トイレット・カルトから教育について略考

 久しぶりに「虚構の皇国」さんのサイトを見て、ブログを見ていたらこんな記事を発見。

 トイレ掃除の伝道師「大阪便教会」

 小生も以前取り上げたことのある「日本を美しくする会」の運動が広がっているようで。
 で、「虚構の皇国」ブログの早川氏が紹介している「大阪便教会」のサイト、特に「体験記」が感動モノです。一部引用。
「初体験で、素手で便器に触れた時は、とても衝撃的でなぜか笑顔になっていました。」
「今回はまず最初に一番汚いところに真っ先に手を入れさせて頂けたことで、とても心地よく掃除をさせて頂くことができました。」
「便器の奥に手を入れた時の感触、その後に無心に便器を磨いていた時の気持ちよさは忘れられません。」
「汚れの感触を感じるという事も必要なことであると気付けました。」
「一心不乱に便器を磨き続けるを久々に体験させて頂きました。」
 更に『便教会新聞』なるペーパーもpdf形式でネット上に上がっている様子。

 「宗教みたいだ」という感想が一般的なものであろうかとは思いますが、そしてまた小生もやはりそう思うのですが、しかし同時に

「このトイレ掃除で得られる『快感』とは、
スカトロ趣味に他ならないのではないか」

 という考えが、便器の染みの如く脳裏にこびりついて離れません。しかもそれを学校で公然と・・・。変態度高し。
 ヨタはともかく、検索をかけてみると「学校」「教師」にこういった運動がかなり広がっているようです。
 一方、これは以前からかなり話題になっていたことですが、『水からの伝言』なる、水に言葉をかけると「よい」言葉と「わるい」ことばとで結晶の形が変わる、とかいう話が教育現場に持ち込まれたという件があります(元凶とされたTOSSという団体は、かなり以前からこれを引っ込めているそうですが)。ウィキペディアからリンクの無い、『水伝』推薦教師に出会ってしまった親御さんのブログはこちら。
 さらに、これはもっと昔から問題になっていたことですが、アムウェイに代表されるマルチまがい商法にはまってしまった人の中に教師が結構多かった(勝手に副業をやったというので処分された人もいたとか)という話がありまして、これは実際にある先生から同僚がはまっていた体験談を伺ったことがあります。

 で、何でこのようなことが教育現場に起こるのか、ということを考えずにはいられないのですが、まあ今まで思い付きを書き散らしてきたことと重なることが多いので繰り返すのも芸のない話ですが、教師が「聖職」の名の下に、ある意味多くの仕事を背負い込まされ過ぎているということなのではないかと思います。その結果、一般的な労働の範疇を超えた仕事を求められ、まあ適当に受け流すなりサボるなりして対処している人が実際には多いのだと思いますが、時にそれを真正面に受け止めすぎた結果(或いは真正面に受け止めてしまうようなパーソナリティの持ち主だった結果)、便器を磨いて無我の境地に浸ったり、水に真剣に「ありがとう」と呼びかけてみたり、鍋と洗剤を「レッツビギンやで!ポジティブや!!」と売りつけるようなことになってしまうんじゃないかなあ、と思うのであります。
 このように真正面に受け止めてしまった人々については、いわゆる「熱血教師」の問題点と題して、「教育の暴力装置的側面」を等閑に付してしまっているの問題ではないか、そしてそもそもそれが問題だということ自体が認識されておらず、教育を何か聖なるものとして祭り上げるような言動(これは左右を問わぬものです)がまかり通っているのではないか、ということを以前述べました。今も小生はそう考えていますし、この便器崇拝のある程度の浸透も同じ背景に基づいていると思うのです。

 で、最近の教育改革というものが、こういった構造に何がしかの対策を打つものかというと、・・・むしろ強化しているように思われるのであります。小生が思いますのは、以上の如き問題に対処するには、教育を「聖職」のくびきから解き放って、「合理的」な運営とすることをより心がけることなのかなあ、と思います。
 よし、では民間活力導入だ、企業原理だ・・・と昨今の志向から行くとなりそうですが、しかしこれがヘタをすると逆効果なのではないか、そう思わずにはいられないのです。これまた以前書いた、ワタミグループ社長の発言に関して雑感を記した記事をご参照いただければ幸いですが、教育=聖職という建前を逆手にとって労働力をより強力に搾取し、利潤を増加させるというモデルになってしまうのではないかと危惧せざるを得ないわけで。で、そのようなモデルで運営される教育現場の「空気」自体もまた、いわば全身全霊の没入を求める「熱血教師」的方策をよしとするものになってしまうのではないか、と考えてしまうのです。

 少し話は逸れますけど、最近ワタミの介護部門がコムスンの事業を引き取るかどうか、ということがマスコミを賑わせています。介護という事業も、教育同様の「聖職」というか、そういった語りが持ち込まれやすい構造であるように感じます。先日の日経新聞にも本件に関しワタミ社長のインタビューがあり、「利用者第一」を標榜する一方、コムスンの労働組合との交渉には消極的な姿勢をはっきり見せていました。介護も「聖職」であるからして従業員は四の五の言わずに没入せよ、という語りは起こしやすいように思います。
 ついでに、教育の場合は学校―生徒+親、という単純な事業者―消費者という関係よりも複雑な構造がありますが、介護の場合も事業者―被介護者+被介護者の家族、という構造をなす場合がかなり多いのではないか、そこらへんも何がしか経営として類似性があるのかもしれない、などと思います。

 話を戻しまして、しかして昨今の情勢からしますと、教師を「聖職」のくびきから解放するどころか、ワタミがもてはやされる昨今の世の中、むしろ便器崇拝的様相は盛んになっているのではないか、そのように思われる節があります。最近の週刊誌の記事のウェブ版から一つご紹介。

 「感情労働」時代の過酷(『AERA』6月4日号)

 便器崇拝的労働状況をヨリ具体的に説明するとすれば、その職場のテーゼとして掲げられた精神的理念に労働者が「心から」同調することによって労働効率を上げる(ヨリ効果的な搾取を行う)システムであるといえます。これは「効率を上げる」ことと「精神を同調させる」こととが一体不可分のこととして捉えられており、個人の精神を抑圧する問題があると考えられます。
 そりゃ、もちろん不和・派閥抗争・労使対立・連絡不行届・セクショナリズム等々に満ち満ちている職場はろくなもんじゃなかろうと思いますが、それを解決するのに便器崇拝的手法を強いる必然性は何もないわけでして。
 しかも両者があまりに分離不可分のように思われると、効率を上げたいのか精神を同調させたいのか、目的と手段が混同されて、様々な問題(悲喜劇)を引き起こすこととなるでしょう。今日の話題のきっかけ「虚構の皇国」を引き合いに出せば、「国民精神総動員運動」なんてものもあったわけでございまして。

 段々話がずれてきましたね。このブログの仕様ですけど。
 とにかく、学校の先生は今色々大変なことは間違いないのですが、ではその先生の負担を減らす方向に政策が動いているかといえばそうではなく、つい最近成立した教育関連法案が教員免許の更新制を採用するなど、より一層教師に負担を転嫁するという、合理的とは言いがたい対応策を取っているように思われるのであります。天才的熱血教師の人生すべてをかけた奉仕と献身ではなく、普通の先生が普通に仕事してそこそこ廻る、というシステムが望ましいと思うのですが。旧日本軍の航空隊じゃないけど。
 で、この状況が続くとどうなるのか、現今医療訴訟のリスクの高まりが医師の世界に及ぼしている影響を参考例として推測するに、「合理的」に進路を判断するとどう考えても割に合わないこの世界を志望する人が減って優秀な人材が教育界に来なくなり、学校はヨリ状況が悪化して、しかしその際の対策の方針が現在と同じであるとすると、教師の状況悪化→志願者減少→教師の水準低下→世論の教師への圧力の上昇→・・・という悪循環を繰り返す懸念があります。
 少なくとも、「合理的」な進路判断を誤るような、「聖職」のお題目を真に受けるような人々が多く集まってくると、さてこそ便器を磨いたり水に語ったりネズミ講はじめたり、といった「不合理」な行動が教育現場に持ち込まれる恐れは、一層増していくものと思われます。いや、既にそうなりつつあるのかもね。
 ここで急いで付け加えますが、実際にはそれだけのリスクを承知の上で尚、子供が好きだ!という熱意で斯界に飛び込まれる方々もおられ、(確信的推測ですが)そういった人々が他の人よりせっせと働くことで、なんとか現今の教育システムは廻ってるんじゃないかと思います(こういう人が便器崇拝的「熱血教師」になるわけではありません。このような人達は、頭ごなしお題目の愚かさを見抜いてこの手のものにはまらない判断を下せる余地がより大きいからです。便器を磨かなくても教師をやれるだけの「何か」をちゃんと持っているわけで)。でもそういう、一部の人に負担を押し付けるような構造を前提としたシステムは合理性を欠くと思うのです。

 というわけで、日教組も「子供のため」という題目をちょっと横にずらして、「自分たちのため」にきちんと労働組合する必要があるのではないか、それをしたほうがかえって大局的には子供にもいいんじゃないかという気がするのです。
 時々思うのです。社会問題の多くは、個人が公共心を亡くして利己主義に走るから起きる、のではなくて、個々人が自分の利益をどうやったら最大化しかつその状況を持続することが可能なのか、うまく判断することが出来ずにいて、時として「社会のため」などというお題目に絡め取られるから起きているんじゃないかと。
 でもまあ、それをうまく判断することは非常に難しいですね。でも、個々人が自分が利益を得られてかつその状況が持続するような行動をした方が、滅私奉公に励むよりも「社会のため」ではないかと、思わずにはいられなくて。
 そして何が利益か判断することが困難ならば、せめて何が自分にとって「楽しい」のかを、偉い人のお題目ではなく、自分の判断に基づいて決めたいものです。その上で便器磨きスカトロプレイに走るのならば大いに結構だと思います。
 でも小学生巻き込んでスカトロプレイをしたら強制猥褻罪だからね。

 というわけで本日の締め。
 駕籠真太郎先生の新刊、今年は出ないのかな?
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by bokukoui | 2007-06-22 23:59 | 思い付き | Trackback | Comments(7)

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Commented by 早川無賃乗車 at 2007-06-23 01:55 x
>「このトイレ掃除で得られる『快感』とは、スカトロ趣味に他ならないのではないか」
ワタクシも激しくそう思います。素手で掃除する修行の次は、便器ペロペロ掃除に違いありません。やがて、トイレが汚れるのはトイレがあるからだという理屈で……と想像し始めると、もういけません。
Commented by 労働収容所組合 at 2007-06-23 10:03 x
下らないネタを生真面目にやるほど面白い、という団体でないことに衝撃。駕篭先生の世界観と近いようであまり近くないですな。

労組はどのような意味においても自分たちのためにあるのであって、言ってみれば子どものためと謳うこと自体も自分たちのためなのだろうと推察します。
問題は誰が「自分たち」なのかを幹部が決めることですが。
Commented by 某後輩 at 2007-06-23 13:59 x
今回の記事、全面的に同意です。中でも

>社会問題の多くは、個人が公共心を亡くして利己主義に走るから起きる、のではなくて、個々人が自分の利益をどうやったら最大化しかつその状況を持続することが可能なのか、うまく判断することが出来ずにいて、時として「社会のため」などというお題目に絡め取られるから起きているんじゃないかと。

のくだり、まさしくその通りですよね。環境問題1つとってみても、「後世のために美しい地球を残そう」「もったいないの精神を世界に」などとスローガンを唱えたところで何の役にも立たない訳で。むしろ地球温暖化問題への対処法として排出権取引という擬似市場を創り出すことで「神の見えざる手」に問題改善を委ねる、というまさに個人の自己利益最大化行動に訴える手段の方がよほども実効的で、かつ個人の超人的努力や政府の恣意的介入を排した合理的なやり方だと思います。日本人もいい加減「意識改革」などという通俗的な言説から離れて、社会問題の基底にあるインセンティブ構造にメスを入れる合理的な思考様式を身につけて欲しいと思う次第です。
Commented by 檸檬児 at 2007-06-23 20:56 x
 「センセイは世間知らずだから」と笑っている分にはまだいいのですが、思考停止の姿勢はそのまますぐ「暴徒」になりかねないのが怖いです。
 したたかに自分で判断する「大人」の従業員(や教師)を、理念なり志なりで納得して働いてもらうのが力強い組織(や学校)と考えます。
 大義名分や美談や宗教(全部同じか)でだまくらかして引っ張る組織って、実はもろいと思います。

 とりあえずLO誌の新刊は無事にゲットしました。(違)
Commented by bokukoui at 2007-06-24 19:02
>早川さま
コメントありがとうございます。直接コメントをいただけるとは望外の栄です。
「虚構の皇国」は大変楽しく読ませていただいております。歴史の語り方の新たなあり方になるのではないかと楽しみつつも考えさせられています。

それはさておき、ハタから見ているとなんとも妄想をかきたてられる運動ですよね。小生も女子生徒を次々と便器磨きプレイに堕としていく学校教師モノエロ小説を書いて、フランス書院なりマドンナメイトなりに持ち込んでやろうかと考えました。

>ラーゲリ氏
「面白い」という観念の形成手法がだいぶ異なっているんだろうなあと思います。

「子供のため」と「自分のため」の結び付け方に多分かなりの問題があるんじゃないかと思います。そこの繋げ方が結構、便器崇拝教団と類似しているんじゃないかと。
Commented by bokukoui at 2007-06-24 19:11
>某後輩氏
まあ、合理的な判断をきちんと下すということは難しいのですが、少しでも近づくように努力したいものです。しかし案外、人間は自己の利益を最大化することに関心を持っていないのではないかという根本的な疑問もあったりするわけで。少なくとも経済的価値でそれを明快に計量することは不可能に近いでしょうな。

あと、「合理性」をどのタイムスパンで測るのかということも重要かもしれません。市場原理の導入による解決は、しばしばタイムスパンが「次の株主総会」であるために、より長期の合理性を損なっているのではないかと思います。
その解決のためには、より長期のタイムスパンを人々が意識できるように、歴史の素養を身につけるべきでしょう。歴史学を全国民必修にし、すべての大学に歴史の講座を置き、文書館の整備拡充に力を注ぐような世の中になれば・・・少なくとも小生の利益は相当最大化される方向に近づきますな(笑)
Commented by bokukoui at 2007-06-24 19:11
>檸檬児さま
この運動は先生に限らず企業研修にも波及しているようです。一部の先生が子供は自分が「教育してやる」モノだと思っているように、一部の企業経営者も従業員を内心まで自分に従属すべきものと思っているのでしょう。
しかしてご指摘の通り、そのような組織の内実はもろいと思います。敗戦前後の日本軍みたいに。

とりあえずmizu先生の『尻魂』を購入するかが目前の問題です。
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