柔道と軍隊について雑感 或いは臆面もなき嫌悪と妄想の告白

 諸事情でリビングにて某作業中、流れていたテレビの中で報じられ、まず耳を疑い、そして唖然となったニュース。
 ネットではこちら。
 [柔道]世界選手権代表ら陸自に体験入隊 井上は“尻込み”
 柔道男子の世界選手権(9月、ブラジル)の代表たちが6日、陸上自衛隊第1空てい団(千葉・習志野駐屯地)に体験入隊。高さ83メートルの降下塔の最上階で腕立て伏せや腹筋をしたり、地上11メートルの塔から飛び降りる訓練などに臨んだ。

 00年シドニー五輪優勝の井上康生(綜合警備保障)は高い所が苦手で、降下塔の最上階まで最後まで上がれず、飛び降りる訓練でも実行するまで塔の上で数十分間もしゅん巡。「今までこんなに怖かったことはない」

 斉藤仁・全日本男子監督は「塔から飛び出す瞬間は、技に入る瞬間と同じ。いかに腹を決める精神状態を作れるかだ」と体験入隊の狙いを説明する。もっとも、井上は「こんなことしなくても金メダルを取るよ」と言い訳していた。【来住哲司】
 この「精神」力を鍛えると称する(テレビでは「精神力を鍛える」とまんま言ってたように記憶)訓練に何の意味があるのでしょう。まさに「こんなことしなくても金メダルを取る」ことはできるでしょう。こんな阿呆なことをやっている限り、全くもって日本のスポーツ界というものは不合理性に満ち満ちている存在なのだと――日本以外の国も実はそんなに変わらないのかもしれませんが――と思ったのでした。
 小生の軍事知識は些か古い時代(半世紀以上前)に偏っているため、空挺部隊というのは降下するだけでも相当な危険がつき物というイメージがあります。今はどうなのかよく知りませんけど、やはり他の兵科と比べれば危険であろうと思います。そんな空挺の訓練に、基本的な肉体の能力は高いにしても、不慣れな柔道選手が参加した場合のリスクということは考慮されなかったのでしょうか。落っこちて打ち所悪かったら、誰が責任を取るのでしょう。
 そのリスクと引換えに、一体どれだけのリターンがあるのか、小生には全く理解できません。高所恐怖症だとしたって、畳の上で強ければ柔道選手として何の問題もありません。北京のオリンピックの柔道会場は空中に設けられるのでしょうか。それなんて格闘漫画?
 むしろ柔道選手が空挺降下を教わるより、空挺部隊に柔道を教えた方がまだ何がしか効果が望めそうな気がします。空挺部隊は軍の精鋭と相場が決まっていますし、陸自の空挺隊員なら柔道の心得も相当にあるでしょう。そういう交流の方がお互いに刺激になるんじゃないかと。

 ことほど左様に柔道に対して小生が無闇矢鱈と噛み付くのは、やはりいろいろと思うところがあるわけでして。
 思い返せば幼児より運動能力が低く、運動能力が人物評価に直結する小学校低学年の頃、休み時間に校庭に繰り出す旧友を尻目に教室の隅っこに引き籠って学級文庫の読破に勤しんでいたあの頃から、「体育」というものに肌合いの合わなさを感じていました。「運動会」なるイベントの不合理性もまた。運動的な、体育会系的な価値観と相容れない者にとっての運動会の苦痛とは、徒競走の順位なんかではありません(「手をつないで云々」は都市伝説説も)。あれは所詮一時の恥。
 最大の苦痛はあの延々と同じ動作を繰り返させられる「練習」、入場行進や「ダンス」なるもの。軍国主義教育の追放に熱心であったはずの日教組が何ゆえに運動会を撲滅しなかったのか、全く理解できません。昨今「ゆとり教育」見直しで授業コマ数の不足を補うために週休二日の廃止という声が出ています。小生は、運動会(の予行演習)を全廃する方がよっぽど手っ取り早く、実質的効果は変わらないのではないかと思うのです。

 幸い小生は中学受験をして、かなり特異な中高一貫校(東先生を輩出)に進みましたので、その後の六年間は運動会ファッショに付き合わずに済みました。運動会(体育祭)はありましたが、愚かしい練習はありませんでしたから。何でもその学校の特異な体育祭システムを発案した先生は、日本史の先生なのですが、左系の学会か何かでかつて名を知られていた方だったとか。流石によく民主化の何たるかを分かっておられたのだと思います。まあそんな学校でも、小生は一部体育教師と小競り合いを起したことがあるのですが。
 それはともかく、しかしこの中学生時代に小生は柔道に関して消えぬトラウマを心に刻み込まれることになります。といっても学校の授業に柔道があったわけではありません(剣道はあった)。小生は名だたる混雑路線で電車通学をしていたのですが、その沿線には学校も多く、なかんずくある学校――某S学園――は全国でも柔道の強豪校として名を知られた学校だったのです。
 今でこそ人並みの身長(174cm)の小生ですが、中学生頃は小学生と区別がつかない背の低さで、首都圏私鉄界随一の混雑率を誇る路線での通学はなかなか苦痛でありました。そのただでさえ大混雑した車内に、時として巨大な肉塊が存在するのです。某S学園の重量級の柔道選手です。あの肉塊(人間であると認識できない)と同じ箱に詰め込まれる恐怖。いつあの肉塊が、自分を押し潰しに来るのではないかという恐怖。車内で周りの人間たちにいいように押しやられる小柄な中学生は、肉塊と隣接する度に、自分の肉体が挽肉になり、骨が砕け散る幻想に苛まれます。多分実際に酸欠で朦朧としていたんだと思いますが、中学生時代のあの恐怖はとても筆では書き表せません。

 身長も伸びてそこまで恐怖を感じなくなった高校生の頃に、筒井康隆の短編「走る取的」を読み、深く感銘を受けました。この恐怖を見事に小説として結実させていたからです。
 この短編は、たまたま目が合ってしまった相撲取りになぜかどこまでも追い掛け回され、遂には首の骨をへし折られて殺されるという、不条理なホラー小説です。しかし読んだ小生は、これが少しも不条理な物語とは感じられませんでした。当然のことをただ描写しただけのようにすら思われたのです。

 この上更に、体育会的文化に対する文化的ハビトゥスの相違がもたらす苦痛、ということはもはや重ねて説明するまでもないでしょう。そういう人と会う危険性をなるべく減らすように小生は人生の針路を偏らせた結果、今ここにこうしています。
 小生の数少ない友人は、たいがい「オタク」の範疇にどこか引っ掛かりそうな人ばかりですが、それは「オタク」というものが体育会系的な文化的ハビトゥスとは異なった文化の人だから、と単純に信じていました。しかし、ことに近年の「オタク」の状況ですとか、社会での話題を呼んだ諸事件に関する「オタク」と称する(或いはそのような文化に親しんでいると見做される)人々のサイトやブログでの発言、さらには昨年末から多少読んでみた「非モテ」を巡る話題などから、或るいはこれは勘違いであったのかもしれない、と思うようになりつつあります。これは男のオタクにもっぱら限った話ではありますが、所詮彼らの多くはホモソーシャルな仲間内でミソジニーを肴に盛り上がっているだけの連中ではないかと。それじゃ実は根っこは体育会系とあんまり変わらないのではないか、そんな風に思うことが増えました。
 勝手な私見を述べれば、多分よりよき「オタク」は孤独を愛することが出来る人なのでしょう。そして自らの好きなものを愛でつつ、孤独と仲良く付き合って生きていくことが出来るのであれば、別に「モテ」なくても大した問題とは感じないでしょう。もしそのような人に恋人が出来るのであるとするならば、逆説的ではありますが、その恋人がそのような人が時として孤独でいる(いたい)ことを赦せる、そんな優しさを持った人と出会えたからだということになるでしょう。

 柔道の監督を皮肉る以上の意図はなかったのに、気がつけばえらく長文になっておりました。それはいつものことですが、柄にもなく湿っぽい話になって自分でも苦笑している次第です。今日の話は出典とか論拠とかをきちんと詰めて書いているわけではありません。
 折角空挺部隊が登場してくれたのですから、今日はノルマンディー上陸作戦63周年の日でもありますし、この戦いではアメリカ第82・第101空挺師団、イギリス第6空挺師団が大いに活躍しましたから、もそっと戦史の話題でも書けばよかったのですが、どうも妙な方向に行っちまいましたね。それだけ体育会系に対し内心(自分でも意識しないほど)思うところがあるのでしょう。
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by bokukoui | 2007-06-06 23:59 | 時事漫言