消しゴム忌に思う

 「消しゴム忌」というのは小生の勝手な造語ですが、何の日か察しがつく方はおそらく決して少なくなかろうと思います。

 本日6月12日は、消しゴム版画家にしてエッセイスト・ナンシー関氏が亡くなられた日です。もう四年になりますね。
 「消護謨忌」とか恰好つけてみようかとも思いましたが、やはり素直な方がよかろうと思って表題のようにした次第。

 さて、「墨耽キ譚」にご登場のたんび氏はかねてよりナンシー関(以下敬称略)の熱心なファンでしたが、もう数年前のこと、小生にナンシー関とリリー・フランキーの対談集『小さなスナック』が素晴らしく面白い、と力説しておられ、半ば強引に読まされたことがあります(読んだのは文庫版)。
 正直なところ、全ての対談を面白いと思ったわけではないのですが、「『ポジティブ』全盛の世は妄想しつつ諦めていこう」「約束の泣き、借物の笑い。私のことならほっといて」の二章は流石に感服せざることあたわざるものがありました。

 それから数年が過ぎ、先日電車に乗っていた小生が徒然に車中の広告を眺めていると、「本屋大賞」という賞を受賞した『東京タワー』という本の広告が出ていました。それがまた、「感動しました」「泣きました」みたいな言葉のオンパレードで、よくある広告とはいえなんだかな~と思ったのです。
 誰が書いた本なんだろうと思ったら「リリー・フランキー『東京タワー』」・・・
 ますますなんだかなあ感が強まり、たんび氏に特に乞うて『小さなスナック』(この表題はパープル・シャドウズの歌に由来するのでしょうか。一発屋云々の話が本文中にあるので)を再度借りて読んでみました。

 まず、前提として、こちらの『東京タワー』公式サイト内の、「全国書店スタッフ評」をご参照ください。小生が読んだ広告はこれの抜粋であったと考えられます。また公式サイトの感想文掲示板にも類似の感想が多々寄せられています。
 ついで、『小さなスナック』の「約束の泣き、借物の笑い。私のことならほっといて」から、いくつか抜き出してみます(すこぶる面白い対談なので、部分的に抜き出すのは至極骨が折れるのですが)。
リリー ・・・ほとんど世の中の涙は、泣こうとして出る涙ですよね。やっぱり出る前に考える暇がある涙って、何らかの着地点を持ってる。自分を投影したりとか――。俺なんか泣く時は相当、自分の中で泣こうとしていますよ。
ナンシー 今泣いたら、気持ちいいだろうとか? うーん、でも私、基本的に自分が泣くのも人が泣いているのも苦手だけどね。感動でも、悲しくても、どっちでも。泣くっていう現象は激しいじゃないですか。なんかね、どうしても芝居がかってるような気がして。嫌いってわけじゃないけど、「泣いてもなあ」「怒ってもなあ」みたいに途中でなっちゃうんですね。特に最近。
リリー でも、「卒業式で泣かないと、冷たい人と言われそう」って斉藤由貴も歌ってますしね(笑)。
ナンシー なんか感受性とか、そんな言葉で責められそう。(中略)
リリー 世間の中の感動っていうのはわかりやすくないといけないんですよ。
ナンシー 感動して泣くのはいい人、っていうことになるんだろうけど、「泣いてる自分が好き」っていうのも多い。最近映画のCMで試写の出口を出た人に感想を聞く形で作っているのってよくあるでしょ。やっぱ泣けます、っていうのは宣伝文句として有効ってことなのかな。
リリー ええ、そうでしょう。少なくとも俺とナンシーさんにとってはマイナス因子ですけどね。
ナンシー 泣けること完全保証みたいなさ。
リリー そうなったら絶対に泣きたくねえって思うのが感受性ってもんだけど。そう言うと「ひねくれてる」って言うヤツ。お前単調すぎるよって。・・・(文庫版pp.115-117)
 小生思うに、感動というものはそれが強ければ強いほど、自分にとってかけがえのないものであるから、かえって容易に他人には分かってもらえなくなるようなものではないかと思います。以前書いた「情」と「理」の話でも関係することをちょっと書きましたが、感動は個人的なもので必ずしも普遍的ではないということですね。それなのに「約束の泣き」で泣いて、それを臆面もなく周囲にさらけ出して、しかも馴れ合うというのは、まことに見苦しいものと思います。
 普遍的ではない自分の感動を、普遍的なものに加工して(他人にも分かるようにして)アウトプットするのには、大変な才能と努力を要するものの筈だと思うのですが、自分の感動の個別性を認識しておらず、借物でお約束な感動で満足している連中は、そこのところが曖昧なので、安易に自分の感動を人に押し付けてしまう傾向があるように思います。それはやめて欲しい。(「オタク」も元々はそれが嫌な人たちの一種だったと思うのですが、今や・・・)
 福本伸行『最強伝説黒沢』の冒頭にあるが如く、自分の物でない、お約束で借物の世界には 「感動などないっ・・・!」のではないかと思うのです。

 それだけに、リリー・フランキーとその作品を巡るこのような状況は、なかなかに皮肉めいていて面白くはあります。しかし、もちろん『東京タワー』を読みたいとは思いませんが。
 まあ、この「感動」ということについては、機会があればまた書いてみたいと思います。今日のところは、この2006年6月12日に相応しい話題を書くことができたということで、ひとまず締めとし、最後に「約束の泣き、借物の笑い。私のことならほっといて」の結末を引用して結論に代えさせていただきます。
ナンシー 私、もう冷たい人と言われてもいいよ。泣かないのも笑わないのもほっといて。
リリー あまり泣こうとか笑おうとか思わず、みんな普通にしててくれればいいんですよ(笑)。
ナンシー 喜怒哀楽とかいうところにはまり切らない、あいまいというか複雑な感情のほうが圧倒的に日常を占めているわけだしね。感情表現が豊かっていうのも、カンタンに表現できる感情しか起こらないのか、という見方もあるんだけどね。(文庫版p.122)
 追記。再読したら耳かきの話に一番官能をそそられ、ナンシー関も褒めていた東急ハンズの耳かき売り場に行ってしまいました。
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by bokukoui | 2006-06-12 23:55 | 思い付き