創価とエジソンと名鉄電車

 昨日に引き続き、このブログを更新しようとする23時50分過ぎになると途端に機械の調子が悪くなり、以後約1時間は回復しないという奇妙な現象が発生しており、当ブログの更新も遅れがちとなっております。誰かが毒電波でも飛ばしているのでしょうか(苦笑)。

 さて、昨日の話と、そして数日前にやっていたような話の双方に関係するような思い出。

 今を遡ること数年前、小生は現在廃線となった名鉄の岐阜県内のローカル線に乗っておりました。終点まで(厳密には更に奥へ分け入る路線に乗り換える駅まで)乗るつもりだったのですが、乗った電車は途中折り返しでしたので、そこで時間つぶしに美濃北方という駅で降りてみました。
 駅の待合室にはふたりの人が電車を待っていました。一人は制服姿の女子高生で、もう一人は新聞を読んでいる中年男性でした。女子高生の制服が小生の印象に残っていないところからするとセーラーではなかったような気もしますが、やや記憶が曖昧です。
 中年男性は赤ペン片手に熱心に新聞に印をつけています。この週末に大規模なお馬さんの駈けっこ大会でもあるのかと(笠松?)最初は思いましたが、よく見ると様子が変です。それはスポーツ新聞ではありません。・・・もうお分かりと思いますが、その男性は聖教新聞の池田先生のお言葉にいちいち赤線を引きながら読んでいたのです。

 そこまで観察したところで、つとその男性が新聞から目線を上げたため、小生はもろにその人と眼が合ってしまいました。
 で、結局は勧誘、というか折伏というか、ありがたいお話を伺うことになってしまったのでした。どうもその時聖教新聞はエジソン特集? をしていたのか、エジソンが如何に努力で偉業を成し遂げたか、という話をその中年男性は小生に対して解説してくださったのでした。今にして思えばそれが創価学会の教えとどのような関係にあるのかが謎なのですが、恐らくあの「天才とは1%のひらめきと99%の汗である」という、極めてよく誤解される台詞を元に、営々と努力して教えを広め、信仰に励むべし、という風なことだったのでしょうか。

 当時小生もまだ若造で、というかリアル工房だったような気もしますが、今ならもっと対応の仕方もあったでしょうに、カチンときてマルタン・モネスティエ『死刑全書』あたりから仕込んだ知識で言い返しました。

「エジソンは自分の作った直流システムが交流に負けそうになったから、交流のネガティヴ・キャンペーンをするために電気椅子を拵えた、稀代の悪漢である」

 当時はまだリチャード・モラン『処刑電流』(みすず書房)は出ておりませんでした。
 その場にいた女子高生(けっこう美人だったような記憶あり)が、何か気持ち悪いものを見るような様子でいたのがいたたまれませんでしたが、今にして思えば小生もまたイタい行動をしていたことには変らなかったわけでして。

 最近古本屋で買い込んだT.P.ヒューズ『電力の歴史』(平凡社)を読了し、この時の記憶がふと蘇ってきました。ヒューズの本はアメリカ・イギリス・ドイツの三ヶ国を比較しつつ、各国における電力業の発展と、それと政治家や技術者、経営者たちの係わり合いを描き出したもので、実に読み応えのある本でした(昔図書館で借りて読もうとして挫折しました・苦笑)。これはこれでちゃんと書評を書くだけの本ですが、今余力がないので省略します。
 で、この本を読むと、エジソンの偉大さはただ単に電球を発明したことなんかではなく、発電・配電・照明(エジソンは遠距離送電の時代には電力業に関っていません)という、総合的なシステムを開発したことにあるということが分かります。エジソンはそのシステムの中で欠陥となる部分(ヒューズはこれを「逆突出部」と呼ぶ)を見抜いて、その解決策を考えるという面に優れた才能を発揮しました。彼はただ発明家であるだけではなく、優れた経営者的な側面も持っていたわけです。まあ、その経営の才が暴走すると電気椅子を拵えてしまったりもするわけですが・・・。
 しかしこれは世間一般の、つまり聖教新聞が広宣流布の教訓話に使ったり、或いは子供向けの簡単な読み物類に見られるような、そのようなエジソンのイメージとは異なります(ややうがって考えると、「メンローパークの魔術師」と呼ばれ、ひたすら発明に打ち込むという一般的イメージ自体も、経営上の有利さから演出された面があると考えることもできそうに思います)。

 往々にしてこういったことはあります。
 つまり、複雑で他の事象と様々な関係を持っている歴史的事象や人物の事跡を断片化して取り上げ、極めて卑近な道徳というか教訓話的なものにして解釈して見せる、そのようなことです。そしてこれは歴史に限ったことではないように思われます。
 で、どういったときにこういった単純化が行われるかといえば、やはりこれは「教育」という局面に際して行われることが多いのではないかと思うのです。
 エジソンは教育や訓話の場面に引き出されることが多く、また事実人口に膾炙するだけのことを成し遂げた人ではありますが、しかしそれだけ偉大なために、皮肉にもその偉大さをきちんと説明すること自体が結構ややこしく複雑なことになってしまっている、ということではないかと思います。
 複雑なことを複雑であるが故に楽しむというのは、確かになかなか難しいことではありますし、短期的な教育効果を求める場合には必ずしも適合的ではないでしょう。しかしだからといって、このような言説の世間での氾濫を見過ごしてしまうことに対して、小生は抵抗感を拭い去ることができません。

 以上、何事も文脈ということを考えようというお話でした。あと歴史を教育するということの難しさ、かな。
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by bokukoui | 2006-12-14 23:59 | 思い付き