わからないということはけっこういいこと

 相変わらず用事が片付きません。関係各方面から苦情が寄せられていますが、小生の事務処理能力はWindows以前のパソコンみたいなもので、同時に複数の案件が処理できるようになっておりませんので、現在の件が終了するまでは応対できません。申し訳ありませんが。

 で、ブログの方でも幾つか構想しているネタがあったのですが、この調子だと完全に腐らせちゃいそうなのがあるので、備忘録的にメモだけ。まあそれがブログの正しい使い方なのかもしれないけど。
 というわけでメモ。

「烏蛇ノート」さんの「 『萌え』は『正当化』によって自閉する 」(10月6日付)
 この記事は続き物で、元になった9月30日付の記事も含めて色々思うところあり。

(ここより10.22.加筆)

 まず先に大雑把に結論を書いておくと(緒方氏のご意見に従って)、偶発性ということを尊重するcrowserpent氏に小生は全くもって同意する、ということです。「すべてが分かり合える」ということは不可能で、分からないところがあることは避け得ないことです。でもだからこそ他者との交流の意味はあり、面白いのではないかということです。本記事の表題はそのような意味でつけました。
 そして小生がこのような考え方を抱くきっかけの一つにあったのが、桜井由躬雄教授の言葉なのでしょう。もう一度ここに引用しておきますか。

「人は決して分かりあうことは出来ない、ただ許すことが出来るのみである」

 以下、もう少し細かく見ていきます。 (ここより10.24.加筆)

 以上のような立場に立つ小生としては、宮台氏の意見も(その理由付けのオタク論的説明はよく実感できないし、すべて同意できもしませんが)素直に読め、crowserpent氏がそう厳しく指摘されるほど「「性愛的コミュニケーションの成功」とワンセットで捉えている」ようには思われませんでした。これは小生がいわゆる「非モテ」という議論にあまり関心がないこと、そういったことを意識させられるような状況に晒されることがなかったこと、などに起因していると思われます。ので、crowserpent氏の意見と宮台氏の説の間にはあまり差がないように受け取ってしまっています。宮台氏の言説ががそれほど「性愛的コミュニケーション」に限定して論じられているようには小生には思われませんでしたし、精々一つの例として、宮台氏がこの言説を発する文脈上選んだ程度ではないかと思ったのです。まあ、「宮台氏は、このことを分かった上であえて性愛ベースで話をしてるんじゃないか、という疑いも私は持っています」とcrowserpent氏もコメント欄で述べておられるので、気の回しすぎなのかもしれませんが。
 ちなみにこれは、「非モテ」「萌え」といった言説に深く関わっておられるcrowserpent氏と比較して、小生がやや違った傾向の属性を帯びているから(鉄道趣味者だから)ということと関係があるかもしれないようにも思います。ただそれは、本題と逸れそうなのでこれ以上は今のところ触れません。

 で、上掲のようにcrowserpent氏の意見に基本的に賛同しつつも、宮台氏への批判に多少違和感を覚えたのですが、10月6日付けの記事に至って議論の軸がズレ(もっともその収束点自体は賛同しているのですが)、宮台氏が打ち出した「承認欲求を取り下げる必要がある」という方法が、その後のcrowserpent氏およびその記事に触発された方々の議論の中に反映されていないような点を、いささか残念に思うのです。つまり、議論が「他者性に開かれるとは」という方向になってしまい、「他者に対し<わたしは>承認要求をどのようにすべきか」ということは顧慮されていないように読み取れるということです。
 
(加筆予定)
※結局本記事への加筆は諦めて、以下の記事を追加として記しました。
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by bokukoui | 2006-10-19 23:59 | 思い付き