歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」聴講記(前篇)

 一週間も経ってしまいましたが、以前紹介した歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」に先週行ってきまして、大変面白い講演会でしたので、また自分の研究にも多少の関係がないわけでもないので、以下に話された内容の概要をご紹介しておこうと思います。



 まず、講演会の内容についておさらいを。公式リンクはこちら。
基調講演「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」
山本光正(国立歴史民俗博物館教授)

「日本人の旅文化」
神崎宣武(旅の文化研究所所長)

「道中記に民俗を読む-富士登山を中心にして-」
西海賢二(東京家政学院大学教授)

「鉄道の開通と『旅』の変容」
老川慶喜(立教大学教授)

「近代日本のおみやげと鉄道」
鈴木勇一郎(青山学院大学非常勤講師)

討論
司会:小野寺淳(茨城大学教授)
パネラー:神崎、西海、老川、鈴木、山本

 今回、敬称は「さん」で統一させていただきます。「先生」と当然すべきなのですが、あんまり先生先生連呼するのも恰好が悪いし、かといって「氏」とも言いにくいところがあるので。

 小生、所用でわずかに遅れて会場入りしたのですが、幸い山本さんの講演が始まってそれほど時間が経っておりませんでした。それが分かるのは、会場ではこの講演会の概要をまとめたパンフレットが無料配布されていたからで、これがなかなか立派なできばえなのです。最初、これがもし歴博でも配布されているなら、別に小生が記事をまとめる必要なんかないんじゃないかと思ったくらいです。しかし、神崎さんのページは何も書いていなくてただメモ用の罫線が入っているだけだったし、他の方も勿論そのまま読み上げていた訳ではありませんので、なるべく簡潔に箇条書きで、要点を記録しておきたいと思います。例によって落としは多いと思いますので、ご関心のある方は歴博に問い合わせてパンフレットの入手を試みてください。
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 余談ですが、このパンフの表紙にシルエットが記されている蒸気機関車は何なんでしょうね。アメリカ型の2-8-0(コンソリデーション)機、といったところで、ボイラーの腰の高さや煙突が飾り煙突でないこと、ドームの形などから考えると20世紀の機関車かとも思うのですが、日本に輸入されたコンソリデーション機の中に同じようなのが思いつきません。そもそも煙室戸の真ん中に前照灯つけているみたいですが、これは日本ではあんまりなさそうな・・・あ、満鉄かな?

 閑話休題、講演の内容に入りましょう。

山本光正さん「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」
・歴博の展示のテーマは、近世に盛んになった旅が、近代以降いかに変容したか、近世の旅をどのように継承したかを明らかにすることである。なお用語は、徒歩による近世は「旅」、交通機関による近代は「旅行」、総称も「旅行」。
・用務の旅は中世以前からかなりあったが、庶民までが社寺参詣など遊楽的要素の強い旅を出来るようになったのは近世以降。数泊程度の社寺参詣から、最大のものが数ヶ月にも及ぶ伊勢参宮。ただし近世に「旅が盛んになった」といっても家族連れの旅行ではない。それ以前の時代よりは盛んになったということ。
・参詣ルートは周遊コース化され、途中多くの寄り道をした。関東から伊勢参宮する場合、在所からまず江戸に行き、江戸に数泊してから東海道に入り、鎌倉・江ノ島・久能山・秋葉山・鳳来寺・熱田などに寄りながら伊勢に参った。その後は京・大坂へ、時には四国の金比羅山などにまで脚を伸ばすことがあった。帰路は中山道を辿り、善光寺などにも立ち寄りながら在所に戻る。このような周遊コースとしての街道は、壮大なアミューズメントパークであった。
・このような旅は二、三ヶ月かかるので、仕事の関係上、武士や商人にはしにくかった。冬の農閑期の農民が多かった。農閑期が旅の季節。
・近世の旅はひたすら歩き、一箇所に数日以上滞在することはなかった。一つでも多く、いろいろのものを見たいという意欲があった。また、用もないのに旅籠に何日も滞在していると怪しまれた。このため、滞在型の旅はなかった。また、日本では庶民の憧れとなるような豪華な旅、例えばヨーロッパの貴族の子弟が行ったグランド・ツアーのようなものはなかったのではないか。
・パンフには江戸や京の話も書いてあるが、時間の都合で割愛。

・鉄道の開通はこのアミューズメントパークを崩壊させたが、それでもはじめは近世の名残があった。東京から伊勢に参るにしても、途中下車していろいろ見ながら伊勢を目指していた。しかしこのような旅の形は次第に姿を消していく。
・「道中記」と呼ばれる旅行案内が近世もあった。近代にこれは鉄道沿線の旅行案内へと変わっていったが、例えば田山花袋は数多くの旅行ガイドブックを書いている。これは紀行文と呼ばれているが、ガイドブックである。旅行案内にはそれだけのステータスがあった。
・交通手段の発達などにより、旅行の在り方は多様化した。見物以外の、海水浴・ハイキング・スキーなどのレジャー目的の旅行が登場。また行き先も、旅行と言うほどではないかも知れないが、日帰りの近郊旅行が現れた。日帰り旅行として発展した例としては房総があり、1955年は温泉や各種レジャーを兼ねた総合レジャー施設「船橋ヘルスセンター」ができた。
・移動手段だった鉄道自体が目的化。蒸気機関車や夜行列車などが消えるとなれば名残を惜しんで、鉄道ファンならずとも乗車し見物に来る。明治や大正にあった旧道旅行に通じるもの。
・旅の在り方は多様化し、滞在型の旅も現れているが、一つでも多くのものを見たいという気持ちは受け継がれている。この一つでも多くのものを見たいというエネルギーが、ある時代まで(と言っていいのか)の日本の発展を支えていたものの一つかも知れない。

神崎宣武さん「日本人の旅文化」
・日本人の旅の原形が江戸時代にある、という山本さんの説には同意。江戸の旅についてはオランダ人などの残した記録がある。『日本誌』を書いたケンペルは、「この国の街道には信じられないくらいの人がいる」「(農閑期には)ヨーロッパの都市の街路と同じくらいの人が街道にいる」と書いている。
・江戸中期(元禄~化政、18世紀)、伊勢参宮者はだいたい年に数十万~百万人(60年ごとのおかげ参りの年は別)。この頃の日本の人口は1800万人くらいと推測されており、およそ20人に1人が伊勢参りしたことになる。現在の日本の海外旅行者は約1500万人、ビジネスを除くと約900万人。これは人口比で13~14人に1人ということになるが、日本人の海外観光旅行は平均7日(これは長年変わらない)で、江戸の伊勢参宮は単純往復でも2週間、周遊すれば2ヶ月。人×日で計算すれば、昔の方が旅が盛んだったとも言える。

・旅が盛んとは、社会が平和で安定しており、経済活動が活発であるということ。戦争が起きると旅は停滞する。また、旅が盛んであるということは、言葉が均されることでもある。日本人が一文化=一言語と思い込んでしまう一因。旅とは国内の民族・文化の攪拌作業である。
・経済的要因について。元禄までは厳しかった年貢徴収率がその後下がり、庶民の手取りが増えた。また、稲作に年貢をかけても、副業には多くの場合税はかからなかった。つまり、お金があった。
・ケンペルは「日本の街道は世界一よく整備されている」と書いているが、これは参勤交代のため。元禄までには街道の整備が終わった。
・『民間省要』のような本では質素倹約を説き、物見遊山の旅はすべきではないとしている。しかし、その続きに、「ただし、士は君命、農工商は家業と信心のためなら旅はよし」と書いている。この「ただし」が大事。本音は「ただし」の後にある。信心という名分で旅は可能になる。
・旅の際に祈願する内容は「天下泰平、五穀豊穣」個人的な願いではない。徳川の世が続き、年貢が無事納められますようにと祈願する、そういう口実で旅が黙認されることになる。
・旅を支えた講制度。伊勢講はじめ、いろいろあった。旅を半ば公の行事とすることに講制度の意義があった。江戸時代、個人で旅するというのは、やはり厳しかった。団体であればお上の承認も得やすかった。

・伊勢参りの旅で旅行代理店的存在だった御師。トーマス・クックより二百年も早かった。ただしあくまでも団体旅行専門で、個人の旅ではない。
・団体というのが日本の旅の特徴。このことは鉄道ができても変わらないのではないか。大きくこれが変化するのは1970年代以降、バラけるようになった。この傾向が長続きするのか、今の若い人も年を取ったら団体旅行に戻るのか。「文化のDNA」はそう変わらないのではないか。
・団体旅行の生んだ習俗の存在。外国人が驚く日本の団体旅行の風習とは、一つは、みんなで風呂に入った後、きっちり定時に始まる宴会(このため日本の旅館は大風呂を持つ)。もう一つはおみやげを買わなければならないということ。
・なぜおみやげを買うのか。それは周囲に行き先を言って旅に出るから。講では何人かが代表でお参りするから、帰ってきてから報告をする。その際の物証がみやげ。「みやげ」を「土産」と書くが、こんな読み方は変。もともとみやげとは「宮笥」、伊勢のなおらいの時にもらえるかわらけが元々の起こり。これが足りなくなって、土地の産物で間に合わせて、「土産」となった。
・日本人は旅好きであり、食欲や性欲に次ぐ「旅欲」があるのではないか。この社会は旅欲を発散できるが、戦時中のように抑圧されることもある。物見遊山や観光ができる時代は幸せな時代。日本人は長い幸せな時代を送っている。

西海賢二さん「道中記に民俗を読む-富士登山を中心にして-」
・古代や中世の山岳信仰がいわゆる修験者による苦行を重ねるものだったのに対し、近世に入ると形態が大きく様変わりして一般の俗人が自由に登拝するようになった。富士講は中世末に富士の行者によって始められたが、享保年間の食行身禄の入定を契機に、江戸市中を中心に数多く組織されるようになった。あまりの人気ぶりに、幕府に警戒されてたびたび弾圧もされたが、富士講は発展を続けて教義も整備され、不二道が創出された。これをもとに、明治以降神道教派がいくつも富士講を母体として再編された。国家神道の時代、これらの教派神道の半ば軒先を借りるような信仰形態となり、今日にも続いている。
・近世後期の富士登山道中記を使って、参詣習俗の一面を読み解く。天保2(1831)年と安政2(1855)年のものを自分は所蔵している(現物を掲げる)。前者は現在の横浜市戸塚に住んでいた、自分の縁者である森茂左衛門の残したもので、森は富士講の中心メンバーであった。この日記は戸塚から富士登山をして戻ってくる7泊8日の記録。後者は現在の群馬県邑楽郡狸塚村の、十代の子供たちによる12泊13日の旅の日記である。前者から「撒き銭」について、後者から富士講の登山の通過儀礼的役割について述べる。

・天保2年「冨士登山日記覚帳」中に、「四拾八文 まきせん」という項目がある。富士参詣の街道、「富士道」の地域では撒き銭の風習は広く見られたようである。井野部茂雄『富士の信仰』(古今書院1928)に集められている事例に拠れば、甲州街道沿いの村で富士の導者に賤児が群がり「ビッキョマアキャレ、オンドウジャ」と銭をたかったり(天保年間の事例、「ビッキョ」は鐚銭に由来)、人穴から船津に来ると土地の子供が「ヨヨおんどうじゃさん、まよせん、くだあせんヨヨ」(文化年間、「御導者様、銭下されませ」)と言っていたり、その他女子供や馬子が銭を求める例が多く、19世紀初頭から富士周辺ではかなり一般化した習俗であった。
・自分は富士の撒き銭を実見したことはないが、強力をしながら調査をしていた武州御嶽での撒き銭を見たことがある。そこでは「畢竟畢竟銭くれよ、一文なしの焼け導者」と言っていた。

・安政2年「冨士道中小遣覚帳」は、7月の3日から半月に及ぶ旅の記録だが、これはお伊勢参りのような農閑期ではなく、農繁期。4人の旅する少年と「同行四人」とあるが、農業の中心を担う大人が出歩ける時期ではなく、若者たちによる通過儀礼的な修行を伴う旅であり、かつ兵児祝いの一環。参詣ルートは、上野から現在の八高線沿いに南下して八王子にいたり、そこから甲州街道で大月を経て富士に登り、駿河の小山に下山。そこから相模の大雄山にいたり、坂東札所の寺院を巡りつつ大山に参詣。その後は江ノ島・鎌倉・川崎大師などに立ち寄りつつ江戸に入り、江戸見物をしてから帰村した。
・大山に参ることが、八高線沿線の地域の若者にとっては重要な通過儀礼であって、それは昭和30年代頃まで続いていた。
・通過儀礼について。小遣帳の金額は十数文~数十文のところが多いのに、参った後の項目に「案内者 二百文」とある。つまり、先達がそういうところに連れて行った。

 長いので、ここで一旦区切って後篇に回します。
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by bokukoui | 2008-07-26 23:57 | 歴史雑談 | Trackback | Comments(6)

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Commented by 鈴木光太郎 at 2008-07-30 12:51 x
神崎宣武氏の伊勢参りの人数のお話は面白いのですが、関東住民が伊勢参りする場合の障害として、
(1)女には役所が長距離旅行許可証をほとんど発券しない。
(2)未成年と老人は体力的に無理。
(3)野宿禁止のはずだから、旅費が嵩む。
(4)講員でないと旅券を得られないが、伊勢講そのものに町内名士クラブの面があり、それなりの人しか入会出来なかったのでは。
の4点があると思います。

江戸あたりから来る人は、来れなかった仲間の講員や親類の"願かけ書"を数通預かってるはずです。
近在の信者は年に何回も伊勢参り出来る。
この2種のケースが伊勢旅行の人数に算入されてる可能性は無いでしょうか。
歴史学素人だし、私の脳内の江戸時代のイメージなので見当ハズレだったらすいません。
Commented by 無名 at 2008-07-30 13:57 x
小生が大学で学んだ限りでは、寺社参拝に限り、女性にも比較的簡単に手形が発給されています。(御師のロビー活動の効果。)
当然、檀那寺を通しますが、その辺は江戸後期にはシステム化されていたようです(地域により、木版印刷され、本人の名前住所、檀那寺のサインを書き込むのみで有効になる書類がありました。)
未成年と老人についてですが、伊勢参りと遍路については手形を確認し次第ほぼすべての公的機関(代官所、藩の出先機関、宿場役人など。)が援助したため(建前上は後日、本人の住所に経費請求が行きますが、どこまで徹底されていたかは不明。)意思次第で可能と思います。
旅費についてですが、概ね二十年程度の積み立てを行い(一部の寺には、今日の財形的な天引きの積み立て証文が残っています。御師が主導したと思われます。)
伊勢講についてですが、確かに名士クラブのノリはありましたが、実質、檀那寺と御師の管理化にあったため、顧客獲得の側面から、入会条件は時代とともに緩和されていきました。
ただし、今日、困窮世帯が海外旅行に行けないのと同じように、一定の経済的余裕が正規の伊勢参りの条件です。
Commented by 無名 at 2008-07-30 13:58 x
ちなみに、御師や檀那寺を通さない「モグリ」の伊勢参りもかなりありました。
ただ、そのような「モグリ」でも伊勢参りであることを主張し、且つ、極端に不審でなければ黙認されていました。
それどころか、御師のなかには、「モグリ」の参拝者に祈祷をすることが収入源になっている者もいたようです。

人のブログでの書き込みになりすみませんでした。
Commented by bokukoui at 2008-08-03 21:08
>鈴木さま
レスが遅くなりまして申し訳ありません。

この講演会では、「旅と女性」という点についてはあまり触れていなかったのが、ちょっと残念なところではありました。
ご指摘の点については、無名さんが下で答えてくださったので、小生が細くすることはあまりないのですが、講演会で言う「ただし」ということが大事なのだった、と思います。伊勢詣という大義名分のお蔭で、「ただし」以下の事実上の行楽旅行が可能になっていたと思います。

ところで、海外蒸機にお詳しい鈴木さまでしたら、このパンフの表紙の機関車が何か、お分かりにならないでしょうか? ご意見がありましたら何卒宜しくお願いします。

>無名さま
詳しいご指摘ありがとうございます。
モグリでも黙認される、というところが面白いですね。まさに「ただし」以下のところに実態がある、そんな状況ですね。おそらくはその方が、結局は体制維持にも合理的だったのではないでしょうか。
Commented by 鈴木光太郎 at 2008-08-03 23:22 x
1、煙突直前に付いてるのは鐘と思います。鐘の採用は米国が本場で、
影響が強かった満鉄にも見られますが、
手持ち写真の限りではボイラーの前面でなく中程に付いてました(探せば鐘前面付きもあるかも、です)。
2、国鉄が買った米国機で前面に影絵のような立派な梯子付きはないです。
満鉄ミカイ型(アルコ製)、朝鮮総督府パシイ型(ボールドウイン&汽車会社製)などが梯子を付けてますが、鐘の位置や全体の印象が違います。
3、結局米国式の2-8-0機関車という程度の事しか私も解りませんでした。
Commented by bokukoui at 2008-08-07 12:14
>鈴木さま
毎度ながら返信が遅くなりましてすみません。

詳しいご説明ありがとうございます。
満鉄や鮮鉄でもなさそうですか。いったいどんな史料から取って来たのか、そもそも何でこのシルエットにしたのか、それも含めて気になりますね。
やはり佐倉に行って確かめてくる必要がありそうです。何とか日を選んで、行ってくるつもりです。
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