愛してるとか好きだなんて 軽く言うのね

 機器不調のため、更新が遅れております。ご諒承下さい。

 小生が先日ものした「恋愛資本主義史三部作」(←勝手に命名)に関し、そもそもの発端の「革命的非モテ同盟」の古澤氏にその後色々とコメントをいただき、また本件に関連して大野氏からも参照すべき議論がある旨ご教示いただき、古澤氏大野氏のブログのコメント欄で論陣を張っておられた素朴な疑問氏もご自身のブログを立ち上げられ、かくて参照文献の急増状態に小生は目下付いていけておらず、今の時点ではまだまとまった記事は書けそうにありません。済みませんが、いつか必ずコメントへの返信も兼ねた記事を書きますので、しばしお待ち下さい。
 ただ、ざっと自分の書いたものも読み返して、ひとつ書き落としていたことがあったのを思い出したので、今日は小生の主張をものすごく雑駁にまとめてから、書き落としていたことを補足しようと思います。

※自称「恋愛資本主義史三部作」へのリンク
 その1「愛という形無いもの とらわれている」
 その2「教えてあげる 嘘じゃない “愛”のこと」
 その3「私の世界 夢と恋と不安で出来てる」

 で、まず簡単におさらいをすると、小生の主張は
・「非モテ」の人々が主張する、「恋愛」を史上の価値とする規範に抑圧されていると主張する状況をもたらしている要因は、近代家族システムにある。
・近代家族と資本主義は共に関連して発展してきたものであるため、両者が強く結びついて「恋愛資本主義」を生み、幸福のあり方を一方的に定めて抑圧の原因となっている。
・このような規範の抑圧に対抗するには、抑圧をもたらすメカニズムを理解することを通じて規範を相対化し、自分なりの幸福を追求することである。

 ・・・たったこんだけのことを書くのにずいぶん無駄な容量を使ったもんだと我ながら思いますが、おおむねそんなところです。

 さて、そうはいってもどうやって価値観の相対化を達成し、自分なりの幸福を見つけたものでしょうか。「革命的非モテ同盟」の古澤氏は、「革非同」と別のご自身のブログ「断片部」1月24日付の記事で、以下のように述べておられます。
私は、殴り飛ばして言うことを聞かせる以上の方法論を知らない。

しかし、最終的には非モテが生きやすい社会になればそれでいい。

その意味では、恋愛という概念を相対化するというのは、一番良いかもしれない。

でも、それが出来るのか? どうやって?
 古澤氏が前段で「相対化」の意義を認めてくださったのは有難い限りですが、確かに具体的手段については実証的に自体を認識する、位のことしか書きませんでした。なるほどもうちょっと具体的な方法を示すべきであったと思います。
 相対化の方法については、「各人の得意な・好きな手法で構わない」と半ば逃げを打ったように思われても仕方のないことを書きましたが、しかし人によって方法が異なること自体は否定できますまい。ただ小生は少なくとも一つの回答を持っており、しかもそれはきっと古澤氏にも、そして秋葉原の「クリスマス粉砕闘争」に集うた人々にも、そして秋葉原の闘争で訴えかけようとした層の人々にも、有効な訴求力を持っていることだと思います。
 それは畢竟、「オタクであることを貫く」ということでしょう。
 小生が過去に「オタク」について書いてきた文章の中で多少は触れてきたことではありますが、そもそもは「オタク」とは、ある事物が本来消費されると想定されている状況とは異なった形で消費する人々ではなかったかと思うのです。「子供向け」の特撮番組を一生懸命に見る大人のように。ということは、「恋愛資本主義」のような、「幸福=よき消費」の形とはかくあるべし、という規範を既に相対化しているようなものではないでしょうか。古澤氏のブログの表現を拝借すれば、「ルールの越え方」を既に見つけている人たちがそもそも「オタク」だったのではないかと小生は考えます。
 だとすれば、既に「オタク」は恋愛資本主義的な抑圧からの脱却法を、少なくともその端緒は摑んでいるはずです。

 最近になって「非モテ」という話題が盛り上がり、その議論に参与したものの少なからぬ部分が「オタク」であったということを解釈する際、ものすごく意地の悪い書き方をすればこうなります。「オタク」はもともと捻くれた消費をすることで資本主義の抑圧を相対化して生きる術を身につけていた(一種の「適応」といえましょう)のが、近年「オタク」がもてはやされるようになって「オタク」相手の産業というのが急速に注目されるようになった、その結果「オタク」自身が恋愛資本主義ならぬ「アキバ資本主義」というか「萌え資本主義」というものにはまってしまい、かつてのようなオタク活動を通じた相対化の能力が低下してしまった、そういうこともあるのではないか、なんて思ったりもしますが、これは9割以上は鉄道趣味者の厭味ですね。
 ただ古澤氏の場合は、ミリオタという方法もありますし(これは鉄道趣味と並んで「~資本主義」的状況を惹起しにくいという点で優れています)、またミリオタを更に発展されて軍事思想史の研究に進まれているようですから、そっち方面でも相対化の手がかりはいくらでも拾えるのではないかと思います。小生は政治・軍事思想史にはとんと疎いですが、これらの学問が「殴り飛ばして言うことを聞かせる以上の方法論」を生み出しえないほど不毛な学問であるとは思えません。
 繰り返せば、「オタク」であるならば既に道は開かれているのです。自分の手元にある材料を自分で組み立ててください。とことん「オタク」をやれば、それを通じて世界を違ったように眺めることが出来るはずです。つまり規範を相対化できるのです。
 幸い小生は、昔から周辺に「この人の世界の見方はすごい」と思える「オタク」を何人も見出すことが出来ました。ので、こういった方法に対し楽観的になっております。実際にはなかなかそういった周辺の師匠かつ同志足り得る人物が見つからない状況も多いでしょうが、ネットの普及は恐らくその困難を軽減してくれることでしょう。

 さて以上のような説を持ち出すと、どうしても本田透『電波男』には言及せざるを得ないでしょう。小生は同書を一読しましたが、今読み返す暇もないし、かつあんまり読み返したくもないので、以下記憶に頼ってではありますが、小生の上に述べた説と本田氏の説く「護身完成」との違いを略述します。もう面倒なので箇条書き。
・その1。本田氏は現在の「恋愛」を批難する一方で、「純愛」や「家族」は称揚するものとしており、近代家族イデオロギーと資本主義との関連性を全く想定していない。
・その2。「萌え」自体が資本主義として成立することを唱え(「ほんだシステム」だっけか?)、資本主義とオタクの関係に過度に楽観的である。
・その3。「萌え」関連の、いわゆるアキバ系以外の様々な「オタク」というか「マニア」というか、そういったあり方に無頓着である。

 一点だけ補足するつもりがえらく大長編になってしまいました。いつものことですが。
 引き続き、大野氏や素朴な疑問氏の書かれたことについても考え、折を見て本稿の続きとなるべきものを書いてみたいと思います。

こちらに続く
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by bokukoui | 2007-01-26 23:59 | 思い付き