パンドラの箱を底まで浚うような話

 小生が教育関連の事業でお世話になった方が、ミクシー上で色々とお悩みを吐露しておられるのを一読し、些か教育について思うところもあるので軽く一筆。

 安倍総理が「教育再生会議」を編成したことは皆様ご存知かと思います。その面子を見ていて色々と思ったことを当てもなく書いていきたいと思うわけなのですが。
●「教育再生会議」有識者メンバー

浅利慶太(劇団四季代表)
池田守男(資生堂相談役)=座長代理
海老名香葉子(エッセイスト)
小野元之(日本学術振興会理事長)
陰山英男(立命館小副校長)
葛西敬之(JR東海会長)
門川大作(京都市教育長)
川勝平太(国際日本文化研究センター教授)
小谷実可子(日本オリンピック委員会理事)
小宮山宏(東大総長)
品川裕香(教育ジャーナリスト)
白石真澄(東洋大教授)
張富士夫(トヨタ自動車会長)
中嶋嶺雄(国際教養大学長)
野依良治(理化学研究所理事長)=座長
義家弘介(横浜市教育委員)
渡辺美樹(ワタミ社長)
(50音順、敬称略)
 川勝平太はこの手のところによく出てくるなあ、という感慨はさておき。
 そういえば東大総長の小宮山宏氏のご子息は中学で同級生で、ひとつ前の席だったなあということを思い出してもみたり。彼は優秀な人でした。東大に進み、今はスタンフォード大学にいるそうです。イケメンな野球部員でした。tubeと『キン肉マン』を周囲に広めていました。あ、そういや小生も借りて読んだな。でもあまり影響は受けなかった。小生が厨房の頃最も影響を受けた漫画、それは小生のHNの最初の二文字を見れば分かる話。

 いやますますそんなことはどうでもよくて。
 今日のお題は、本日付日本経済新聞二面に「教育再生を聞く」と題して掲載されていた、渡辺美樹ワタミ社長のご意見に関し少々思うところを一筆、という次第です。
 以下記事引用。
――安倍政権の教育再生会議では何を訴えていきたいか。
「教職員の意識改革を問いたい。教師は三百六十五日、二十四時間、教師であることを意識してほしい。子供が望むなら夜遅くまで補習や部活動に付き合う。学校五日制で教師に週休二日とらせるのは反対。そこまでしたくない人は辞めてもらったり、評価を低くすればよい」
――安倍晋三首相も免許更新制の導入などで問題を抱える教師に退場を迫る方針のようだ。
「研修を受ければ済むような更新制はだめ。問題教師をクビにするぐらいでないと。私が経営する学校では教師に成果主義に基づく賃金体系を導入し、生徒や保護者、教師同士が評価する仕組みにしている。評価の高い教師の給料を増やすなど、教育現場にも競争原理を働かせるべきだ。教師も失業と向かい合う必要がある」
(以下略)
 小生の友人で小学校の先生をしている人がいますが、既に充分忙しそうです。この上「三百六十五日、二十四時間」も奉公せよとは無理無体ではありますまいか。そこまでする義務が必要なのでしょうか。
 ワタミ社長のこのインタビューに日経新聞は「だめな学校つぶれていい」と題しています。ワタミ社長の発言の、教育に関する経済的自由主義の側面を捉えて(日経新聞ですから)この表題をつけたのでしょう。教育に経済的原理を導入することは否定されるべきことではないと小生も考えます。何となれば、教育をあまりに神聖で重要なこととご大層に見做し、「教師=聖職」などという看板を掲げることが、教育をかえって堅苦しく融通の利かないものにしている面もあると思うからです。教育もまたサーヴィス業的側面を持つ(無論全部それってのも行き過ぎですが)、ということを認識して政策立案することは、それなりに意味のあることだと思います。
 しかし、このような文脈でワタミ社長のこのご意見を一定程度認めた場合、「教師は三百六十五日、二十四時間、教師であること」「教師に週休二日とらせるのは反対」ということは矛盾します。サーヴィス業の従業員にこのような労働条件を押し付けることは不当ではないでしょうか。要するに、教育に関して経済的側面と経済外的側面とを恣意的にくっつけ、勝手な要求をしているだけではないか、そう思います。

※このようなワタミ社長の発言は、容易にワタミ従業員の過酷な労働状況を推測させますが、小生はそれについて語る情報を持っておりません。
 ただ、ワタミではないですが、最近急速に伸ばしてきたことで知られる某外食チェーンの、部内報類やアルバイトたちのコンテスト? のようなものを収めたDVDという資料を某氏から譲っていただいたことがあります。そこでは、経営者の唱える自己啓発セミナー的理念が繰り返し述べられ、店舗ごとに設定した目標の達成振りを熱く誇る従業員やアルバイトたちの、宗教的熱狂としか形容しようのない姿が延々と収められていました。
 外食産業一般にこれら事例を当てはめることは極めて危険であるということを百も承知で述べるならば、低価格競争が激しくコストダウンに迫られた外食産業が、新興宗教や自己啓発を連想させるような手法で心理的に従業員を追い込み、彼らの労働力を(おそらくは賃金水準以上に)搾り出している、そのような状況があるのではないかと思われます。
 無論それを全て経営者の責に帰すのはやりすぎというものであり、そうせざるを得ないような社会状況を再検討すべきであろうことは間違いありません。しかし、経営上の方便としてやむなく、ではなく、そのような労働力搾取手段を優れた経営手法であり従業員教育であると自ら信じ込んで、学校教育現場にもその方法論を引っ提げて乗り込むとすれば――それは合理的ではないと考えます。
 以上余談。


 が、まあこれはまだ枝葉末節の話。
 以前にちょっと書いたことがありましたが、高校生の時分国語の授業で長田弘の「敵という名の怪獣」を読まされたことがありました。その時はあまり意味が分からなかったけれど、その後時間が経ってから、その主張の意味するところが分かってきたような気がします。学校で授業を受けて、卒業して何年も経って、本を読んだ折などにふと昔の記憶が蘇ってきてはっとするような、その時になって初めて受けた教育の意味が分かるような、そんな経験が時としてあります。小生思うに、教育の成果というものは、短期的に表れる要素もありますが、このように長期的に表れる要素もまた重要であろうと思います。以前縷説したことがありましたが、教育の究極的な目的が故人主体性の確立になるのならば、このような長期的効果こそ、その目的に適うものといえるでしょう。
 短期的な教育の成果は、教師が教えたものをどれだけ受容できるかということです。学び=まねび、という段階ですね。しかしこれだけでは、教師のコピーの域を脱することには必ずしもなりません。教育されたものが一旦被教育者の中に沈潜し、何かの機会に再認識されることによって、コピー以上の自己の一部とすることが出来るのではないでしょうか。 
 これも以前に書いたことですが、どうもこのような「成功者」で、教育に一家言を有する方の場合、自分のコピーを作るような教育で良しとしてしまう傾向があるのではないかと考えます。そうすることは、自己の正当性を確認することにもつながるわけですね。

 しかし、教育の成果とはそのような短期的に確認できるものばかりではないわけです。少々極論を吐けば、人間の評価は棺桶の蓋が閉まってからでないと分からないとも言えます。ということは、教育者が被教育者に及ぼした成果を最後まで見届けることはかなり珍しいこと(あまり起こって欲しくないこと)ということが出来るでしょう。
 となれば、そもそも教師というのはなかなかに辛い職業で、その成果を確認することが難しい職業といえましょう。それは教育者自身のみならず、被教育者や周囲の人間にとっても同じことではあるわけですが。
 ですから、短期的な「成果主義」を全く無意味とまで言い切ることはしませんけれど、今時の企業の決算のように四半期ごとにころころ給料を上げ下げされるような状況は、決して好ましい状況ではないと思われるのです。別に馴れ合いを奨励するわけではありませんが、朝令暮改的に評価を上げ下げするよりも、ある程度大雑把な方が好ましい場合もあるのではないか――というか、その程度にしか評価し得ない(あまりにも目に余るのを外す位)のではないか、そのように考えます。どうせ半世紀経たないと決算締められないような事業なのですから。

 斯様な「教育」という行為が営々と続けられているのは、まさに「パンドラの箱」の神話みたいな状況なのだと思います。「パンドラの箱」を開けて中の災厄がことごとくこの世に解き放たれたけれど、一つだけ「未来を知る能力」という災厄が箱の中に残ったため、人間は将来に希望を持つことが出来る、という、あの神話です。教育のもたらすものは見ることが出来ない、だからこぞ教育をすることが出来る、そういう逆説的なことかもしれません。
 教育の結果、偉人賢人を世に送り出すことが出来るかもしれません。でも逆に宮崎勤や宅間守みたいのが生まれるかもしれません(こちらのジェフリー・ダーマーの父親の言葉は重いですね)。将来どうなるのか決定的なことは分からないし、だからといって何もしないというわけにも行かないだろうし。

 この「教育再生会議」の前身というのか、「教育改革国民会議」というのがありまして、そちらがよく現政権の教育に対する方針を反映しているようです(「教育再生会議」はこれでも「安倍色薄い人選」だそうです。まあ東大総長は安倍的でないでしょう。そう思いたいです)が、既に随所で話題になっているように、そこの委員の提言は「IT時代」がどうこうと謳っておきながら、現在の社会の状況とそれをもたらす状況に全く無頓着としか思われないものです。そしてこの内容から強く感じざるを得ないのが、子供を教育を通じて万全にコントロールしよう、提言中の言葉を借りれば「子どもを厳しく「飼い馴らす」必要」を最重要課題にしているのではないか、ということです。
 現在の教育改革をもっぱら主唱している人々の多くは、教育の持っている、効果が分からないという性格を「カイゼン」したいと思っているのでしょうか。上掲ワタミ社長(氏は「安倍色薄い」教育再生会議面子中、安倍首相に近い人物といわれています)の発言とも重ねると、どうもそんな気がしてきます。それは自己の成功体験を将来にわたってまで有効であると信じているだけのようにも思われます。教育という事業の成果を評価できる頃には、教育者は大概死に絶えているわけですが、己が死後まで自己の成功の確信を世に残し続けたいのでしょうか。
 そのような営為は、それこそ、パンドラの箱を底まで浚って、最後の希望までも支配下においてしまいたい、そんな欲求なのかもしれない、そう思います。

 なお、教育再生会議の安倍色濃い目のもう一人の大物・葛西大明神についても思うところなくもありませんがそれはまた後日。海陽学園についてはちょっとしたルートができて、情報が多少入ってきていることもあるし。

 最後に余談。
 こんな長々した文章を書くと途中で士気が萎えるため、Gyaoで『女子高生』を、Youtubeで『あずまんが大王』を見ながら書いていたのですっかり完成まで時間がかかりました。先生になるならゆかり先生みたいになりたいですね(運転以外)。あるいは糸色望先生とか。
[PR]

by bokukoui | 2006-10-13 23:58 | 時事漫言