ママのように素敵な恋 見つかるかしら

 先日書いた記事の続きです、というか、要するに「恋愛資本主義史三部作」(123)の更に続きというべきか。
 今回はその補足の2、として、jこれらの問題に積極的に発言しておられる大野氏のブログの、コメント欄で展開された素朴な疑問氏との議論について、小生の三部作のうち23をご紹介いただいたこともあるので、この議論を拝読して小生が思ったこと、およびまとめとしてこの「非モテ」「恋愛資本主義」に関する小生のスタンスを闡明にしたいと思います。

 で、以前小生はラーゲリ緒方氏に「長い意見を書くなら最初に結論を示せ」といわれたので、最初に結論、つまり小生が「非モテ」という話題に関し如何なる関心を抱いているかということを簡潔に述べたいと思います。
 端的に言えば、小生は「非モテ」そのものにはあまり関心がないということです。
 小生が関心があるのは、近代経済史の一環としての「恋愛資本主義」であり、そしてこのことは以前にも書いた覚えがありますが、「資本主義」に関心があるから「恋愛資本主義」に関心を抱いたのであって、逆ではないということです。
 勿論、これは「非モテ」という話題を熱心に議論しておられる皆さんに喧嘩を売っているわけではなく、ただ小生の関心が少しずれているために議論に際し余計な混乱や誤解が起こることを避けたいがためのことであります。この一連の記事で一番喧嘩を売っている相手は多分JASRAC(笑)。

 で、以上の立場を闡明にした上で、大野氏のブログの1月22日付記事のコメント欄で行われた議論について、感想などを述べて見たいと思います。
※追記:その後、大野氏のブログのデータが吹っ飛んでしまいましたが、web archive 上に幸いにしてコメント欄付きのデータが残っておりました。

 大変長い議論なので、幾つかの部分に区切って考えるのがよいでしょう。
 まず勝手に第1部(素朴な疑問氏の最初の書き込みから、大野氏の1月24日3時43分付コメントまで)としますが、素朴な疑問氏の「革命的非モテ同盟」古澤氏に対する批判とそれに対する大野氏のコメントについては小生も同意いたします。「非モテ」を救えるのならば「モテ」だって救える、なぜならどちらも「恋愛」に抑圧されているのだから、素朴な疑問氏の言う「恋愛産業複合体」が共通の問題なのである、という論は小生も全く同じ様に考えており、それだけにこの文脈で拙文をご紹介いただいたのは大変嬉しく光栄に存じます。
 第2部となるのは、素朴な疑問氏の1月26日19時52分付コメントあたりまででしょうか。ここではフェミニズムの運動論との比較などから古澤氏の活動に関する批判と、「非モテ」問題は個人的なものか社会的なものか、「恋愛資本主義/恋愛産業複合体」の重要さ、「スクールカースト」との関連などが話題に上っています。この辺の議論は小生にしても感心のあるところで、個別に引用して述べるのは煩瑣なので略させていただきますが、首肯するところの多いものでした。
 ただ小生は「革命的非モテ同盟」に興味を持った発端が「反白色テロル大連帯」のパクリではないかというツッコミからなので、おそらく大野氏や素朴な疑問氏と比べて古澤氏の考え方への見方が最初から異なっているかもしれません(新左翼が日共のネタに乗せられてどうする)。「クリスマス粉砕闘争」にも「参加」したのではなく「見学」「取材」に行ったのであり、またネタだと固く信じていたのもそのためですし。

 それ以降の第3部(第2部の後半でも既に出てきていますが)および素朴な疑問氏がご自身のブログで主に展開されている議論は、「恋愛普遍主義」という新たな話題に移ってしまっており、「恋愛資本主義/恋愛産業複合体」という話題とは異なってしまっております。それが小生にはいささか残念なことでした。小生の管見の範囲では(とはかなり狭いのですが)、「非モテ」の議論で「恋愛資本主義」という言葉が登場しても、それについて議論しようという向きはほとんどないように感じられたため、大野氏のブログのコメント欄で素朴な疑問氏がこの方面の議論を始められたことに多大な関心を持ったのですが、やはりなかなかこの方向で議論を進めることは難しいのでしょうか。
 「非モテ」を巡る議論が発生している主たる要因はそれがある人々を抑圧しているからで、それは資本主義が関与しているためであるという立場に立てば、重要なのは近代におけるその特質であって、生物学的なところまで遡ることは、勿論意味がないなんてことは決してありませんが、それほど重要ではないように思います。
 さらに素朴な疑問氏はご自身のブログの「自分の意見を疑ってみる。」の中で、大野氏のブログのコメント欄で出された「恋愛産業複合体」というアプローチ方法に対し、ご自身で否定的な見解を示され、以降この話題には触れておられないようです。これに対し大野氏が、むしろこのアプローチについて長文の意見を該記事のコメント欄で書かれております。
 で、もうせん書いたように、小生はこれに対し「賢い消費者になる」、つまり「恋愛」と結びついたライフスタイルこそが「幸福」に至る唯一の道であるかのような資本主義と結びついた規範を相対化することを対策として唱えております。それは個人的解決に過ぎないかもしれませんが、多くの個人がこのような方針を取ることで、恋愛と結びつけた手法の利潤率が低下すれば、資本主義の方で方針転換することでしょう。方針転換した先でまた新たな規範と抑圧が生まれることは否定できませんけど、このサイクルを繰り返すうちに社会がもっと成熟して、抑圧や規範を次第に軽減する方向に向かって行ってくれるかも知れません。まあ、漸進的社会改良主義であって、ちっとも革命的ではありませんけど。

 以上、大野氏と素朴な疑問氏の議論の展開を拝見するに、小生が考えている「資本主義分析が『恋愛資本主義』の抑圧への対策として重要」「『恋愛資本主義』のバックには近代家族イデオロギーがある」という主張は、基本的に「非モテ」界隈で無視あまり追求されていない論点であるという感を再確認しました。
 ので、まあ小生が自分勝手にこっち方面の話をしても、多少のニッチ的需要はあるのかなと思いますので、何かネタがあればこれからも書いていきたいと思います。

 最後におまけみたいな話ですが、「恋愛資本主義」の展開が時代によって変化するのではないかという、思いつきの論点を一つ。
 「恋愛資本主義を打破するには恋愛をインフレ化させればよい」というご意見があったかと思いますが(大野氏のブログコメント欄の素朴な疑問氏のコメント)、実はインフレ化は既に起きているのではないかと。
 恋愛が当初登場した時は、いわば稀少な財、贅沢品として「恋愛資本主義」は展開していたところが、それが次第に普及してくるにつれて今度は生活必需品的な位置付けに変わっているのではないかと思うのです。「持っていたらスゴイ(から持てるように上を目指してがんばろう)」という位置付けから「持っていなかったら恥ずかしい(から失うことがないようにがんばろう)」というように。このような変化が、「非モテ」に対する抑圧を生むに至った要因の一つではないかと思います。またこの変化は、近代家族イデオロギーが全国にほぼ普及し渡ったということでもあるのではないかと。
 いつ頃この変化が起きたかというと、・・・戦後史にはあんまり詳しくないのですが、加藤秀一『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』によると見合い結婚と恋愛結婚が1960年代後半に逆転したとあるので、その辺なんでしょうかね? 持っていないのが恥ずかしい、となるのはもうちょっと後でしょうか。
 このあたりの参考になるのではないかと、大野氏の「日本の純愛史」の続きを楽しみにしております。

 以上、題名を考えるのに時間がかかりすぎたり、寝落ち体調の都合で完成が遅れてすみませんでした。

※オチはこっち。
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by bokukoui | 2007-01-29 23:59 | 思い付き