえらく遠回りしましたが、そんな現状において立ち返るべき原点、表現するとは何か、表現する人はどのようなあり方をしているのか、そんなことを昼間氏が見たまま感じたままルポしたのが、『コミックばかり読まないで』なのです。表現とは何か、表現の自由とは、そのへんは本書をとにかく読んで考えてください。本書ほど「まとめる」という作業に不向きな本もそうはないわけで、それこそ面白エピソードもいろいろある本ですが、それをうっかり切り取ってしまうと、それこそ書評が偽史になってしまうのではないか、そう思わせる筋が通っています。
 マンガのような、猥雑な中から生命力を獲得して成長する大衆文化の表現は、教養のクーデターを目指して政治力を得、高みから君臨するのではなく、地を這うしぶとさずぶとさこそが根本ではないか。昼間氏はそう訴えかけていると小生は感じます。 

 本書は、甲論乙駁で話がかみ合わないことも多い「表現の自由」をめぐるトピックを、折々ホットな現場となったところへ昼間氏が足を運んで取材した内容が、第三章・四章を中心に記されています。それと同時に、竹中労を読んでルポライターになろうとした昼間氏が、色々な(変な)人に出会って自己形成する物語でもあります。
 だから本書は、単に「表現の自由」に関する政治問題などに関心がある、という人にとっては、夾雑物が多すぎるように感じられるかもしれません。個々の昼間氏が出会ったエピソードは面白いけれど、一読しただけでは話がてんこ盛り過ぎて、おもちゃ箱をひっくり返した中に放り込まれたような感覚に陥ってしまうのです(小生はそうでした)。これは、左翼だ右翼だといった分かりやすいレッテルというか肩書に当てはまることを拒否している、昼間氏の視点の自在さに、読者の小生がついていけてなかっただけかもしれません。

 それでも二読して、何とか自分の中で浮かんできた言葉が、ビルドゥングスロマンでした。昼間氏は何でルポライターになったか、竹中の言葉を引いて説明していますが、人の心を揺さぶりたいということなのです。人の心を揺すぶることこそが表現なのです。とは、よき表現に触れる喜びは、自分が揺さぶられること、表現を享受することで享受者自身が変わっていくことを楽しむこと、これが核心にあるのでしょう。
 昼間氏もまた、竹中労に出会って心揺さぶられて人生を決めたわけで、『コミックばかり読まないで』はそうした昼間氏がいろいろな人と出会ってルポライターとして成長していく自己形成史であり、かつ同時に、マンガはじめ大衆文化の原点に迫ることで、政治や経済に囲い込まれる表現へ自由を取り戻していく二重の意味でのビルドゥングスロマンなのではないか、そう感じている次第です。
 表現することは生きること。よく表現し、よく表現を受け止めたい、そんな全ての人々に読まれる価値のある本であると小生は信じます。

 ここまで絶賛してきたので(笑)、ひとつ懸念のようなことを書いておくと、本書で昼間氏が批判している、肩書と安定を求めて表現を囲い込んでしまうような人びと、彼らには昼間氏の本書の言葉は果たして届くのだろうかということです。生きることは表現することであり、表現する喜びとは他の人の心を揺さぶることだと昼間氏は説きます。となれば、先にも述べましたが、表現を受け取る喜びとは心を揺さぶられる喜びということになります。
 しかし時に、心を揺さぶられることによる実存の不安を嫌うのか(確かに不安となることも根拠がないではないですが)、どうもそのような激しい表現に、言葉尻を捉えて文句をつけるような事例も世の中多く見かけます。本書はそういった目で見れば、捕まえる言葉尻には事欠かないでしょう。そこで小細工を弄さない昼間氏の姿勢は快とすべきと思いますが、結果的に届く範囲を狭めてしまっているかも知れません。

 昼間氏の近業を小生、ネットでいくつか眼にしておりますが、面白かった2点を掲げておきます。
美濃加茂市は新たなPR効果を期待──オタクによる「フェミ」批判の醜さが目立った『のうりん』ポスター騒動の顛末
もう『ガロ』とは時代が違う──『はすみとしこの世界』を機に青林堂サイドが語った「ヘイト出版社」呼ばわりされた1年間
 これら記事の評判をネットで検索してみると、けっこう叩かれています(笑)。「フェミによる攻撃からオタクを擁護しないくせに表現の自由とは何事ぞ」とか「ヘイトスピーチを擁護するのか」といった感じですね。このへんも含めて面白かったというのですが、前者への反応を見ていると、「オタク」とされる人びとは果たしてコンテンツをまず正面から受容する意思があるのか、快不快で脊髄反射しているだけではないかといった懸念も浮かんできたりします。後者への反応も通底するものがあるでしょう。
 余談ですが、冒頭で枕に使った革命的非モテ同盟の初代書記長は引退後、某市の公務員になって「萌え」宣伝ポスターとか作っていたそうです。先日たまたま彼から電話がかかってきたので、美濃加茂市の件について、そっちは大丈夫かと聞いてみました。すると彼は、自分たちは絵師と相談してやってるし、昨日今日始めたわけじゃない、と自信に満ちた答えでした。
 確かに昼間氏の記事を読むと、美濃加茂市にはアニメに詳しい職員がいなかったそうです。表現を利用するのに表現に無頓着では、そりゃあ問題でしょう。これこそ昼間氏が批判してやまぬ、「サラリーマン的」な表現の扱いが、そういった小役人的配慮から一般に連想される過剰な規制と逆に、ちょっとこれは・・・というものを一般に出してしまった、そんなことではないかと思います。これを無理に、「フェミ」なんて敵を捏ね上げてまで擁護しようとするのは、かえってコンテンツを利用した地域振興とかの発展を妨げるものではないでしょうか。初代書記長のような人びとの努力を無にしてしまうことになりかねません。 

 話が逸れましたが、最後に、本書の目に付いたネット上の書評等をまとめておきます。

「コミックばかり読まないで」 東京新聞朝刊 本日書評掲載(俳優 映画監督 増田俊樹)
 ※著名人からの読後コメント集です。
ジャンルを越境する表現の自由を体現するルポルタージュ 昼間たかし『コミックばかり読まないで』
(日刊サイゾー)
コミックばかり読まないで / 昼間たかし(Rooftop)
《話題の新刊 (週刊朝日)》コミックばかり読まないで 昼間たかし著(dot. 朝日新聞出版)
Twitterで流れてきたそれっぽい意見をRTするだけで精一杯な人にこそ読んで欲しい!今日の1冊 227「コミックばかり読まないで」昼間たかし
(ブギーナイツの館 青春の蹉跌から超暇人への道までを記すブログ)
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※追記:補足的内容をこちらの記事に記しましたのでご参照ください。本記事のコメント欄も是非見てください。
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by bokukoui | 2015-12-21 22:41 | 書物