放っておいた話題を雑駁に区切る

 もう長いこと(加筆予定)で放っておいた記事、「わからないということはけっこういいこと」について。

 この記事を起そうとしたきっかけの、「烏蛇ノート」さん元の議論について細かく見て行こうと思ったけど、なんだかうまく書けそうな自信もないし、時機も逸しているし、また元の方でのその後の議論の進展方向も小生の関心と異なる方向に向かっている感もあるので、結局は自分の思いつくまま適当なことを書いて、一区切りとしておきます。
 ものすごく適当に書いているので、読んでも意味がほとんど不明に思われるのが普通だと思います。あらかじめご諒承ください。

 緒方氏の箴言に従って最初に結論を繰り返し述べておけば、偶発性の尊重ということの重要さを小生も改めて感じるに至ったということです。
 そして、宮台氏の言説に反発して「萌え」「二次元」を称揚している言説の陥った陥穽をcrowserpent氏が指摘してくれたことによって、小生が最近の「萌え」だのなんだのに対して抱いている違和感の、少なくとも一部が説明されたように感じられました。

 すごく大雑把な言い方ではありますが、世の中複雑になっていって分からないことやややこしいことは増えていく一方です。それに対しどう対応していくかということは、今を生きる人間にとって重要な課題であろうと思います。で、「萌え」というもののある種の展開方法は、それに対する対応の一つではあるのかもしれない、そう思います。即ち「萌え」によって自己の欲望を対象にぶつけて「自己愛ごと回収」するシステムに身を委ねることにより、複雑なこの世の中に自分がはっきり認識できる一角を作ろうとする(その一角の中では予測不可能で偶発的な「他者」は用心深く排除されている)ことによって、精神の休息の場を作ろうとする営みということですね。
 ここで一言しておきますと、そういう場を作ろうとすること自体は決して逃避でも何でもなくて、むしろ人間が疎外感から救われ「自分らしく」(嫌いな表現ですが他に適切な言い方が思い浮かばない)生きる上でかなり重要なテクニックではないかと思います。ただ注意すべきは、複雑で偶発的なノイズに満ち満ちているこの世の中が「間違」っていて、自分が休息するその一角こそが「真実」なのだと言い出したらまずいんじゃないかということです。
 何となればその休息する一角は、世の中のあり方に反応して作られた待避所なのだから、やはり世の中と無関係に存在しているわけではなくて、やはり広い意味で「世の中」を構成しているということです。待避所と世の中の隔絶をあまりに強めようとすると、かえって待避所としての機能を損なってしまうのではないかと思うのです。
 その事態を避けるためには、待避所の存在についてのアカウンタビリティというか、明快な説明はできなくても、それが何故自分にとって大切なものなのか、その大切さを維持するにはどうすることが必要なのか、といったことを自問し続ける必要があるのではないかと思うのです。そして、それは明快で最終的な結論を出すことよりも、自分にとっての意味合いを常に問い直し続けることに意味があるのだろうと思います。正解は出せません。でも考えることに意味があるのです。
 そこら辺を履き違えると、自分のための待避所がかえって、複雑でややこしく混沌に満ちているような世の中を、律するべき規範のように取り違えてしまいます。その結果、crowserpent氏が指摘してるような、SFにありがちなディストピアの設定としか見えないものを理想社会と言い張るような転倒が出現することになるでしょう。
 繰り返すと、待避所を建設すること自体はむしろいいことだと思いますが、戦場で弾丸を避けるのに、目をつむり耳をふさいで弾が飛んでこないと思い込もうとするよりも、目を見開いて飛んでくる弾の射線と弾種を見極めて、手持ちの資材に照らし合わせて適切な待避所を作るようにした方が宜しいと思うのですが。
 crowserpent氏が以下のように述べておられますが、
「萌え」という言葉が「対象に一方向的に欲望を投影する」ための言葉である、ということは、言い換えるなら「他者を他者として見ない」ためのもの、ということになります。

 「欲望の投影」がダイレクトに外部に影響を与える危険の大きい「萌え」ジャンル(例えば「生モノやおい」)では、このことは特に強く意識されます。しかし、そうした危険の少ないジャンルの場合、こうした問題が意識されないばかりか、「萌えキャラこそが真実である」という転倒した主張がなされることすらあります。
 という倒錯を、少なくとも最近の「萌え」関連の世界は(他の待避所建設手法と比べても)起しやすくなっているのではないかと思います。

 ついでに言えば、こういったノイズと予知不可能性に満ちた「他者」を排除した空間を作ろうとし、なおかつそれを世間一般に逆に広げてしまおうとする発想は、「萌え」な話に限られるものではもちろんなく、これがそもそも、複雑でややこしい世の中に対応するために開発された対策手法が転倒してしまったものと考えれば、いつぞや縷説したような教育問題についても同じことが言えるのではないかと思いもします。長期的にしか結果を判定できず、見届けることができない教育の成果を、自分が把握可能な範囲にしてしまおうとする欲求、「他者」の未来までをノイズなく支配してしまえるものにせんとする野望。

 慧眼な方はもうお察しと思いますが、小生がここまでうだうだと上述した、近代社会における疎外感からの待避所というアイディアのモデルは、近代家族にあります。近代家族は待避所のもっとも汎用的なモデルとして使われてきたのではないかと思うのです。そして、皮肉にも、そのモデルを売り込むことで近代社会の資本主義的発展はより加速され、疎外感を強化する場合さえあったのではないかと思いもします。このモデルがむしろ規範になってしまったからです。
 以下は結構妄想に近いような思い付きですが、近代二百年の世界史を見渡せば、このような救済空間を求める人間の疎外というような問題は結構普遍的なもので、「萌え」と疎外感の関連に類似したような事例は近代社会の各時代各地域で観察されるのではないかと思うのです。こういったことを考えるに至ったのは、高山宏氏の著作やダイクストラ『倒錯の偶像』などを読んだところによるものですが、そこら辺から色々考えると、例えば「メイドさん」(のモデルになっているヴィクトリア朝)に自分の欲望を託することがなぜ今現在流行っているのか、ということにも新たな視角が持ち込めそうだし、小生が本業で行っている電鉄業の研究も、近代家族規範普及の商業的側面という把握が可能であろう(しかもそれは世界にあまり類例のない、日本独特のものだったりする)、と考えてみたりします。
 趣味と実益の一致、ですね(?)

 ちなみに、そういった視点を踏まえた『倒錯の偶像』再論を、実は前々から考えているので、年内には書いてみたいとは思っているのですが・・・。読み直すのも大変な厚みの本なので・・・。

 それから余談ですが、「萌え」キャラクターに入れあげる方々について、何かある対象に関心を持ったら「それが如何なる経緯で作られたのか」ということに関心を持っても良さそうに思うのですが、そうはならないのでしょうか。鉄道趣味者からするとまこと奇妙なことのように思えます。

 色々グダグダですが、以上個人的備忘ということでご勘弁を。読んで訳が分からなくても読んだ方の責任ではありません。
 最後に、2日付日経新聞のインタビューで鷲田清一氏が言っていた台詞でも引用して、お茶を濁しておきましょう。この記事の作り方自体には結構疑問を感じるんですけども(苦笑)

大人の思考とはわけのわからないものを許容し、すべてを分かろうとしないで賢くなること
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by bokukoui | 2006-11-02 23:59 | 思い付き