本日多忙につき適当に思い付きを連ねる・教育とトイレと谷崎と

 いろいろあって忙しいです。
 明日の授業の準備とか、金曜の授業の仕込とか。
 しかして、昨日の記事のせいか急に多くの方にご来訪いただけ、恐縮至極。ご紹介してくださったブログ等が幾つかあったようです。

 書きたいことは幾つもありますが、なかなか時間的余裕がありません(小生は文章を書くのがものすごく遅いのです)。しかしトラックバックしてくださった先などから辿って、「教育再生 有識者からの提言」などという素晴らしいページを見つけてしまい、ますます頭を抱え込むのでありました。
 渡部昇一もクライン孝子も中村粲も驚きませんが、流石に念法眞教は如何なものかと(念法眞教に関してはカマヤン氏のサイトなど参照。これまたウィキペディアで編集合戦があった由)。

 よくコメントしてくれる某後輩氏と以前教育について討論し、「教育とは社会経済学の問題であって倫理・道徳ではない」という一点で同意を見ましたが、教育をそう見たくない人が多いということはどういう意味なのかと考えずにはいられません。

 しかし。
 小生がここで教育について語るということ自体が、「教育再生会議」の面々のごとく、他者をコントロールするという「教育」の快楽に酔い痴れているという側面は否定できません。小生がバイトで塾講師をやっているということもこのことの言い訳になるとはいえないでしょう。人を呪わば穴二つ。
 というわけで、今日は自己批判をかねて、教育をきっかけに左斜め45度なお話を。まあいつもどおりということです。

 上掲「教育再生 有識者からの提言」の栄えあるトップバッターは、トイレ掃除で人格陶冶を図る「日本を美しくする会」鍵山秀三郎氏であります。ついでに言えば「日本を美しくする会」は「おやじ日本」なる団体を「応援」しており、この「おやじ日本」には警察官僚としてメディア規制に熱心で「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」委員でもある竹花豊氏が関っています。

 小生は以前19世紀英国の家事の指南書など抄訳したりして、少々家事の歴史をかじったりしました。で、20世紀の先進国では、家庭電化の普及などをてこに家事の合理化が進んだ(皮肉を言えば戦争のおかげ)のでありまして、その結果生活の質はおおむね向上しました。こういった家事の合理化に際しては、勿論市場の拡大を狙った企業の活動も大きいですが、婦人問題の運動家とか学者が生活の合理化を唱えて啓蒙普及活動に励んだのもあるでしょうね。
 で、鍵山氏のご高説ですが、小生には今ひとつ納得できません。同じ成果をあげるのにより少ない労力で済む/同じ労力でより大きな成果を上げることは「合理化」でありまして、まずもって大変結構なことだと思います。合理化を実行するには、状況の分析力・解決を編み出す発想力・アイデアを実現する実行力などが問われ、これはなかなか大変なことです。しかして特に企業経営においては、これが重要なことは論を俟ちません。
 家事の世界で合理化が進んだことは否定すべきではないし、ことトイレに関してはTOTOやINAXなどによる技術進化もめざましい物があると思います(小生の家の便器も数年前にリフォームして取り替えましたが、汚れがつきにくく落ちやすくなっています。おまけに水使用量まで減っています)。然るに、鍵山氏の会の清掃法は、どうもそういったことを一切顧慮に入れず、熱湯や紙やすりを使い、あまつさえ感染症の危険性も埒外に置いているようです。
 以上の問題点については、こちらの「七転び八起き日誌」で経験者の方が縷々指摘しておられます。小生は、合理性を欠いた行為に従事することへの教育的効果は疑問視せざるを得ません。

 でまあ、ここで言いっぱなしなのもあれなので、ふとここら辺までウェブ上の情報を読んで思いついたことを発展させるべく書架から一冊の本を取り出しました。
 岩波文庫の『谷崎潤一郎随筆集』を。
 どういう関係があるかって? 有名な「陰翳礼賛」の中で、谷崎が便所のことを色々書いているのですな。
 私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されるごとに、つくづく日本建築の有難みを感じる。(中略)数奇屋普請を好む人は、誰しもこういう日本流の厠を理想とするであろうが、寺院のように広い割りに人数が少く、しかも掃除の手が揃っている所はいいが、普通の住宅で、ああいう風に常に清潔を保つことは容易ではない。取り分け床を板張りや畳にすると、礼儀作法をやかましくいい、雑巾がけを励行しても、つい汚れが目立つのである。で、これも結局はタイルを張り詰め、水洗式のタンクや便器を取り附けて、浄化装置にするのが、衛生的でもあれば、手数も省けるということになるが、その代り「風雅」や「花鳥風月」とは全く縁が切れてしまう。彼処がそんな風にぱっと明るくて、おまけに四方が真っ白な壁だらけでは、漱石先生のいわゆる生理的快感を、心ゆく限り享楽する気分になりにくい。なるほど、隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔には違いないが、自分の体から出る物の落ち着き先について、そうまで念を押さずとものことである。
 といわけで、清掃をすること自体が目的であるならば、便所の構造自体も変えてしまったらどうでしょう。「伝統」とやらを重視する「教育再生会議」やら「教育再生機構」やらのご理念とも一致するかと思いますが。
 もっとも、谷崎先生のご意見がかなり偏ったものであることは念頭に置いた方がいいと思いますけど。大体昭和初期に水洗便所を「手数も省ける」といって導入するというのは、ごく限られた階層の話でしょうな。
 そして、谷崎先生は結構な(ノーベル文学賞級の)「変態」であられるということです。作品は面白いけれど、かといって一般の教育理念に安易に適用できる価値観じゃないですね。

 さてここで「変態」ということで思いついたことが。
 19世紀のヴィクトリア朝では、中間以上の階級は子供をパブリックスクールに送り込むことを当然と見做していました。そして全寮制のパブリックスクールでは、罰則としての鞭打ちが始終行われておりました。鞭打ちが当時の英国人の人格陶冶について如何なる影響があったのかを記した文献は読んだことがありません。ただ、どうも現在のSM趣味の原点はヴィクトリア朝の鞭打ち趣味にあり、そういった趣味がこの時代に生まれたのは、パブリックスクールのこういった仕組みによるとする説が有力なようです。
 さてここで、素手素足のトイレ掃除が、上掲「七転び八起き日誌」にあるように教育現場に取り入れられている状況が将来的にもたらす影響を、ヴィクトリア朝の先例を斟酌して推測しますと。

 次はスカトロ趣味が来る、と考えられます。

 実際、上のブログに「便器の水こしにビールを注ぎ飲む者さえ居ると聞く」とある(ソースが不詳ですが)ことからもその線は高そうです(笑)。変態が増えること自体は、案外世の中住みやすくなりそうかもしれませんけど。
 駕籠真太郎先生の作品を愛読している小生の趣味は、時代の先端を行っているのだ、なんて。今度、町野変丸にも手を出してみるか。

 ちなみにこんなことを思いついた直接の理由は、小生のパソコンのIMEは「そうじ」と打って変換したら第一候補が「双児」だったからです。『エロマンガ・スタディーズ』の索引を作ったせいですね。

※このネタの続きはこれとかこれとか
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by bokukoui | 2006-12-26 23:59 | 時事漫言