歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」聴講記(後篇)

 前篇に引き続き、歴博フォーラム「旅-江戸の旅から鉄道旅行へ-」の内容を紹介します。



老川慶喜さん「鉄道の開通と『旅』の変容」
・近代になって「旅」がどう変化したか、まず柳田国男の所論を元に鉄道時代の旅の特徴について考え、ついで具体例として日光を取り上げる。

・江戸時代の旅には、政治的な制約や交通手段未整といった制限があったが、明治時代になって鉄道が開通したことで、自然の障害が克服され、お金さえ払えば身分に関係なく移動できるようになった。
・しかし、鉄道による「旅」の形態は、江戸時代のそれとさほど変わらなかった。柳田国男は『明治大正史 世相篇』の中で、日本における鉄道の発達は「巡礼本位」であるとしている。江戸の巡礼は、信仰による参拝そのものよりも道中の行楽にあったが、この巡礼という形の行楽旅行は明治になって鉄道が開通しても変わらなかったと柳田は指摘する。実際、日本の私鉄には、寺社仏閣への参詣客輸送を目的として建設されたものが多い。
・この「日本の鉄道は巡礼本位」という話を海外のシンポジウムでしたところ、インドの研究者が「インドも同じである」と発言した。インドにイギリスによって最初に鉄道ができた際、インド人は貧しいから鉄道には乗らないだろうと思われていたが、ヒンドゥー教徒が巡礼のために大勢乗りにやってきて、屋根まで乗るほどだった。

・しかしまた、鉄道の登場はやはり「旅」のあり方を変えることにもなった。旅の道中よりも、如何に速く効率的に目的地まで往復するかということを最優先にした旅。
・1898(明治31)年8月の時刻表に、日本鉄道が日本三景の一つ松島への「回遊列車」を走らせているという広告がある。それに拠れば、午後3時上野出発→翌日午前3時56分松島着、その後松島観光を午後5時頃までして、塩竃神社を拝んでから汽車で仙台に行き、仙台発零時5分発→上野午後1時着というもの。夜行を利用するので旅館に泊まらず、また道中の楽しみを考慮していない。旅は鉄道で時間短縮したが、内容は貧しくなった。

・日光について。1877年、大森貝塚の発見者であるアメリカ人動物学者モースは、日光への旅を試みた。宇都宮までは駅馬車、宇都宮からは人力車によった。宇都宮までの道路は整備されていたが、日光までの道は「非常なる悪路」であった。
・このように、近世から近代への移行期の間には、日本では馬車や人力車が登場した。鉄道と鉄道を結ぶ存在としても活躍し、新橋~横浜と神戸~京都しか鉄道がなかった頃でも、客車商会が神奈川~京都を結んで、東京~神戸の連絡をしていた。
・宇都宮には1885年日本鉄道が開通し、東京から宇都宮まで4時間で行けるようになった。日光への避暑客もこれに伴って増加し、外国人の避暑客も多かったため、洋風のホテルが開業している。
・こうした中、1887年には日本鉄道に接続して日光へ達する日光鉄道の計画が持ち上がった。しかし宇都宮~日光だけでは採算が取れないから独立経営は難しいと当局に指摘され、日本鉄道の培養線として1890年に日光線が開通した。
・日光線は日光への観光客輸送がその需要の大半を占めた。日光への観光客は増加したものの、宇都宮を朝一番の列車で出て終列車で帰る者が多く、土産物屋は儲かったものの、宿泊客は必ずしも増加しなかった。それでいて日光駅前の土地は買い占められていたため、経営難に陥った旅館主が地代引き下げ運動を起こした。
・鉄道網の発展に伴い、日光の観光客はこの後も増え続けるが、一方ホテルや旅館、土産物屋などの競争も激しくなった。鉄道が日光に運んできたものは、来遊者ばかりでなく、厳しい競争原理に貫かれた資本主義に他ならなかった。

鈴木勇一郎さん「近代日本のおみやげと鉄道」
・特異な日本のおみやげ文化。外国のガイドブックには「おみやげ」情報はあまり載っていない。2001年の大英博物館で「現代日本のおみやげ展」というのがあり、「日本人観光客に関して西洋に広がっているイメージとして、日本人はパッケージツアーが多く、一箇所に長く留まるよりいろいろな所を見て回り、しかも多くの高価なおみやげを買うこと等がある」という。
・日本のおみやげの特徴は食べ物の多いこと。「名物駅弁」というものは日本にしかない。ロンドンの駅で売っているのはサンドイッチ程度の軽食で、「ロンドン名物ビッグ・ベンとう」なんてものはない。
・しかし、おみやげについての研究はあまり進んでいない。先行研究としては神崎宣武『おみやげ』(青弓社1997)が、おみやげの起源を探り、贈答にまつわる習俗や近世における名物、おみやげ発達の姿を描く。それに対し、ここではおみやげの展開を鉄道との関わりを中心に検討する。
・名物のおみやげ化。江戸時代の名物は神社仏閣の門前、街道沿いの茶屋などで売られる饅頭や団子などで、おみやげは楊枝や団扇など手工業品。名物はその場で食べるものだった。江戸の土産は「そこに行った」ことが明らかなもので、名物とみやげは結びついていない。鉄道の開通によって江戸時代以来の名物が変容、新たな名物が誕生。名物が鉄道で迅速に運ばれるようになった。鉄道との関係はなくしては、みやげは成立しない。

・静岡名物である安倍川餅と山葵漬の場合。安倍川餅は東海道の名物として知られ、東海道線の開通後は駅で売られるようになった。山葵漬は幕末頃に原形ができていたが、鉄道開通以前は振るわず、静岡駅構内の販売と共に発展した。特に田丸屋が鮓桶をヒントに樽型の容器を開発し、これが市場で主導権を握るようになっていた一つの要因、包装は重要。ただし、名物製造業者=駅販売業者とは限らないことに留意。構内営業許可は、鉄道当局や鉄道会社が、建設などに際して尽力した地元有力者などに個別に許可を与えていた。静岡の場合は加藤弁当店(現在の東海軒につながる)。もっとも昭和7年には鉄道弘済会が公傷退職者や殉職者遺族の救済を目的に設立され、弁当を除いた菓子や雑貨の販売は同会に移行した。
・明治30年代には東海道沿線の名物が確立、大正期には東海道線各駅だけで全国の鉄道駅の構内売上高の約1/4を占める。一方で、鉄道交通から外れてしまった場所の名物は急速に衰退してしまった。

・伊勢名物赤福の場合。赤福は名物の由緒付けに皇室が用いられた例。
・赤福の創業時期は不明だが、幕末には伊勢名物の一つとなっていた。明治38年の明治天皇伊勢行幸の際、はじめて赤福が天皇の手許に達し、その名が有名になる。日露戦後は皇室が産業などの発展のためによく使われていた時代だったが、赤福もそれにうまく乗った。明治40年から山田駅と亀山駅とで構内販売に乗りだし、保存性と容器の改良も行われた。日持ちするようになり、現在の折詰の原形が開発される。
・赤福は更にこの後、戦後の高度経済成長期に一気に拡大しているが、この際に確立したシステムが機能しなくなってきて、最近の偽装事件に繋がったのかも知れない。

・大垣の柿羊羹の場合。柿羊羹は博覧会などの近代的装置を利用した例。
・大垣は近世、城下町ではあったが主要街道からは外れていた。しかし東海道線の主要駅となる。この町で江戸時代に創業した菓子屋槌谷が、天保年間に乾柿を羊羹に応用して柿羊羹を開発。大垣は柿羊羹の本場となる。第四回内国勧業博覧会に羽根田豊三郎という人物が柿羊羹を出品して受賞するが、これに槌谷が対抗して製品を改良、第五回内国勧業博覧会で高い評価を獲得。竹製半月型容器の開発がその一つで、第四回博覧会に槌谷が出展しなかったのはよい容器がなかったからだという。駅販売にも乗りだし、柿羊羹は大正には東海道沿線有数の名物に成長。

・京都の八つ橋の場合。これも保存性の改良、博覧会への出品、駅構内販売への進出と典型的なパターンを辿って発達した。その課程で、元祖争いもあったが、このような由来を巡る紛争がかえって名物としての地位を築くのに役立った。

・まとめ。名物とおみやげは同じものではない。
・その場に行った、という証明としてのおみやげ。そのため、おみやげそのものが饅頭など一般的なものであるとするならば、なおさら由緒が大事。元祖争いも由緒ありげに見せかけるのに役立つ。また、近代では皇室ブランドが由緒として大きな価値を持つ。
・鉄道の重要性。販路が広がり、名物がおみやげへと発展する。業者間の競争や博覧会によって創意工夫が起こり、包装が改良されることでおみやげとなる。近世の伝統を受け継ぎつつも、近代の産物としてのおみやげ。

※追記:鈴木さんの講演について、後日別な会で同じ講演をされた際の質疑応答の記録をアップしました。是非ご参照ください。

討論(ここは敬称略)
小野寺(小):ここでは大きく3つのテーマについて話してもらいたい。1つめは歴博の展示に関連して、史料について。2つめは名物、おみやげについて。3つめは江戸の旅から鉄道旅行への変化で、変わったものと変わらないものにつて。

山本(山):如何に旅を語れる史料か、ということに力点を置いた。単に珍しいものばかり並べようとしたわけではないが、結果的には珍しいものも集まった。
 近代の史料については量が大事。どれだけ多くのガイドブックが出たのか、など。
 研究として集めたものだが、中にはノスタルジーをそそるものもある。また、面白いものを拡大してパネル展示にしようとしたが、著作権が問題。

小:江戸時代の史料についてはどうか。

西海(西):学際的な形で史料を読むことが今回できた。
 道中日記といえば、今回は自分が持っていた道中日記を使ったが(註:旅行中の日記が「旅日記」「道中日記」、街道全体を紹介したガイドブックが「道中記」)、女性の旅日記はどうしてウソが多いのか。他の同行者のものと付き合わせたりすると分かる。

小:近代については。

老川(老):個人が日記をつける習慣がだんだんなくなってきている。その代わり、雑誌などの活字媒体が増えてくる。個人の残した様々な記録もある。
 今回の歴博の展示では、列車の絵で表した時間距離短縮の展示が、編成の絵にこだわっていて素晴らしいできばえだった。

山:それは横尾さん(?)という鉄ちゃんの人ががんばって作ってくれた。歴博に行かれた時は是非見て欲しい。


小:2番目のテーマについて。食べ物の話が多かったが、食べ物=名物とは限らない。薬の話も。

西:自分は修験者で半分薬屋もやっているのでこの話題は言いにくい。「陀羅尼助」「陀羅助」を奈良で作っている。これがみやげに最適であるが、そんなに儲かるものではない。講中は、人数を集める代わりに値引きをしろと言ってくる。
 薬は嵩張らず値段もそこそこで、みやげ向き。講中にも色々ランクがあって対応が違う。薬と信仰については書けない裏話が多い。

小:鉄道とみやげに関して、食べ物以外のものはどうか。最近は名物の食べ物がどこでも売っていて、その場に行ったという証明にならない。

鈴木(鈴):食べ物以外は今回殆ど調べていないが、ただ、近世では食べ物はおみやげにならなかったはず。楊枝などはみやげとしてあったはずだが、それが明治以降特に発展したということはない。日本の場合、食べ物のおみやげに重点が置かれているが、それが疑問点。

小:それは今後の研究の重要な論点になる。
 江戸時代、みやげ物の持ち帰りはどうしていたのか。

山:業者があって、自宅まで送ることができた。江戸時代の宅配便。

小:おみやげについて、神崎さんからまとめを。

神(神崎):名物がおみやげになるのに鉄道が大事なのは確かなこと。しかし食べ物のみやげといえば、江戸時代にも伊勢の生姜湯のようなものがあった。生姜湯は腐りにくく、板チョコのようになっていて割って配ることもでき、おみやげだった。板チョコと同じなので、特許を取っておけばよかった(笑)
 江戸時代、名物とは現地に行った人が役得で食うもの。「名物にうまいものなし」というが、この言葉は本当は続きがある(註:七五調でずっと続いていくのですがメモし損ねました。すみません)。色気と食い気、色気がなくなってから食い気に移るもの。名物も改良されてうまいものもある、A級とB級がある。色気のあるうちは食い気はB級でいい。
 おみやげは、先ほども言ったように神様のお下がりのもの。参った人が多すぎて足りないと間に合わせで「土産品(ドサンヒン)」となる。
 薬は、神様が授けたようなフリで売ることに意味がある。薬が付加価値が大事で、信じて飲めば治るもの。薬については香具師がもう一つの流れである。寺社仏閣の門前ならそれで付加価値がつくが、門前で売るのでないなら口先でご託を並べて由緒をつける。
 薬はおみやげの源流の一つ。


小:3つめのテーマについて、各人から意見を。

鈴:おみやげについて見て、当初は近世から続いているのではないかと思っていたが、意外と近代で発展したことが多かったと感じた。
 一方、江戸時代にケンペルが残した記録と、2001年大英博物館展とで、日本人に対する認識があまり変わっていない。繋がっているところも多い。

老:神崎さんの「文化のDNA」という言葉が印象的。そのために日本では滞在型の旅が定着しないという。
 自分の話は鉄道による変容を強調したが、変わらないものも大事。日本の旅文化を考える上では、国際比較がこれからも大事と思う。

西:香具師の問題は大事と思う。
 講について。講は近世的伝統を引く講と、近代にできた講とがある。両者の違いは由緒を語るか語らないか。前者は語るが後者は語らない。

神:変わりやすいのは人間が主体でなくなるかどうかによる。自分で歩いて旅していれば今も昔も変わらないが、交通機関に頼り情報もネット頼み、となれば変わりやすい。しかし、人のやることはやはり、基本は変わらない。
 「裏」の話、「ただし」の後の話が出た。裏と言えば、もともと日記というのはウソ。誰に読ませるか意識している。江戸時代には日記のフォーマットがあり、それに則っている上はブレは少ない。しかし、文字にするという時点で、ウソとまで言わずとも書かないということはある。ただし、恋に比べると旅は隠さないことが多い。私的な史料とはそういうもの。日記をたくさん読んでみると、本音と建前が判別でき、変わる・変わらぬとは別の読み方ができる。

小:このことについて、西海さんから反論などはあるか。

西:反論はない。補足すると、現在史料から注目していることは、宿に泊まるのにタダの人とそうでない人がいる、ということ。職業などでタダの人がかなりいて、「裏」がある。

山:江戸時代の川柳「道行きに枕二つは首隠し」解説はしない。
 旅は出て帰ってくるものであるが、中には旅に生きる旅師という人もいる。この二つは区別するべき。
 皆さんの話を聞いていて、江戸時代に作られた旅のDNAは、今もそのままだと思う。表面は変わっても内容は変わらないのではないか。海外に行っても、そこで見かけたものをそのまま日本の習慣として持って帰ってきてしまう。日本人のエネルギーが旅に表れている。

 以上、なかなかに興味深いフォーラムでした。書き落としたことも多く、またその場の口調の面白さ(特に神崎さんの)をうまく再現できないのが残念です。
 歴博の展示にも是非行ってみたいと思います。

 長くなったのでこれ以上紙数を費やすのも何ですが、簡単に思ったことなど。
 面白かったのは、近世についての論者が「如何に近世で旅が盛んだったか」という点に力を置いているのに対し、近代についての論者はむしろ「近代になって如何に変わったか(旅が盛んになったか)」に力点を置いていて、そのズレです。特に老川さんは、講演要旨パンフで一段落使って近世の旅は色々制約があったと述べ、そこで近代の鉄道は・・・と話を展開されていただけに、実際の講演では前3方とあんまりイメージに差があってもと思われたのか、その辺の説明にちょっと苦慮しておられた観もありました。
 で、小生つらつら思うに、これはどちらも正しい、ということで良いのではないかと思います。比較基準が近世と近代で変わっていると考えれば良いのです。日本の近世は、前近代の社会(江戸時代=近世は既に広義としては近代とも言えますが・・・英語では early modern ですし)としては大変に旅が盛んだった、それが近代になって西洋の技術を導入し、更に盛んになった、ということで。
 小生は世界の旅の歴史にそんなに詳しいわけではないですが、確かドイツ帝国やロシア帝国では、20世紀になっても国内移動にパスポートが必要だった筈です。そういった社会と比較した場合、近世日本は(近世としては)旅の制約が少なくて旅が盛んになり、近代日本は(ドイツやロシアより)旅の自由があって汽車ができたら皆乗りに来た、ということです。
 つまりは最後に老川さんが言われたとおり、国際比較が今後の研究では大事ということですね。

 国際比較と関連しますが、江戸時代の「旅のDNA」が近代にも受け継がれたことはそうだろうと思いますが、そこで「普遍的」が売りの鉄道という近代技術とが出会った場合、その西欧由来の近代技術そのものにも、日本の「旅のDNA」が影響を与えたりはしないのか、という興味が湧きます。駅の設計であるとか、客車の構造、或いは列車ダイヤ設定のパターンなど、広い意味では鉄道企業(国鉄当局)の経営方法まで、どういった影響を及ぼしたのか、或いは及ぼさなかったのか。
 鈴木さんが講演で扱われたおみやげが、この両者の出会った一つの面白い例でしたね。やはり包装が大事・・・ふむ。この研究を深めるのには、ドライブインなど、自動車時代になっておみやげがどう変わったかも考えたいところですね。自動車の影響はもちろんおみやげに限らず重要ですが。自動車の方が行き帰りに色々立ち寄るという点では有用そうですが、果たして「旅のDNA」はこれとどう反応したのでしょう。

 いろいろ思うところはありますが、この辺で。
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by bokukoui | 2008-07-26 23:58 | 鉄道(歴史方面)