「バレンタイン」はどこへ行く?~三浦しをん氏のコラムなど読んで思う

「『バレンタイン』はどこへ行くんだろう?」
「そりゃロシアでしょ」

 というわけで、昨日は「バレンタイン粉砕」デモに行ったのですが、今日はその活動の総括(笑)も兼ねて、ちょっと真面目に(あくまでちょっと)バレンタインデーについて考えてみようかと。
 で、その手掛かりにするのが、表題にもあるとおり三浦しをん氏が2月10日付の日本経済新聞の夕刊に書いていたコラム「甘い絆」であります。 
 では、このコラムの主要部分を引用していきましょう。
 (前略)ここ数年、バレンタインの時期に女性からチョコをいただくことが多い。告白とともに差しだされるわけではなく、「これ、おいしいから食べてみてー!」という歓喜の叫びを伴っている。
 それで私は、自身が恋愛戦線から退いているあいだに(まあ、前線に出てたためしはないのだが)、バレンタインという行事にどうやら変化が生じたらしいことを察した。
  (中略)
 チョコを山ほど購入した女性たちは、それを告白とともに男性にそっと差しだしたりなんかしない。仲間内だけで分けあって、思う存分もりもり食べる。
  (中略)
 つまり、バレンタインはいまや、各国から選りすぐったおいしく美しい高級チョコレートを、女性が買い求め、女性が味わうお祭りとなっているのだ。
 激戦をくぐり抜けてお目当てのチョコを入手した女性たちは、それを恋のアプローチのための手段として使うのではなく、自分の心身を満たす糧として大切に胃に収める。同時に、味覚という個人的な喜びをともにしたい仲間に、戦利品のチョコをお裾分けするのだ。
 バレンタインは恋のイベントではなく、女性たちの友情のイベントとなりつつある。男性陣は今のところ、やや弾かれ気味だ。高級チョコをあげても、「そういえば小腹がすいてたんだ」なんて言いながら、ありがたみもなくバリバリ食べちゃうからだ。しかし、バレンタインはやがては完全に、「性別に関係なく、友情と信頼を確認しあうイベント」になるのではないかと私は想う。
 親しいひとと、おいしいチョコを分けあって大切に喜びを味わう。恋や義理とは無縁のそういうバレンタインを、私は夢想する。
 実は小生、三浦しをん氏のお名前は以前から耳にしておりましたが、作品に触れたことはほとんどなく、おそらくナヲコ先生の作品を読むために買い込んだ『百合姫』に載っていたコラムを読んだのが唯一の経験ではなかったかと思います。しをん氏の作品に接した媒体が百合系だったもので、その点このコラムへの読みにもいくらかの偏見がかかってしまっていたかもしれません(笑)。
 とまれ、この文章の指摘は極めて重要です。「恋愛資本主義」を、縷々書いたように、小生は消費活動を積極化させる要因として恋愛を動員することであると解釈しておりますが、その恋愛をドライブとした消費積極化キャンペーンの代表選手であるかに見えたバレンタインが、実はそうではなくなってしまっているのではないか、そう言っているわけですから。

 これは「恋愛」と消費のあり方を巡る、大変興味深い事例であるといえます。バレンタインが「恋愛」とチョコレートの消費を結びつけることで盛り上がり定着した段階では、チョコレートは「恋愛(を重要なものとする価値観)」の小道具であって、それ自体の嗜好品としての価値は、全く無視されたわけではないにせよ、相対的には低いものであったと思われます。あと「義理チョコ」なんてのもありますね(これはジェンダー規範?)。
 ところがそれが、主たる消費層であった女性が、チョコレートの消費形態を「恋愛」から切り離し、自分の満足と友人との交流を主な目的に変え、その結果チョコレート自体の嗜好品としての価値も消費に当たってより重大なものへと変化したわけです。
 小生は菓子業界の動向にはとんと疎いのですが、もしこのような変化に対応した商品展開を斯界が進めているのであるならば、「恋愛資本主義」というものは決して絶対的で逃れがたい存在ではなく、時と場合によって移り変わってゆくだけのものに過ぎないということを表す実例である、ということになると考えます。以前書いた拙稿の表現を再利用すれば、「恋愛と結びつけた手法の利潤率が低下すれば、資本主義の方で方針転換する」実例だということです。 

 小生はこれまでしつっこく、「恋愛」を「幸福」の不可欠の要素と見做す規範の存在の背景には、近代家族イデオロギーがあると主張してきました。そして最近は、近代家族のあり方に次第に変化が迫られていることを感じさせる状況が感じられます(子どもを持つことが「健全」だと厚生大臣がわざわざ言っていること自体その傍証でしょう。近代家族像が自明であれば言うまでもないことだから)。とすれば「恋愛」の価値もまた揺らぎ、「恋愛資本主義」も方針転換して、「恋愛」をしないことによる抑圧的状況も改善されることでしょう。
 つまり、昨日「バレンタインデー粉砕」を叫んでデモを行ったわけですが、実はもうバレンタインにはひびが入りかけているのではないでしょうか。とは「恋愛資本主義」にも。スタイルこそ時代錯誤なネタでこそあれ、その方向性は実は時代にちゃんと乗っかっているのです。だからこそ物好き同志が集まってこんなイヴェントも出来たわけで。
 ということは、昨日のデモを総括すれば、

 同志諸君、勝利の日は近いぞ!!
♪ We shall overcome, We shall overcome,
  We shall overcome someday
  Oh deep in my heart, I do believe
  We shall overcome someday...


 あれ? ちょっとは真面目に書くはずが、ノリと勢いに任せた軽口になってきましたね(いつもだよ)。
 しかし、です。以上のデモ総括にはちゃんと根拠があります。何となれば、三浦しをん氏が書かれたようなバレンタインの脱「恋愛資本主義」的あり方である「友情と信頼を確認しあうイベント」としてのチョコの消費を、「革命的非モテ同盟」書記長の古澤氏は既に実践しておられるのです。

 バレンタインを前にチョコレートをレビューする

 しをん氏曰く「男性陣は今のところ、やや弾かれ気味」な形になりつつあるこのイヴェントに、男性として大枚はたいて乗り込まれた古澤書記長のピオニール精神に革命的賞賛を。

 最後に少し真面目に書けば、これも以前書いたことの繰り返しですが、結局なんだかんだいっても昨日のデモのような場に乗り込んだり、或いはネットでそれに関し意見を述べたり出来るような徒輩は、実はもう問題を解決してるんじゃないかと。こうやってバレンタインを相対化した形で「楽しんで」いたわけですから。
 そういったバレンタイン、というか規範としての「恋愛」を相対化できないような、ネット上で自分の意見を表明することもできないような、そういう人々の声を実はあのデモの参加者(ネットでこれについて何事かを書いている人々を含む)は代表しえていない、というかそもそも代表できるわけがないのであって、ただ自分たちはそうすることで問題を解決しているだけなのだろうなとは思います。それ自体、別に悪いとは思いませんけど。
 うーん、こういう話をするのならスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』でも読んでくるべきなんでしょうね。でもあの本は挫折したきり本棚の中。小生が本書を『電波男』と並べて収納しているのは、ただ本の大きさが同じであるという以上の理由はありません。

 本当に最後に、以上の話に関係のない蛇足。
 思わず上で一曲歌っちゃったような、ヴェトナム戦争の砌の反戦フォーク系の歌が好きで、なおかつ「拉致問題」の昨今の語られ方についてここで書いたような疑問を感じている小生にとって、ピーター・ポール&マリーのメンバーが拉致問題の歌を作った、というニュースは、少なからず「もにょる」ものでありました。
 どうでもいいですが、 Blowin' In The Wind はボブ・ディランよりPPMのバージョンの方が好きだったりします。まあ一応今回の話題は新左翼系、つうことで。
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by bokukoui | 2007-02-12 23:57 | 思い付き