神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その5

 諸事情により間が開いてしまいましたが、その1その2その3その4の続きです。

 西金沢の駅でH氏と合流し、小生とたんび氏は新西金沢駅より北陸鉄道石川線に乗り込みます。この線の電車は元東急7000形で、浅野川線の車輌とは東急車輛系のステンレスカーという点で共通しており、あちこちの地方私鉄に中古で流れていった電車です。東急沿線住民とはいえ東横線系統に縁のなかった者としては、昔水間鉄道で乗った電車と同じだなという感慨を抱きます。
 ちなみに水間鉄道に乗りに行ったのは小生がリアル厨房であった当時で、中学の鉄研の友人某氏と行ったのですが、当時某氏はさる声優の熱心なファンで、というか親衛隊で相当の地位にあったとかなんとかで、この鉄道の沿線にその声優さんの実家(金物屋)があるというので乗った際にそこを訪ね、小生もお供する羽目になりました。そこで某氏が某声優さんのお父上と話しこむこと数十分、小生は横でおとなしく聞いていました(笑)。
 以後、小生は某声優さんのファンではありませんが、某声優のお父上のファンは自称しています。なお某氏はその某声優さんの店でメジャーやステンレスの物差などを購入し、その後学校の文化祭でこれらの機材は大活躍しましたが、由来を皆知っていたので、これらは「〇〇メジャー」「〇〇定規」(〇〇にその声優さんの名前が入る)と呼ばれ、皆取扱いには気を使っていたものでした。
 今にして思えば、いくらリア厨とはいえちょっと押しかけ厨みたいだったのではと思わなくもありませんが、しかしまあ昔は呑気だったのでしょう。昔といっても十年ばかりのことですが。

 えらく話が脱線しました。鉄道の話にこれはいけません。
 石川線の電車は学校帰りの生徒などでそれなりに賑わっていました。カーヴを繰り返しながら市街地を抜け、やがて沿線は近郊住宅地となり、そして収穫中の田圃の中をまっすぐ走ります。H氏の案内のお蔭で、金沢市を抜けると途端に住宅が減って田が広がり、工場が出現する(規制の影響だとか)といった沿線の情景の意味をよく理解することができ、なかなか充実しておりました。
 北陸鉄道はかつて石川県各地に路線を展開しており(あちこちにあった小私鉄が戦時統合で大合併したのですが)、この石川線に繋がる支線も二つありました。特に鶴来(つるぎ)から出ていた支線は比較的近年まで残っていたため、今でも車窓から遺構を望むことができます。これもH氏が案内してくれたお蔭で分かったのでした。
 この石川線、かつては山を越えて名古屋まで繋げるという夢があった路線でしたが、結局夢破れ、路線も一部廃止されて往時より短くなっています。鶴来以北は本数が半減し、いっそ鶴来まで廃線になってもおかしくなかったような感もありますが、終点の加賀一の宮は初詣客が押し寄せるために残されているのだとか。
 その加賀一の宮駅に、30分ばかりで到着しました。乗客はやはり随分少なくなっていました。
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 写真はクリックすると拡大します。以下も同じ。
 加賀一の宮は木造の駅舎になかなか風情があり、訪問の価値ある駅です。短い折り返し時間の間に周囲を見て回りますが、かつて延びていた区間の廃線跡は判然としませんでした。駅舎の様子が良いので記念撮影(この写真はたんび氏の撮影したものです)。
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 木造の駅舎もさることながら、レールで作られた柱が目を惹きました。レールの刻印がはっきりと読み取れます。
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 6009 ILLINOIS STEELCo SOUTH WKS || 1901 IRJ とあります。以前にもお世話になったこちらのページを参考にさせていただくと、イリノイ製鋼会社が1901年2月に日本帝国鉄道(当時は鉄道作業局)向けに南工場で作った30キロ(60ポンド)レール、ということになります。明治のこととて、30キロレールでも幹線で使われていたものでしょうね。

 来た道を戻ります。乗る乗客もやはり少数でしたが、途中から多少は乗ってきました。
 このまま終点の野町まで乗り通します。当初は、この後市内をうろついて適当に夕食および折角なので一杯やるという程度に、大雑把な計画しか立てていませんでした。宿は金沢駅近傍にとってあります。しかしH氏が合流したのでどうしようかということになり、結局H氏のご好意に甘えて、氏のご実家を急遽手土産もなく探訪することと相成りました。
 小生は以前から、サークルと研究室とでH氏と交友があったのですが、氏は世界中足跡至らざるはなき旅行家で、マイレージが切れそうだからなどとといってしょっちゅう海外に出かけ、世界各地の鉄道を乗ってきているという人物です。更に、氏の書籍の収集ぶりは大変なもので、予算もさることながらあれだけの本をどこに置くのだろうと不思議に思っていました。ある時、さる方からJTBの時刻表を無慮三十数年分(毎月揃っていて欠号なし)処分するという話が持ち込まれたとき、氏はそれを引き取ってご実家に送られていました。で、これらの経験から、H氏と交流のある人びとの間では、氏の家はきっと金沢に土蔵を持っている素封家なのだろう、ということになっていました。で、その土蔵(?)を覗いてみたいという欲求には勝てなかったのであります。

 石川線の起点の野町から、かつて市電が走っていたという通りを歩いて、バスに乗り込みます。バスの路線網や案内などはかなり充実しており、バスも帰宅ラッシュが始まってかなり混雑していました。そしてH氏のご実家に到着。・・・本当に素封家だったようです。土蔵ではありませんが、庭に書庫が建っています。うむむ。
 当然、まずは玄関からお邪魔したわけですが、この玄関からしてちょっとした旅館並みに堂々としたものでした。すっかり恐縮しているところを応接間に通されます。ここがまた、書架に年鑑や事典類(英語のもの少なからず)が収められ、古典的な教養の集積を見せ付けられます。H氏が収集した鉄道のビデオなど鑑賞しますが、これがまた究極のアナログ式家電のセットというか、デジタルのDVDより画質が上なS-VHSという驚くべきものでした。
 H氏のご家族のご挨拶を受けますます恐縮。小生は気付かなかったのですが、専門家のたんび氏がバッジを見たところでは、お父上はどうも弁護士でおられたようです。本当に地方名望家だったのでした。夕食までお相伴に与ってしまいますます恐縮至極。

 そして本題の、庭の土蔵、もとい、書庫を見せていただきました。手前に閲覧室というか、ソファーなどが置かれた四畳半くらいの部屋があり、奥の12畳くらいだったでしょうか? そこが書庫になっていました。
 その書庫が、これまた普通の個人宅にある本棚とは隔絶したものでした。図書館、それも公立の普通の図書館の開架式のそれではなく、大学の研究室などに見られる閉架式の書庫のように、床にレールを敷いてぎっちりスチール製の書架が並べられ、ハンドルをぐるぐる回して書架を移動させて本を出納する、そんな書庫だったのです。個人宅でそんなものを持っているとは、なんともはや。
 書籍のコレクションも、文学全集の類が各種揃っていたり、各種の雑誌が何十年分も揃っていたり(例の時刻表もありました)、ますます図書館のようです。これはH氏一人ではなく、無論ご家族全体のコレクションなのではありましょうが、レパートリーの広さは目を見張るものがありました。壁沿いには木製の文庫本などを専門に収める本棚が並べられています。これも特注品んとの由。ご自身数千冊のやおいコレクションの収納に難儀されているたんび氏は、この書庫の偉容に興を得たらしく、このスライド式書架の予算を聞いて自宅への導入を検討し始めたようでした。しかし、お金は調達できても土地が・・・とか。

 随分遅くまで長居してしまい、帰りも送っていただくなど、急な訪問にもかかわらず至れり尽くせりの接待を受けてしまいました。今度は手土産を持っていかねば。
 今まで近代史の話をする時、小生はあまり深く考えもせずに「地方名望家」という言葉を使っていましたが、今回初めてその意味を実感することができたように思います。財だけではなく、文化(ある程度公共性を持った)をも地域で集積している存在、ということです。ただの金持ちではないのです。なるほど、今までのH氏の振舞も納得できたのでありました。

 その夜は、予想外の体験を再度噛みしめつつ、金沢の安宿で二人地味地味と酒など飲んでおりました。しかし明日は朝早いので、そう遅くまで呑むわけにもいきません。程々に切り上げてやすみます。

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-22 23:58 | 鉄道(現況実見) | Comments(0)