恋して変っちゃうような 友情じゃない 今までそれが 自慢だった

 さてそろそろ2月も押し詰まり、3月が近づいて参りました。
 3月といえばホワイトデー、というわけで、「革命的非モテ同盟」の古澤書記長が3月11日にまた何か街頭行動を企画しておられる由。なのでそろそろ次回に備えて前回の「バレンタイン粉砕」デモの総括をまとめてみようと思い立ちました(一応直後に総括は書きましたが)。小生は「革非同」の同盟員ではありませんが、まあ毛沢東とスノーみたいなもんだということで。アキバの赤い星。

※「バレンタイン粉砕」デモに関する当ブログの関連記事へのリンク
今日の渋谷駅前~「バレンタイン粉砕闘争」見学記
「バレンタイン」はどこへ行く?~三浦しをん氏のコラムなど読んで思う
「ホワイトデー」粉砕イベントはどうやるべきか

 何でこんなことを書こうかと思ったかといえば、前回の「バレンタイン粉砕」デモに対するネット上の反応に、なかなか興味深いものを見つけて思うところがあったからです。もっともそれは小生が自分で探したのではなく、「革非同」の古澤書記長が「はてな」のブックマーク機能を利用してネット上の反応を収集しておられたので、それを利用させていただいたのですが。

 で、まずこのデモについて面白がってくれた、バレンタインなんてばかばかしいよね、なんて反応をしてくださった方は、まずはこのイベントの趣旨から行けば「受けた」ので万事結構であります。こういった層に引き続き期待を裏切らぬネタを提供できれば、活動としては充分成功を収められるでしょう。ネット上での反応を活発にするためには、ビラ配りの方が良いのではないかというのは以前の記事に書いた通り。
 問題はこのデモを批判している反応に対しどう今後の対応をするのかということです。一例を挙げますと、

 必殺幹事女王@社交倶楽部「バレンタイン粉砕デモ?」

 これは、見た瞬間笑い転げてしまいました。最初の感想「あ、『はあちゅう』みたい」
 ヒルズ族で「# 必殺幹事人:パーティーや交流会といえば草葉の影にその姿あり # 愛のキューピット:マッチメイカーとしての腕前には自信あり」ですからねえ・・・。ここまでコテコテなキャラクターの人が「革非同」に噛み付いちゃったという時点で笑いのネタにしかなりません。
 こういう方々は世間の流行り廃りにとても敏感ですから、もし「革非同」の活動が革命的大成功を収めたなら、あっさり転向することでしょう(笑)。
 ですから、コメント欄で長々と批判をした古澤氏のコメントは正直作戦ミスだったと思います。ネタにマジレスした時点で向こうが負けていたんですから。向こうもそのことに気が付いたのでしょう、コメントはスルーされております。
 ま、ここは生暖かくヲチしつつ、「文化的ハビトゥスの懸隔の大きさを改めて感じました」とメタレベルで流しておくのが良かったと思います。

 それはともかく。
 小生が読んでいてうーん、と唸らざるを得なかった反応は以下の二点。

 A Complexion Alkaloid「早く15日にならないだろうか。わくわくv」
 一般人とオタクの境目に立つ「朝から笑ったよ」

 どこら辺が小生の関心を惹いたかというと、この二つの記事はどちらもオタク的文化に親和性を持っている女性の方が書かれていたからです。
※前者のブログの書き手の方はプロフィールで性別を書かれていませんが、この方の妹さんがやっているというサイトに飛んで、そのリンクでこの方のサイトの説明を見ると「おねぃちゃん」とあるので、女性と推測されます。

 小生は、この「運動」を「成功」させるということは、当たり前の価値観を揺さぶることにあると思いますので、要するに「ウケを取れればそれが勝利」と思います。なるべく多くの人の話題になればそれで良く、文化的ハビトゥスが近縁な人に笑ってもらえばそれでよし。上掲ヒルズ族のごとく懸隔の甚だしい相手には、その戸惑いぶりを見てネタになればそれもなおよし。
 で、「オタク」というのは、以前の記事でも書いたようにこの「革非同」への反応が秋葉原でなかなか良いことから判るように、いわば「客筋」としてもっとも取りこみたい層です。実際、これまで取り込んできたわけだし。
 しかし、それが女性となると、オタク文化への親和性のある層であっても一転してこのような、ぱっと見は上掲ヒルズ族のごとき反応が返ってくるのはなぜなのでしょうか。

 正直、それに答えられるほど小生は女性のそういった趣味の方々との交流や知識もありませんので、どうも理屈を立てることが出来ません。そこで参考文献として、大野左紀子さんの『モテと純愛は両立するか?』の一節をご紹介させていただきます(本書の感想は、現在大野氏がご自身のサイトで連載されている「日本の純愛史」の完結後に書ければと思います。併読した方がきっと良いと思うので)。
 「見る」は能動的な行為で、「見られる」は受動的。女は、基本的に受身側に立たされている。
 従って、少し最初の考え方を改めねばならない。

 モテる男女>普通の男女>モテない男>モテない女

 と前に書いたことは、あくまで表に現れている現象に過ぎない。「見る者」である男と「見られる者」である女の、本質的な性の相違に改めて着目すれば、この不等式は、

 モテる男>普通の男>モテない男>>>モテる女>普通の女>モテない女

 となるはずだ。基本は、「男>女」なのである。男女平等なんかではない。「男>女」の大前提の上に、モテるかモテないかの序列がある。(同書pp.153-154)
 こういった前提があるから、「革非同」の活動も女性をして(たとえある種の文化的な近縁性がありそうに思われても)かかる反応をさせしめてしまうのでしょうか。
 ここら辺については正直判りません。ただ小生は、この「革非同」の活動は、「受ければいい」という性格のものであって狭義の政治運動ではないから、組織化する必要も突き詰めた論理武装も全然必要ないどころかむしろ有害であり、なるべく多くの人に受けるようにすればそれが最も良いことだと考えています。ので、「共闘」というとやけに重々しく聞こえてしまいますが、「おひねりを投げていただく」程度のことであれば、女性の参加も大いに可能であろうし、その方が効果的であろうと考えます。
 なんとなれば、小生は以前「恋愛資本主義」について述べた際に、恋愛が近代家族概念と結びつくことで、規範となって人々を抑圧していることが問題なのである、と書きましたが、この抑圧は男女を問わず降りかかってくるものだからです(降りかかり方に多少の差はあるでしょうが、だからといって男が女を/女が男を批難することは問題解決にはなりません)。

 というわけで、先日の「革命的非モテ同盟」の記事「中絶問題に見る喪男と非モテの差異:利害か、善悪か。」については、いささかの危うさを感じます。自分自身の倫理観を振りかざす人々との不用意な「共闘」は、抑圧に対し抑圧の応報で応える結果にしかならない懸念があります。
 シュミットの友敵論をこの場面で使うことにも小生は疑問を感じます。敵と味方の差をはっきり区切るよりも、なるべく多くの人々に「おひねりを投げてもらえる」ように、なるべく多くの人々をネット上で巻き込めるように、そう行動する方がきっと得策であろうかと思います。つまり、「共闘」関係などと称して同志的連帯を強調する(これってホモソーシャルな集団になりやすい弊があると思われます。当然世界の半分を占める女性の支持は得にくくなるでしょう)よりも、「勝手連」を増やすようにした方がよく、そのためには友敵の境界線は極力ぼかした方が賢明であるということです。

 ちなみに、小生もシュミットは未読です(笑)

 うーん、理屈っぽい話はやはり自分でも書いていてそれほど楽しくはないですね。明日はこの続きとして、お口直しにもっと具体的なモノにまつわる愛と性と道徳? のお話でも書いてみたいと思います。
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by bokukoui | 2007-02-26 23:58 | 思い付き