われ愛す、荒唐無稽なるがゆえに~『嫌オタク流』雑感など

 先月来引っ張っている話題について、今日こそ何とか完結を。
 過去の記事は、その1その2その3になります(番号は実際にはついていませんが)。

 で、前回の続きですが、前回述べたことは「『オタク』と呼ばれるような、趣味に没頭している人間は、世間様と同じ価値観に則る必要は別にないし、またそう思って生きていくことは充分合理的なのではないか」ということでした。そして、小生がそのように思っているということが、そもそもこの話題の最初の記事で引用した『嫌オタク流』の評価を決定付ける重要な要因であろうと思え、それを述べることが Lenazoさんのご意見に対する小生の返答になろうかと思います。

 以前にもちょっと当ブログで書いたことがあるのですが、小生は『嫌オタク流』を読んでなかなかに楽しませてもらったのですが、そもそも何で買ったかといえば、この本の鼎談参加者4名のうち高橋ヨシキ氏が何を言っているかに関心を持って買い込んだのでした。Lenazoさんが「現在ヲタのメインストリームではない人たち」と指摘されるのは、海猫沢めろん・更科修一郎の両氏であると思いますが(高橋ヨシキ・中原昌也両氏は自分のことを「オタク」だと思っていないので)、多分そこで本書のどこに注目するかが異なって、違った評価を下されたのであろうと推察します。
 ではなぜ小生が高橋ヨシキ氏に注目したかというと、氏がやっておられるサイト "INFERNO PRISON" を以前から読んでいて、その面白さに惹かれていたから(特に「トレンチコートマフィア日本支部」とか)です。「オタクvs.サブカル」という構図なるものが個人的には全く分からないので、そのため高橋ヨシキ氏もまた「広い意味」では「マニア」「オタク」の類であると小生は思い、そして自分もその類の性質をある程度持っているからには、ああマニアとはかくあるべし、と氏のサイトを読んで面白くと思うと同時に感心したわけです。
 丁寧に説明すれば、小生は別に女囚映画を観たことは一度もありませんが(拷問とか処刑関連の本はそこそこ読んでるけれど)、いや、だからこそ、観たことが一度もない人間でも引き込まれてコンテンツを読んでしまう、詳しくなればきっともっと面白いだろうなと思いつつも、現状でも充分面白い、そういった感想を抱かせたこのサイトの作者は凄いなあと思った、ということです。つまり、大概の人に「なんてくだらない!」と言われそうな、えらくマニアックなことを極めたら、そのマニアックさがある程度の普遍性を獲得してしまった、そこに感心したのです。

 そういった先入観を抱いて高橋ヨシキ氏の発言を軸に『嫌オタク流』を読むと、結構面白く読めたのです(中原昌也氏は・・・まあ、好きな人は好きだそうで、あの芸風)。前回までの話にひきつけてspade16氏の言葉を借りれば、荒唐無稽なものをその荒唐無稽さゆえにこそ愛するのがマニアックな趣味(これは世間一般の用法では、「オタク的」というより「サブカル的」と形容するのが適当なのでしょうか? よく分からないのですが)の重要な要素だったのではないかと思うのです。
 『嫌オタク流』で具体的に面白かった発言を引用して説明するはあまりに煩瑣なので断念しますが、この論点に関連しそうな一箇所だけ。
高橋 (前略)最近のオタク礼賛ブームからは違う意志を感じるよね。“夢の国”だけでは拠り所として不足を感じているオタクがいるのか、そこまできちんとのめり込んでいないオタクがいるのか、そのどちらかだよね。(中略)
海猫沢 高橋さんの言っていることはすごく分かるんです。言い換えると、その徹底していない感じが嫌なんだろうと思うんですよ。でも、その中途半端さが今のオタクだとオレは思っているんです。
高橋 なるほど。俺はオタクってもともと“中途半端じゃない人たち”のことだと思ってたんですけどね。
(同書pp.92-93)
 子供っぽいだとか荒唐無稽といわれそうなものを、しかしむしろそれ故に自分なりの価値観で愛でる、“夢の国”でしっかり遊ぶ、ブレイクの箴言を引用すれば「愚行に固執すれば賢者となるを得ん」という境地を目指す、それが大事なのではないかと思います。
 なお、本書の書評として、くだくだしい拙文とは対照的な手短さで説明してくれたものを一つ紹介『嫌オタク流』のアマゾンでの星が二つ半になっている(賛否両論)ということは、「論者たちの意見をそのまま証明・補強」しているとも言えそうです。

 いい加減長くなってきたので、書評を切り上げて一連の話題の纏めに入りたいと思います。いや、話があさっての方向に流れて纏めになってないかもしれないけれど(苦笑)
 「オタク」と呼ぼうが「マニア」と呼ぼうが「サブカル」と呼ぼうがこの場合はどうでもいいですが、何かに没頭しているのであるならば、その対象が世間に認められないからといって恨まず、認められたからといって舞い上がらず、ただ「中途半端」でない境地を目指して励んでいれば、やがてそれは「分かる人にはわかる」くらいには普遍性を持ちうるのではないかと思います。
 そしてまた、世間のメインストリームと合わないから、「オタク」「マニア」などと一般に呼ばれるようなことをしているのですから、「オタク」「マニア」の世界の内部でも、これまた主流であろうがどうであろうが気にしない、というようにありたいものです。

 で、やっぱり斎藤環氏を「タマ兄」という愛称で呼ぶというのは、普及しなさそうですかね・・・?
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by bokukoui | 2006-09-01 23:57 | 思い付き