烏蛇さんのトラックバックにお応えして(『日本会議の研究』感想おまけ2)

 先月当ブログに掲載した記事「『日本会議の研究』を読んで、オタクとミソジニーについて考える」は、当ブログとしては大きな反響をいただきまして、さてこそ目に付いたよくある反応に対しては「ミソジニーとオタクに関する補遺(『日本会議の研究』感想おまけ)」という補足記事を書きました。しかし、先の記事にトラックバックという今日では廃れかけているようにも思われる機能を使い、わざわざブログの記事を起こしてくださった方には、いまだそのご指摘にお答えしておりませんので、だいぶ時間が経ってしまっておりますが、改めて卑見を述べさせていただきます。でもまあ、こういったややこしい話題の意見交換は、ネットだからといってツイッターなんかで即時やりあうよりも、昔ながらに月刊誌くらいのペースでやったほうが、冷静になれていいんじゃないかと思います(笑)。
 今回は、先の記事に「『萌え』文化はミソジニーの発露なのか」と題してご意見を寄せてくださった烏蛇さんにお答えしつつ、先の記事の内容の更なる敷衍を行ってみようと思います。なお、憑かれた大学隠棲氏の記事に関しましては、小生が一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』を読み終えるまでお待ちいただくということで、ご寛恕ください。




 このたび拙文にご指摘をいただきました烏蛇さんは、以前「はてな」界隈で「非モテ」をめぐる議論が活発であった頃――というともう十年近くも経っているのかと愕然となりますが、その頃にしばしばネット上で「非モテ」論を伺い、また一度お会いしたことがあったかと思います。そんな方と年月を越えて、議論をできるというのは喜ばしいことです。 
 さて、烏蛇さんのご指摘は、小生が「『萌え』文化の本質はミソジニーである」という主張をしており、それは飛躍である、ということかと思います。しかし正直なところ、これは小生としてはいささか本意ではないのであり、弁解させていただければと思います。

 先の記事に寄せられた数多くの言葉を読みながら、小生が喉元まで出かかっていて、でも「それをいっちゃあオシマイよ」と抑えていた言葉があります。それは

「『倒錯の偶像』読んでから来い」

 です(苦笑)。何せ同書は入手が容易な本ではなく(古書はあるけど高い)、そうそうどこの図書館に収められいるでもなく、おまけにやたら分厚い、それを読んでからでないと相手しません、というのは半ば嫌がらせです。
 ですが、小生が「萌え」表象の日本社会への浸透に、社会におけるミソジニーの瀰漫(これの一展開が「日本会議」の成長と影響力の増大です)を読み取ったのは、ダイクストラ『倒錯の偶像』が19世紀西洋を舞台として描いた構図を、21世紀の日本にも応用できるのでは、と考えたことが最大の要因なのです。残念ながら烏蛇さんは、小生のその論点をあっさりと閑却され、「墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)」とされています。しかし「フェミ嫌い」や「権威主義」が目に付くのはあくまでも補足であって、一番の理論的根拠はダイクストラに求められているのです。

 確かに、肝心なダイクストラの理屈の説明を、他の記事に譲ったのは不親切でした。同じことを二回書いて記事を長くするのも面倒だと、そうしてしまった一方で、kagami氏の思い出話に字数を割いたのは、構成上問題であったかとも反省しております。
 そこで大雑把にダイクストラの議論を振りかえってみますと、資本主義社会の深化、グローバリズムの進展で複雑化する社会において、その吐け口としてミソジニーが持ち上がり、女性の地位をおとしめようとします。しかし実際に女性がそんな地位を受け入れるわけではありません、むしろ19世紀こそフェミニズム勃興の時代です。するとミソジニーは反省される…どころか、余計強化されて、(疑似)科学まで動員してその主張を強め、対立が先鋭化していきます。そのミソジニーの強化発展の状況が、女性を描いた美術作品に反映されているというわけです。
 これを現代の日本に当てはめますと、経済の不振、国際情勢の混迷に戸惑う現代日本で、社会への不満をミソジニーで晴らそうとするような風潮が強まり、フェミニズムへのバックラッシュが見られると同時に、日本会議の勢力も拡大します。その風潮の一つの反映として、「萌え」表象が限られた表現物の中にとどまるのではなく、その存在を強く主張して、社会のあちこちに浸透し、「クールジャパン」などとそれをもてはやす声も出てくる、ということになります。

 このように並べてみますと、「萌え」文化の本質がミソジニーであるということにはならないと小生は考えます。「萌え」文化はさまざまな可能性や要素を内包しており、その中にミソジニーが含まれているにしても、それが「本質」というほど決定的ではありません。しかし、限られた表現物の世界にとどまっていた「萌え」表現が、「クールジャパン」などと権威をまとって社会に進出して、いやおうなく人々に押し付けられているような状況は、ミソジニーの発露とみなすことができるでしょう。
 先の記事において、小生は赤色で強調してこう述べました。「『萌え』好きな『オタク』の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか」と。萌え自体ではなく、その「一般化・大衆化」こそが、社会へのミソジニーの浸透と結びついているのです。
 ダイクストラは、女性を描くこと自体をミソジニーとしているのではありません。その描かれ方にミソジニーを読み取っているのです。同様に、「萌え」表象自体がミソジニーというよりも、その受容や浸透のされ方に、ミソジニーが反映されていると小生は考えています。
 それはありていに言えば、「臆面もなさ」ということになるのではないか、そう小生は感じています。先の記事でも書きましたが、丹念に作品を読み、理論武装して「萌え」の面白さを語るのではなく、衆を頼んで商業的成功を権威とすりかえることで、自らの性的嗜好の垂れ流しを正当化する、それが現在の、先の記事の表現を繰り返せば「萌えもえ無罪」という状況を生み出し、多様な可能性を持っていた「萌え」をミソジニーの道具に堕させつつあるのではないか――と小生は考えるのですが、このポイントを議論すると長くなりそうなので、別の機会に譲ることとします。

 ただ、『倒錯の偶像』が描き出している様相と、現代日本の状況とには相違もあり、そこは単純な当てはめですまないのではないか、という議論は当然ありえることです。そこを今後、丹念に検討する価値はあると確信しますが、小生よりそれに適任の方は多かろうと思います。それこそ烏蛇さんであれば、豊穣な成果を得ることができるであろうと期待しております。
 一つ思いつきを提示しておけば、ダイクストラの議論では、19世紀の女性の描き方がアンシャン・レジームの豊満さから病人のようになり、それでも収まらぬミソジニーはロリータに走り、挙句は美少年に至るというように、単線的な描かれ方をしていたかと思いますが(まあここ十年くらい読み返していないのでうろ覚えですが)、「萌え」表象の場合はロリだのメイドだの「男の娘」だの、さまざまな流行があっても、単線的に発展するというよりは、さまざまな方向へ拡散していくという展開の違いがあるのではないか、などと思うのです。

 続いて、烏蛇さんの記事の後段、中線以降について述べます。
 まず注意すべきことは、『倒錯の偶像』を倒錯して解釈していたのはkagami氏であって、「覚悟」氏ではないということです。「覚悟」氏はWATA氏の記述をそのまま写しているだけで、『倒錯の偶像』という書名も覚えがないでしょう。WATA氏にしたところでkagami氏のまとめの転載であって、ダイクストラそのものには触れていません。
 で、kagami氏は相当に諸書を読んでいて、当時は「オタク」文化について論陣を張られていたかと思うのですが、そんな人が『倒錯の偶像』を読んで何で「二次元バンザイ!」みたいになってしまったのかは、小生が頭を抱えたところでした。この点について、烏蛇さんの議論は、たいへん参考になる点を指摘してくださっています。

 烏蛇さんのご指摘では、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」という前提を置けば、「萌え」にミソジニーを読み取るような発想はむしろ、「萌え」表象を正当化するものだということです。
 先に挙げた例の場合、kagami氏が「狭義の」ミソジニストかは正直分かりませんが、「「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係」という捉え方をしているのは間違いなさそうです。氏が「電波男ムーブメント」を称揚しているのが何よりその証ですね。本田透『電波男』とは、まさに現実の女性は碌でもない、二次元の「萌え」妄想こそが「純愛」であると主張していました。
 であれば、kagami氏が『倒錯の偶像』を読んで、それでもなおかつ「二次元バンザイ!」的な方向に暴走したのも、むべなるかな、ともいえそうです。kagami氏は『倒錯の偶像』を基本的には絶賛しつつも、自分に都合の悪いダイクストラの指摘に対しては「うあああああああああああ!!ダイクストラもこんなことを云う!!/なんでみんなこういうことばっかり云うんだ!」とか叫んでおりますが、このへんの恣意的な使い分けの所以も、kagami氏が『電波男』に描かれたような、三次元を二次元より「劣った」存在とみなす考え方を強く持っていたから、といえそうです。氏とすればそれは現実の恋愛からの逃避ではなく、現実より優れた「妄想」を選ぶのは当然の選択だと考えていそうですね。

 結局、kagami氏は『倒錯の偶像』を読む際に、『電波男』をいわば解釈のための「経典」のような存在にしてしまっているのが、この混乱の原因であろうと小生は考えます。氏は『電波男』を、いわばダイクストラの「先行研究」のような扱いにしたのですが、それは位置づけとしてどう考えたって無茶苦茶でしょう。氏が読んだであろう多くの諸書に、もっとしかるべき参考文献があったはずです。それをこともあろうに、『電波男』に寄せて解釈したために、おかしなことになったのでしょう。
 ここからは、物事を把握する上での系譜であるとか、体系化ということがいかに大事かという教訓が得られます。いくら諸書を読んで知識を得ても、その位置づけ方が間違っていたら、トンデモなオカルトになってしまいます。これは先の記事で指摘した、「オタク」と日本会議との共通点でもあるのではないかと、小生は感じています。

 そしてkagami氏の記事から十年余を経た現時点から考えるに、『電波男』という二次元の妄想を貫いて生きる、という「オタク」のあり方は普及したかというと、うーん…? 「オタク」の一般化・大衆化は、それとは反していると考えた方が妥当でしょう。二次元の妄想を現実の恋愛の上に置いて生きる『電波男』はそもそも存在したかが疑問ですが、それは措くとしても、やはりコンテンツを妄想力だけで消費して生きることを、自己のアイデンティティ、拠所とすることは難しかったのではないか、そう思います。
 小生は本田透氏の近況を存じませんが、本田氏が仮に『電波男』によって救済を得たとしても、それは氏が妄想を外部に発表して何がしかの評価を受けた、そのことに拠っているというべきでしょう。
 すると、「オタク」をアイデンティティとするには、そのコンテンツ消費行動自体を権威化するということになり、事大主義的で攻撃的な最近の「オタク」をめぐる言説状態が生まれたのではないか、そのように考えられます。もちろん多くの消費者は、多様な消費行動の中の一部として「萌え」を消費しているに過ぎないでしょうから、「萌え」表現のミソジニー性などを指摘してもそこまで攻撃的にはならないでしょうが。
 「オタク」であることをアイデンティティにするには、何らかの形で消費行動を発信行動に反映させるさせた方がいいのではないか、それが難しそうで案外近道なのではないか、そんなふうに小生は感じています。性的嗜好の垂れ流しではない、具体的にはコミケ帰りに美少女のあられもない姿を描いた紙袋を見えるように持ち歩かない、筋道だった発信です。そして筋道だった発信には、体系化が欠かせないでしょう。それがないと、単なる垂れ流しを正当化するために、事大主義に走り、外部への攻撃性を纏うことになるでしょう。それは「萌え」表現の発展にも、良いことだとは考えられません。

 例によって話が拡散していますが、実のところは同じところをぐるぐる回っているだけのようでもありますね。
 ともあれ、烏蛇さんのご指摘を踏まえ、自分なりに考えたことの一端を述べてみました。ぐるぐる回りつつも考えがある程度整理されたように思われ、このような機会ができたことをありがたく思い、烏蛇さんに御礼申し上げる次第です。
 とはいえ論点は次々と生まれており、憑かれた大学隠棲氏のトラックバックへの返信もまだあります。スローペースですが、引き続きこの話題を折を見て続けていく所存です。

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by bokukoui | 2016-08-26 04:09 | 思い付き