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筆不精者の雑彙

bokukoui.exblog.jp

教えてあげる 嘘じゃない “愛”のこと

 一昨日の記事の続きです。
 いきなり話が逸れますが、小生がこれから長々と書くであろうことの要約は、既に以前当ブログでマンガの感想を書いた中で書いてしまっております。ので、それをお読みいただけると以下の話が分かりやすくなる、というか読まずに済んでしまうかも(笑)しれません。
 それを踏まえて前回の続き、すなわち「革命的非モテ同盟」さんの「自由恋愛は自由ではない」で示された方針についての違和感について述べたいと思います。

 まず断っておかなければならないのは、小生はアイザイア・バーリンについて「E.H.カーの『歴史とは何か』に出てきた人」というくらいの認識しか持っておりませんし、「~からの自由」「~による自由」はそういえば昔高校の世界史のフランス革命の授業で習ったなあ、という程度のことしか知りません。ので何か用語の使い方や概念の理解で誤った箇所があるかもしれません。

 さて、一昨日の記事で話題に載せた加藤秀一『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』を読んで思ったことなのですが、同書では「恋愛」「結婚」「幸福」が分かちがたく結びついてしまっている現状を再検討しています。恋愛して→結婚して→幸福な家庭を築く、というのがあるべきライフスタイルとして深く浸透してしまっている、ということです。同書ではこのような考え方がどのようにして(優性思想と絡み合いつつ)普及していくかを検討しています。
 で、明治から戦後にかけて日本で「恋愛」が普及してゆく過程には、確かに「革非同」の古澤氏がご指摘の通りに、イエ制度などの「封建遺制」からの自由という意味が含まれていたでしょうし、今日尚そのような意味が全く力を失ったとまではいえないでしょう。しかし現在のところでは、おおむねそういった前近代のままのイエ制度的な規範(ってこれ自体もどこまで「前近代」なのか怪しいところですが)によって「恋愛」を抑圧する、という事態は決して多いとは思えません。それだけ「恋愛」が社会に普及したのであり、その結果として愛情によって結びついた夫婦及び親子関係を基軸とした「近代家族」が定着したのです。

 かかる状況下において、今現在「恋愛」が何がしかの抑圧をもたらすとすればなんでしょうか。
 それは、旧来の規範を打ち破る自由をもたらした筈の「恋愛」が、新たな規範となって抑圧する原理になってしまっている、ということになろうかと思います。
 「恋愛」がそれだけ規範としての力を持ちえたのは、加藤秀一氏の説を踏まえれば、それが「結婚」を介して「幸福」と分かちがたく結びついているからでしょう。さらにそれが、近代的国民国家とも相性が良かったことが、新たな規範となるだけの根拠を与えたことも考えられます。
 となれば、結局「恋愛」を巡る諸状況の下で抑圧されている人々に求められるのは、「消極的自由」、つまりこの場合は「恋愛からの自由」ということになるでしょう。
 「恋愛」が「幸福」と密接に結びつくことによって、恋愛していない人は不幸である、さらには恋愛できない人間は落伍者である、といったような規範となって人々を縛るところに問題があるわけです。それに対し、新たな規範を設けてそれを押し付けるようなことは、何ら解決になりません。より正確に言えば、ここで小生が考えた「恋愛」の抑圧からの解決法は、「恋愛<という規範>からの自由」ということになります。「恋愛」そのものを否定するのではなく、「恋愛」ばかりが「幸福」を得る道ではない、という相対化を図ることが、可能な解決方法なのだと当面考えています。

 規範の良し悪しが問題ではないのです。幸福は自分で決めるべきことで、外部から規範として拘束されるべきものではない。これが基本原則です。外部からそれを押し付けることが(たとえそれが如何なる「善意」に基づいていようとも)問題です。「恋愛」という規範に対抗して別な規範を拵えてそちらへの乗換を迫ったところで、結局規範を押し付けて抑圧しているという構図に違いはありません。一部の「非モテ」関連の言説にはそういった疑問を感じます。なぜ中絶の話をそんなにしたがるのでしょうか。道徳的な優位を持ち出すことは事態の解決にはなりません。
 「恋愛」もまた極めて個人的な心情の問題が基本であって、自分自身ですら把握することが容易ではない、矛盾に満ちた、強くて弱く熱く冷たい人の心の問題であります。
 古澤氏もこの点には気付いておいでのようで、恋愛は個人の間の問題です、個人の気持ちを権力は規制出来ません。愛国心を示す態度を強制は出来ても、愛国心は強制出来ません。そう見ると平等な権利の獲得は与えられず、平等な権利の剥奪しかとりえないと考えてしまうのです。とコメント欄で吐露しておられます。前段については全く賛成です。しかしそこでなぜ、後段(「そう」以下)のような単純かつ乱暴な結論に飛躍されるか、正直謎であります。 

 とはいえ規範の相対化を図るといっても、それはなかなか大変なことで、というのもそれだけ「恋愛」と「幸福」との関係が密接だからです。その過程を歴史的に追っかけていくと、多分そこでは近代家族との関連や、資本主義の発展との共同関係が見出せるでしょう。この規範を遵守することは、それなりに合理的な生き方であったからです。
 ただ、その構造をよりよく知って再検討を加えることにより、ある程度は抑圧的な規範として降りかかってくる「恋愛」に対処することが出来るかと思います。
 というわけで、以下に現時点で小生がこれらの問題について考えている視角を提示し、「恋愛」と資本主義がいかように結びつく関係にあるか、近代家族との関り、等について書こうと思いますが、随分長くなったので一旦ここでおしまい。
 さらに続きはまた次回(明日と書かないあたりが筆不精者)。
Commented by Lenazo at 2007-01-17 12:37 x
どうも。
この恋愛と幸福に関しては2年ほど前から既に、旧世代の人間たちにより恋愛できない、結婚できない人間を欠陥品であるかのごとく罵る言説が登場しておりまして、「女はすべからく結婚すべし」の島田裕巳、「30代未婚男」の大久保幸夫、「女性の品格」板東真理子といった新手の論敵が現れています。大久保は私のブログでも再三再四に渡り罵倒しているのですが、いかんせん全面対決を宣言している記事が私の他になく、大苦戦中。墨公委さんの助太刀を求む!
Commented by 某後輩 at 2007-01-19 00:46 x
>旧来の規範を打ち破る自由をもたらした筈の「恋愛」が、新たな規範となって抑圧する原理になってしまっている

この点は旧大陸の封建的な抑圧からの解放を求めた合衆国において、自由主義それ自体が建国の理念として絶対化されたために他のイデオロギーを一切否定する非寛容な思想となってしまったという指摘と相通ずるものがありますね。
Commented by 某後輩 at 2007-01-19 00:46 x
モテ・非モテの二項対立を受け入れるなら明らかに後者の側に属する自分ですが、いわゆる非モテ運動については正直ついていけません(というより、眉をひそめざるを得ません)。単純な話で、ルサンチマンからは見る者の不快感以外何物も生み出さない、それに尽きます。いわゆる非モテとされる人の窮状を救うのに必要なのはルサンチマンなどではなく、より一般的な課題、このコミュニケーション過剰な現代日本社会において、コミュニケーションの不得手な内向的・内省的な一部若年層の息苦しさ(生き苦しさ)を如何に緩和できるか、その一点に対して実践的な解答を模索していくことじゃないかと個人的には思っています。これは恋愛に限らず学校、就職活動、職場、自発的な人間関係等、より広い領域で見受けられる切実な課題ですし、今の若年層の置かれた苦境を考えれば一刻も早く手当てしなくてはならない問題と思います。そしてそれに必要なアプローチも思想的・哲学的な思弁ではなく、社会学や心理学、文化人類学などの実証的な知見に基づいた実践なはず。少なくても存在しない架空の敵を作り上げてルサンチマンを燃やしている贅沢は許されないのではないか、そう思う私でした。
Commented at 2007-01-19 01:55 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by bokukoui at 2007-01-19 06:24
>Lenazo様
近代家族そのものが形を変えつつある(のであって、決して「家族の崩壊」ではないと思いますが)ために、この規範も揺らぎつつあるのではないかと思います。そういった時に、旧来の規範を維持するべくヒステリックな言論活動を行うものが出るのは道理ではないかと。つまり、大久保・島田・坂東といった連中の言論は、生暖かい目で観察してやれば良いのではないでしょうか。
無論、小生が個々で書いてきたようなことも、やや間接的ではありますがそういった連中への対抗言説を形成してきているつもりです。こうやって蓄積していく材料は、きっとLenazoさんの剣を磨く砥石の役目は果たせると自負しています。
Commented by bokukoui at 2007-01-19 06:24
>某後輩氏
解放の論理が、いざ解放を達成すると次の抑圧原理になる、というのは普遍的なことのように思われますね。

「非モテ」問題をより一般的な文脈に引き出して生きにくさを緩和しよう、という点では小生も同じつもりです。「実践的な解答」というのが重要ですね(拙文はそれについては今だしですが)。やはり基盤には実証を置いて論じたいものです。
ただ、小生がこの問題に首を突っ込む気になったのは、実のところ小生の研究している電鉄史に近代家族という要素を入れたら上手く説明を作れそうだな、という個人的関心から来たものなので、その点いわゆる「非モテ」に関心を抱いている人と立ち位置が異なっている点は否定できません。

或いは、ルサンチマンを燃やしている人々はそれ自体が目的であって、「実証的研究」だの「実践的な解答」だのは関心の埒外なのかもしれません。

>非公開コメント
あとでメールします。
Commented by furukatsu at 2007-01-20 05:21 x
>>bokukouiさん
恋愛、言い方を帰ればヘテロセクシズムによる抑圧という文脈では、規範化されたそれが抑圧になっており、非モテ、または同性愛者等が抑圧されているというのは、その通りだと思います。ここで、かかる規範からの解放、幸福の規準を自由に決める事というのは確かに合理的ですし「正しい」と思います。
しかしながら、人は文化の檻に囚われ続けるという側面もあります。欲望とは「自然」に産み出される物ではなく、植えつけられる物(ジラールの三角形などに見られる形で)であり、だからこそ幸福もまた一つの文化の中で規範化されていくものではないでしょうか。つまり、ヘテロセクシズムが「自然」であるという言説と同様に、その規範からの解放は必然的に新たな「自然」と「欲望」と「幸福」を産み出すのではないでしょうか?
ここで、どうせ何らかの規範から逃れられないのであれば、自ら、または自らの属する階級の利益になるような新たな「規範」をでっち上げていくという方法になると考えるのです。もちろん、今の私の言説には、その新たな規範の具体的な構想も、そして説得力も無いですから、もっと考えねばならないのではありますが。
Commented by furukatsu at 2007-01-20 05:22 x
>>某後輩さん
現実的に身も蓋もない話をしてしまえば、本当に必要な事は、問題が存在する事を世の中に認めさせ、予算をつけさせる事ではないかと思います。その為には、ルサンチマンによってであっても、威力(実質的には数と声のでかさ)を背景とした行動というのが重要になってくると考えるのです。
Commented by 某後輩 at 2007-01-21 02:52 x
まず前回のコメントはfurukatsu様の手掛けている活動を特定したものではなく、ネット上の非モテ運動全般に対する一般論的な感想であるとの前置きをしつつ。

私はいわゆる社会/政治運動の論理と行動について全くの素人の域を出ないのですが、furukatsu様が手本としている新左翼の歴史的顛末に照らして考えるに、社会の主流から遊離したルサンチマンに基づく運動の行き着く先は予算獲得などではなく、周囲からの孤立と無理解、そして運動の掲げる大義そのものの道義的失墜ではないでしょうか。私自身は現代日本政治が専門ですが、戦後革新勢力が社会のマジョリティの支持と理解を得ることを放棄し独善と自家撞着による自滅の道を選んだ結果、革新の掲げた理想そのものが説得力を失い冷笑の対象に堕してしまった(その理想の社会的意義は以前にも増して高まっているというのに!)というお寒い現状を知っているだけに、furukatsu様の方法論は「非モテ」層の救済どころか更なる迫害、周縁化を招くだけではないかと危惧します。
Commented by 某後輩 at 2007-01-21 02:54 x
それよりも昨今のいじめや、引きこもり、NEET、若年労働問題など、社会の注目度も高く政策的対応が迫られている課題とリンクする形で「非モテ」問題をより広い視座の中に位置づける方が、社会の関心も政府の対応(つまりは予算措置)も引き出せるのではないか、というのが私の考えであり問題意識であったりします。その鍵となるのがコミュニケーションを過剰に要求する現代日本社会の風潮とそれに対する少なからぬ割合の若年層の不適応だと個人的には思っているのですが、いかんせん門外漢ゆえに上手く言語化・定式化できていません。他力本願ながら本田由紀先生のような気鋭の研究者に頑張って欲しいところです。

ところで本筋とは離れるのですがどうもfurukatsu様とは間接的に知り合いである可能性があるかもしれません。某ちゃんねる某板で活動されていたとのことですので、もしや・・・。
Commented by bokukoui at 2007-01-22 01:12
>古澤様
なるほど人は規範から逃れることは出来ないかもしれませんし、今規範からの抑圧を脱却するために作った論理が、次の時代には逆に抑圧の論理になってしまうことは(某後輩氏とのコメントにもありますが)良くあることです。「恋愛」の抑圧を相対化してもいつかそれが抑圧の規範と化すかもしれません。しかし、それはその時代の人がその時代に合った対策を考えれば良いことですし、そもそもそのようにしか解決出来ません。

「幸福」を相対化し「規範」となることを拒むということを主張する際、小生が歴史的経緯の叙述に力を注いで参りましたのは、こういったことに普遍的な正解などなく時代によって移り変わるということです。ですからそんな規範も絶対ではないよ、と主張できるわけで。
ですから、別段普遍的な(万人に守らせる)規範を拵えるという必要性を小生は全く感じません。ご自身が規範を作ってご自身で守られるのは一向構いませんが、それを他人に強要することは結局抑圧しか生みませんから。
Commented by bokukoui at 2007-01-22 01:19
(つづき)

平たく言えば、抑圧の苦しさからの救済を、他者を抑圧することで解決するという方法は間違っており、したがって支持も得られないであろうということです。(某後輩氏のご意見も大体そのような方向ではないかと思います)

「私の世界 夢と恋と不安で出来てる」の方にも後でコメントしていただけるとの由、楽しみにしております。ただ、エキサイトブログのコメント欄はいささか狭すぎる上にリンクなどの機能もないので、その点ご配慮いただければ続きの議論もしやすいかと思います。何卒宜しくお願い致します。

>某後輩氏
個人の問題を社会の問題とリンクさせる必要は勿論あると思うのですが、しかし個々人の直面する問題をあまりに簡単に社会問題に還元してしまうとそれもまた失われるものが多いと思います。戦術的側面と戦略的側面、どう使い分けるか、そしてその両者をどのように結びつけるか、難しいですね。

>furukatsu様とは間接的に知り合いである可能性
2.14集会が開催されるのならば、参加されては如何。
Commented by furukatsu at 2007-01-25 00:32 x
>>某後輩さん
うーん、問題化するといっても、現実、今まで無視されてきたわけです。ここで、観客が我々が踊っているのに見ないというならば、頭をひっつかんでこっちに向けざるをえないでしょう。
某後輩氏の言うような事は私も同様に思います。しかし、方法論の部分では、結局このような方法しか現状では取り得ないのではないでしょうか?

>>bokukouiさん
私もどんな規範も絶対ではないというのは、私も確信します。
しかし、その規範は絶対ではないという規範が生まれるというのも真実であると思います。結局、我々が出来る事は、相対主義を含めて、自らにとって利益となる規範を実現コストを鑑みながら選択していくということ以上ではないでしょう。
Commented by furukatsu at 2007-01-25 00:32 x
そしてまた、結果的にその規範は他人に対して強制をしていくものになるでしょう。セクハラ防止の為の規範は女性解放の原理から導かれたものですが、卑猥なポスターを職場に張りたい男にとっては抑圧になります。
もちろん、私の今言っている事が共感を呼びづらく、それゆえにコストがかかりすぎて実現不可能という批判は理解します。もっと適切な目標を考えていくことが要請されているのかもしれません。
いずれにせよ最終目的は、「非モテ」が生きやすい社会にるということ以上ではないのですから。

あと、エントリを書くのはちょっと時間的に今厳しいので…
コメントもお時間を頂ければ… もしかしたら時間的に書けないかもしれません。

あと、14日じゃなくて、11日にやろうと思います。平日なので。
Commented at 2007-01-25 01:02 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by bokukoui at 2007-01-27 02:57
>古澤様
規範を相対化し続けること、という点はおおむね議論の共通基盤とできるかと思いますが、ただその後に大きな違いがあるように思います。小生は規範を他人に強制することによって抑圧が生じることを最も問題視しておりますので、なぜそこで他人に強制しなければならないのかが分かりません。規範同士が相互に共存することは可能出だと思いますし、個別にぶつかり合った時点で調整すればいいだけのことで(もちろんその営為を通じて規範も移り変わってゆくでしょう)、あれかこれかと改宗を強いるが如き性質のものではないはずです。
「「非モテ」が生きやすい社会」とは、「非モテ」でない人にとって生き辛い社会になってしまっては意味がありませんし、どだい支持も得られないでしょう。

これらの点については1月26日付記事
(http://bokukoui.exblog.jp/4445400/)
でも触れましたので、ご参照いただければ幸いです。

時間的に厳しいとのことですが、やはり季節柄試験でしょうか、或いは卒論?
小生もあまり筆まめで迅速に対応できる方ではありませんので、エントリでもコメントでも気長に待っております。楽しみにしておりますので、今後とも御鞭撻いただければ有難く存じます。
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by bokukoui | 2007-01-16 23:58 | 思い付き | Comments(16)