江戸時代の儒者・熊沢蕃山に学ぶ「荒らし」対策

 歴史小説に一時代を画した城山三郎氏が亡くなられました。

<訃報>城山三郎さん79歳=作家
城山三郎氏死去=経済小説の第一人者

 謹んでお悔やみ申し上げます。
 そんなに読んでいたわけではありませんが、『忘れ得ぬ翼』などはまさに忘れ得ぬ作品でありました。
 訃を報じた日経新聞の評伝に、城山氏は他の作家との交流はあまりなかったけれど、同年輩の故藤沢周平氏や故吉村昭氏とは親しかった、ということが書いてありました。吉村昭氏との交流というのに何とはなしに納得。

 というわけで、今日は最近読んだ歴史系の本から一つ。
 先日古本屋で買いこんだ、森銑三『史伝閑歩』(中公文庫)を読了しました。ちょっと今やっている仕事に使えるかな、なんて下心もあってのことですが、しかしそれを措いても例によって誠に愉快な読み物でした。江戸から明治にかけての様々な人物(文学者が多い)について、様々な書物を元に論じた随筆が収められています。
 興の尽きぬ様々な話が盛り込まれているのですが、その中から一つ、今日のネット社会でも極めて実用的かもしれない? お話を、江戸時代初期の儒者・熊沢蕃山の逸話から引用してみたいと思います。

 熊沢蕃山についてはリンク先の記事をご参照いただければ幸いですが、江戸時代初期の儒学者、それも陽明学者として著名な存在で、教科書にも必ずといって良いほど出てきます。日本における陽明学の草分けである中江藤樹に学び、岡山藩に仕えて治績を挙げるも嫉まれて浪人、私塾を開きますが重農主義的立場から幕政を批判、蟄居謹慎を強いられるという、そんな波乱万丈な人です。
 陽明学というのは明代に起こった実践を重んじる学派で、この派にはかの大塩平八郎も属していたことで有名です。もっともこれが昭和になると、「新官僚の御筆先」こと安岡正篤が代表的存在となり、その遺産を受け継いだと称しているのが細木数子・・・って、これは小生の世界史の授業の持ちネタでした。
 話を戻して、岡山藩時代の蕃山の逸話を、森銑三『史伝閑歩』から引用してみましょう。この話の出典は「想古録」という、さる武士の手控えを元にしたという明治時代の新聞の読み物からだそうです。
 蕃山が岡山で重用せられて、その名の高く挙がっていたのに対しては、それを嫉む者達が、岡山の家中にもあった。それは致し方のないことだった。
 一日、蕃山が自邸で、経書の講義をしていたところへ、鉄砲組の頭を勤める横田十郎兵衛という者が、案内も請わずに、つかつかと這入って来て、大声を出して、講釈の邪魔をした。その時蕃山は、話すのをやめて、横田の放言するに任せ、一言も口を開こうとしなかった。(中略)
 聴講の人達は、どうなることかと、手に汗を握って、蕃山の様子を窺っていたのだったが、蕃山は神色自若として動ずるところがない。そして横田が去ってしまうと、再び講釈を続けて、予定した量を終えた。その度量の洪大で、細事にかかわろうとせぬこと、常人の及びも付かぬことだった。――
(同書pp.35-36)
 つまり、江戸時代の昔から、荒らしにはスルーが最上の策だった、ということです。
 しかしスルーできる力があるというところが、「度量の洪大」さの問われるところなんでしょうね。

 歴史上の偉人について述べた面白い本を読んでおきながらこんな記事かい、というところも読者の皆様にスルーしていただければ幸甚です。

 ところで、「熊沢蕃山」で検索するとこんなページが引っ掛かったりして、蕃山を「現代エコロジーの先駆者」などと持ち上げる向きがあるようです。
 蕃山は確かに山の森林の保全に力を尽くしたそうですが、しかしそれは蕃山の治績である治山治水事業の一環と見た方が良いのではないか、つまりエコロジーというよりも、土木工学的総合マネジメントという風に解釈した方が面白いんじゃないか、そんな風に小生は思います。
 なんとなれば、『史伝閑歩』には「土木請負師服部長七」という一篇があって、明治の築港工事に活躍した請負師・服部長七の逸話を伝えています。その長七が岡山県庁の依頼で視察に来たところ、昔蕃山が作らせた施設を見ていたく感心し、「そのバンザンというは、なかなか遣る男だ。一度会って見たいが、ちょっと紹介状を書いて下さらんか」と知事に言ったとか(pp.146-147)。長七は熊沢蕃山の名前も知らないほどの無学なのに、工事には無類の技能を発揮したという逸話ですが、一面この逸話は蕃山が優れた土木工事の指導者であったことも示しているわけですから。名人は名人を知る。

 とまあ、『史伝閑歩』は面白かったよ、という次第。

※追記:本記事後段に関する補足記事を執筆。こちら
[PR]

by bokukoui | 2007-03-23 23:57 | 歴史雑談