神岡鉄道と北陸の私鉄巡り その6

 その1その2その3その4その5の続きです。

 金沢で一泊し、今日は福井県の私鉄を回ります。当初は福井で泊まる案でしたが、福井の宿泊事情が良くないことから、金沢で泊まって早めに福井に移動することとしました。
 午前6時台に起きだし、7時前の電車で金沢駅を立ちます。早すぎて駅の売店は開いていません。通学する学生で混雑した国鉄時代の急行形電車に乗って福井に向かいます。道々、北陸本線を輻輳する特急列車に追い抜かれますが、加賀温泉駅で退避時間中に駅弁を購入して食事を摂ります。確か最近評判の新名物らしい焼き鯖すしと、あとは鯛稲荷だったか、まずまずは結構な食事でした。値段もですが。
 全く余談ですが、「鉄道で旅する」というとすぐ駅弁を連想するのがテレビ東京に毒された一般人の通念のようでありますが(『たびてつ友の会』とかもそういった通念に乗っかったものといえましょう)、強行軍で予算に制約のある鉄道趣味者の旅行は、食料費を節約するために駅弁より駅蕎麦・駅前コンビニを重視する場合が少なくないのであります。

 車中からかつて北陸鉄道や京福電鉄の支線のあった駅などを確認したりしつつ、1時間半ほどで福井に着きます。工事中の駅に降り立ち、京福電鉄改めえちぜん鉄道に乗り換えます。
 ご存知の方も多いと思いますが、えちぜん鉄道とは、地方私鉄の京福電鉄が経営悪化していたところに事故を連発して運行差し止めになり、県が出資した第3セクターに改組して鉄道を再生させたものです。その際に支線の永平寺線は廃止になりましたが、越前本線改め勝山永平寺線と三国芦原線の2路線を有しています。これもまた昔はもっと支線がいっぱいあったのは北陸鉄道と同じ。
 そもそも京福電鉄とは、京都と福井に別個に路線を有していたのでその名がありますが、元々は戦前の京都電灯という大手電力会社(戦前の電力会社は「五大電力」と呼ばれる最大手五社が中心で、それに次ぐ存在として「地方大電力」と呼ばれた会社(これを入れて九電力)があり、京都電灯はその筆頭格でした)が、安定した電力供給先兼営事業として営んでいた電鉄事業にその源流があります。京都電灯は京都と北陸(水源)で電力事業と共に電鉄業を営んでいましたが、日中戦争以降の経済統制の中で進められた電力国家統制により本体の電力事業が国の手に移ってしまい、その際残った鉄道事業をまとめて会社を作ったので、京都と福井にバラバラに路線を持つ電鉄会社ができたのでした。
 戦時中の交通統制により、京福は福井の小私鉄を併合して路線を増やしますが、戦後はご多分に漏れずモータリゼーションで経営が悪化し、福井の路線は縮小され、京都の路線の半分は叡山電鉄という別会社に分社したりし、この度えちぜん鉄道に福井の路線を委譲したことで、京福は完全に解体されてしまったといえるでしょう。

 更に余談ですが、戦前は電力会社が電鉄業を兼営したり、逆に電鉄会社が電力事業を沿線で展開したりすることは良くあったことでした。江ノ電や箱根登山鉄道も電力会社の一部門や子会社だったことがあり、京王や京成、京阪や阪神や南海などは大規模な電力兼業(電力業界で言えば中堅程度の規模)を行っていました。
 以下は小生が現在持っている仮説ですが、電鉄会社の経営に占める電力兼業の比重は、大正から昭和初期の不況の時期にかけて高まっています(京王の昭和10年ごろの収入は電車より電力の方が多かった)。一方、これと同じ時期に、電力会社が持っていた兼営電鉄業を別会社にして切り離す例が幾つかみられます(東京電灯の群馬軌道線とか)。つまり電鉄業にとって電力兼業の重要性が増す一方で、電力業経営からは電鉄兼業の意味が薄くなるような、捩れ現象が起きていたのではないかと思うのです。この現象を解決したという意味では、電力の国家統制や陸運統制を、企業経営を国家が介入して捻じ曲げたものとばかりはいえない側面もあるのではないか――とも考えられますが、実証的な調査はまだしていません(苦笑)。それに京都電灯はこの例として都合が悪いな・・・(藁)。

 余談が長くなりすぎました。話を戻して、えちぜん鉄道に乗り込みましょう。
 この日は土曜日でしたが、折りよく週末に限り全線乗り放題800円のフリー切符があることが判明しました。これはありがたい。更に400円足して1200円出せば福井電鉄も乗り放題になる切符がありましたが、福井鉄道は片道を乗り通すだけなので普通に切符を買う方が安いため、この週末限定えちぜん鉄道フリー切符を求めました。福井から勝山永平寺線の終点・勝山まで750円、三国芦原線の終点・三国港まで750円ですから、頗るお値ごろです。

 まずは旧越前本線、勝山永平寺線に乗って勝山を目指します。待っていた電車は案外現代風の車輌でした。何でも愛知環状鉄道から譲り受けたものだそうで、101系から流用したモーター類はともかく、車体は20年経っていないのでそう古くはないようです。もっとも、えちぜん鉄道発足時にけっこうきちんと手を入れたらしく、車内外とも割りと綺麗でした。転用した古い部品を見るとお里が知れますが、第一印象はなかなか良い感じでした。
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 例によって写真はクリックすると拡大します。以下も基本的に同じ。

 えちぜん鉄道は県の肝煎りで経営の効率化や利用促進に色々と力を注いでいますが、その一つに女性のアテンダントを乗り込ませて(車掌ではない)接客をしているということが挙げられます。この列車にも、勝山永平寺線と三国芦原線が分岐する福井口駅だったかと思いますが、途中駅でアテンダントが乗車し、切符の発行や回収、アナウンスなどをこなしていました。いでたちは・・・制服趣味者としての琴線に触れなかったのか覚えていません。ただ、旅行者がよく使うようなカートを引っ張って乗ってきたのは覚えています。普通の鞄ではないものを持ち込んでいたのが面白かったので。
 折角アテンダントが乗り込んでも仕事がなかったら残念ですが、割合駅ごとに乗降客はあり、現時点ではそこそこ利用されているようです。

 天気の良い日でした。明るい秋の日差しを浴びて、沿線はなんとも長閑に見えます。かつて永平寺線を分岐していた永平寺口(旧東古市)駅の辺りから路線は山間部に入り、沿線に占める緑の割合が多くなります。路線は九頭竜川に沿って蛇行を繰り返しながら、高度を上げていっているようです。感心するくらいカーヴの多い路線でした。
 線路に立つ架線柱は、古色蒼然たる木製から、如何にも地方私鉄らしい鋼材を組んだ物、そして近代的でありふれたコンクリート柱まで入り混じっており、この路線の歴史と懐具合と、それでも投資の意欲があることとを伺わせ、なかなか興味深いものでした。
 ちょうど1時間ほどで終点の勝山に着きました。九頭竜川と山とに挟まれ、工場の手前といったところにある駅ですが、木造の駅舎に地方私鉄としては比較的ゆったりした構内の醸し出す雰囲気は、天候とも相俟って何とも爽やかな印象でした。
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 折り返しの列車まで30分ほどあるので、その間周囲を散策します。

 この路線は、かつては更に九頭竜川の上流である大野まで延びていましたが、その区間は1974年に廃止されました。その痕跡がないかと探してみましたが、工場が拡張して産業廃棄物でも埋めたのか、廃線跡は駅のすぐ北で見失われ、九頭竜川沿いまで出てみましたが判然としません。探索は諦めて駅に戻り、駅舎のたたずまいなど観察します。
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時代を感じさせる看板(たんび氏撮影)

 10時過ぎの電車で勝山を離れます。当初は空いていた車内ですが、次第に乗客が増えていきます。
 途中「轟」という駅を過ぎます。「とどろき」と読む駅は難読として知られ、東急の「等々力」、青森県は五能線の「驫木」、今はもうありませんが和歌山県の野上電鉄の「動木」と、どれも一筋縄では読めそうにもない駅ばかりです。ところがこのえちぜん鉄道の「轟」は、「どめき」と読みます。なんとまあ。
 下志比の駅で、灰色のカラーに白いラインが入った、なかなか瀟洒なセーラー服を着た、永平寺中学のネームプレートを付けた女の子が乗ってきて、次の永平寺口で降りていきました。アテンダントの制服よりずっと印象に残っています。
 永平寺口を過ぎて平野部になる頃には、例のフリー切符のお蔭なのか、乗客はどんどん増え、しまいには立ち客だらけになります。これだけの利用があるとは、えちぜん鉄道当局の努力は一定の成果を挙げているようで、はなはだ結構なことです。

 我々は終点まで乗らず、分岐点の福井口で下車して、三国芦原線に乗り換えます。

 つづく
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by bokukoui | 2006-10-25 23:58 | 鉄道(現況実見) | Trackback | Comments(0)

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